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確かなことは、私たちは生かされている。(と書いてみたのだが、そこに疑問を持っている人の気持ちを考えていないと思った。)

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  ペーソスが哀愁という意味だと知ったのはいつか。 人には色々な側面があって、 話を聞いていたら、芸術にも様々な視点がある。 どんな形でも、 心が美しくて、優しくて、 どこか哀しくて。綺麗で。 そういうことに、私は惹かれたい。 無職になってから、随分知識的なことも学んだことが多い。疑問、から始まったことや興味があったこと。時間があることはいいことだ、と苦しんだことを忘れるなら思う。前半は無駄にした時間も多かったが、それはそれでいい。ぐーすかよく眠っていた。 今も私の時間はゆっくり動いていて、もしこの時間を抜けたらそこに対応できるのだろうか、と思うこともある。 どこかで、終わるのじゃないかと思っている。この時間が。望ましいことだ。 どうやって生きるのか、できるなら自分の心にそぐわないことはしない生き方ができたら、と望む。それができたら、とても贅沢なことだ。 さて、でも今は今を生きている。頭を休ませて、ギターの練習は楽しんで。明日は何をしようか、というのんびりさ。少し遠めのドライブにでも行くか。夜中なら陽が当たらないから釣りにも行ける。そんなことを考えると、やはりそうとうな自由時間だ。 自分が変われば出会う人も変わる、という。今までもいい出会いはあったけれど、もっと表面的にも自分を強くしたいものだ。もっと自信を持って。 今日途中から見たハートネットTV は良かった。人が生きる意味を知るとしたら。

この憎しみは恐れから来ているのだろうか、など思った。

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  理想と現実は違う。 そういうことを経験してきて、 心構えとして所持している。 いちいち、落ち込まないように。 という程、強くはないのだが、 泥水を飲まされて、 という程、ではないのだが、 冷や水をかけられて、はいた気がする。 そうやって、強くなれるのかは私には分からないが、 ある時から、そう生きて。 それで良かった、と思っている。 生きることができた、と。 そういう実感がある。 上記のように書いてみたのですが、思い出すと憎しみが湧くという今それを体験しました。色々なことがあったのですね。今、強いかというと、前よりそういうところは、弱いんじゃないかなと感じます。パブロフの犬というか、バックフラッシュのようにそういう場面に出くわすと起こされて、どうなるんだろうな。だからこそ、今憎しみが湧きました。勝てないからですね。 正直、幾つか結果が出て良かったな、と思っています。私の場合ですが、結果が何も出なければ、馬鹿にされたままでいたでしょう。未だに悔しさを感じることが何かにはあります。 というくらいで、今出た憎しみの感情からのことを書くのはやめます。 昨日は夜に長谷川あかりさんが紹介していたレシピのサラダを作って冷蔵庫に置いていたので、それをもしゃもしゃと食べ、いつの間にか眠っていて、朝の4時くらいに目が覚めて今しっかり食べないのはいけない、と思ってずっと保温にしたままの炊飯器の米をお茶碗につぎ、安くなっていた牛肉を焼いて食べ。また眠った。午後12時に目が覚めて、いつもなら眠り過ぎると、瞼が墓場鬼太郎の眼になるのだが少し腫れただけで気分も良かった。ただ、いつもの薬を飲み忘れていた。 それから、残った白飯とレトルトカレーを温めて食べて、ぼーっとしたり、SNS を見るがあまり考えるようなのは避けて、またぼーっとしていると気持ちが楽だった。殆どぼーっとするだけで、午後の5時半までいられた。何かしようとは思わなかった。 無職になって、時間が沢山あってその間詰め込んだスケジュールではなく、むしろそのあり余る時間に苦しんだことも特に前半多かったのだが、色々な道を歩んできた感覚になっていて。 私を体験してほしい、と思う。いいよな、と思う人は。いいよな、は確かにいいよな、なのだが。 また感情が引っ張られてきた。ブログがあって良かったものだ。吐き出し口がある。 ショートネコステの気...

