まさに、がっつを出さねえと。
薬も飲まずに眠っていて、目覚めて秋の虚しさを憶える。そういえば、嫌われる人間だったとか思い返し自覚して。明るいなーこの人は、と思いながら新聞以外の活字を読もうと思い少しだけ外出して読む。切り替えようと。 星野道夫さんの長い旅の途上をちらり、と読みやっぱり美しいと感じる。ふんふん、と思ったところ。 大人になって、私たちは子ども時代をとても懐かしく思い出す。それはあの頃夢中になったさまざまな遊び、今は、もう消えてしまった原っぱ、幼なじみ・・・なのだろうか。きっとそれもあるかもしれない。が、おそらく一番懐かしいものは、あの頃無意識にもっていた時間の感覚ではないだろうか。過去も未来もないただその一瞬一瞬を生きていた、もう取り戻すことのできない時間への郷愁である。過去とか未来とかは、私たちが勝手に作り上げた幻想で、本当はそんな時間など存在しないのかもしれない。そして人間という生きものは、その幻想から悲しいくらい離れることができない。それはきっと、ある種の素晴らしさと、それと同じくらいのつまらなさをも内包しているのだろう。まだ幼い子どもを見ている時、そしてあらゆる生きものたちを見ている時、どうしようもなく魅(ひ)きつけられるのは、今この瞬間を生きているというその不思議さだ。 ノスタルジックなところ。 今日も、太陽は、わずかに地平線から顔をのぞかせただけだ。沈んでいった夕陽が、少しの間、凍てついた冬の空を赤く染めている。やがて闇が押し寄せてきて、長い夜が始まってゆく。陽の沈まぬ夏の白夜より、暗黒の冬に魅かれるのは、太陽を慈しむという、遠い記憶を呼び覚ましてくれるからかもしれない。忘れていた、私たちの脆さを、そっと教えてくれるのだ。 冒頭。 まだ一歳にもならぬ息子が、黄葉が散り始めたベランダに座り、九月の秋の風に吹かれている。コガラがスーッと木々の間を飛び抜け、アカリスがトウヒの枝の上で鋭い警戒音を発し、風がシラカバの葉をサラサラと揺らすたび、彼はサッと世界に目を向ける。そんな一瞬の子どもの瞳に、親の存在などと関係なく、一人の人間として生きてゆく力をすでに感じるのはなぜだろう。そんな時、ふと、カリール・ギブランの詩を思い出す。 あなたの子供は、あなたの子供ではない。彼等は、人生そのものの息子であり、娘である。彼等はあなたを通じてくるが、あなたからくるのではない。彼等はあ...