悔しさもある。

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  夏風邪を引いたんだなと思うことにしている。身体のしんどさと心のしんどさが始まっていて、どうにかできないものかと考えていたのだが、今日いつもの週1回の実家の手伝いをしてその際昼食をごちそうしてもらうことがいつものことで。そこで家族と話をして、自宅に戻って今年2度目の冷房を使って昼寝をしたら、随分楽になった。 焦らないこと、と冷静な自分からちょっとだけパニックくらいになっている自分に届けたい。 こういう苦しみを何度か10年の間に味わったのだが、そうなってしまうとその時その時で脱出方法が分からない。旅に出るはいい気分転換だった。今も愛媛県内なら、いや四国内なら旅に出ようと考える。 いつもやっていることは、本を読むとかそういうことは2週間くらいはやめておこうと思う。また、読みたくもなるかもだが、大したこともしていないのに、オーバーヒート状態だと感じる。何かやばいぞ、と。 まだある焦り。力を抜いて。

一歩手前で。

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  年に4回は掌編小説を書くと思っていて、夏の終わりが近づく今その時間を普段作業をしている時間と本をただ読んでいる時間の代わりに充てようと取り組んでいたら、段々アイデアの始まりみたいなのが出てきて、考えているとその日の夜に苦しみが生じた。よくあることだ、と思っていたがあなどれないもので苦しかった。 今日はジムに行って、ウォーキングをしている最中にばちん、と頭皮の辺りが痛んだ。頼むぞー、と思い帰宅してシャワーを浴びてまだ行けるかもと思い外で小説のアイデアを出そうとその場所に行くと席がなかった。 ふと、熱中症の話を思い出して、まだ大丈夫と思っていると症状が発症したという話を思い出してやめておこうと決めた。 どうするかはっきり決めていないが、暫く作業も本を読むことも中止しておこうと考えている。今日は新聞は読んだが。そして、小説を考えることも。アイデアが出始めたのだが。 どこかに焦りみたいなのがあって、何かをしていないとと思ってしまうのだが、するならまあ、遊ぶかなということだ。愛媛県内を車で散策するくらい。 ほんとに、みんな忙しいのだなというのを感じることが多いのだが、私はこの時間を使わせてもらおうと考え。これから、本当にどうなるのだろうなということを思い浮かべる。私にとって小さい女の子はぴちぴちギャルで、小さい男の子はぴちぴちボーイで。すでに酔っているのだが。 幸せであるといいなー、と何度も思う。 何かしたいなー、と何度も何度も思う。 脳に持病を確かに抱えているのだろうな、と少しなのだろうけれど感じること。 私は詩人である、と思うようにして。小説家の方は何で精神的な病を抱えた人が多いのだろう、と今更だが思う。 酔っているのだが、言葉は脳の無数にある鍵穴にその記号をぶっさす、アニサキスは胃壁に先端をぶっさして寄生(しようと)するのだが、アニサキスは浮かんだだけだが。 言葉には力があるな、と最近特に意識するようになった。詩であるとか小説であるとか抜きにするとしても。気づかないところで、その言葉の影響を受けていたりもするだろう。 良い言葉、力のある良い言葉。もちろん、それ以外の悪い言葉があることも経験して知って。 そして、気づくのは最後のプライドは持っているが私はしょぼいな、と感じる。 それでも、しゃっきり生きたい。地道に強く。 これからのことは、謎だ。思うことが結ばれ...

一歩一歩、足を出して踏むことを覚える。

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  生きることは好きだ。 楽しい会話が聞こえてきたり、 夏休みを元気に見受けたり。 鳥が飛んで、空に三日月が出ていた昨日の夕方、 月は雲に隠れてゆき。 そんなことを感じて、 結構、自由に生きている。 ただ、この苦しみが。 歩みを止めると感覚する。 だから、歩くことにしている。 やることをやっていたら前に向いているような気がして、だからするようにしている。ずっとこのままということは、ないだろうなと思っているが10年という月日が経っていることに容赦のなさを感じている。人と話す勇気、小さい女の子を今でも意識してしまう屈辱、絶対に変なことはないが。そんな人間じゃなかったんだけどな、と思う。人として普通で良かったこと、普通じゃなくて良かったこと。 もし、思ったようなことができなくても、少しずつ積んできたことがあってそれをどこかのお子さんに伝えることはできる。そう考えている。 自分が本当にやりたいことは、大きいからいいということではなく。始まりは小さくてももちろんよい。具体的なことも考えていなくて、自分なぞにできるのだろうか、とも思う。もしできる状況なら絶対にやるけれど。そう思うようにしている。 今、積んでいることはパーソナルなことで、ただ考えるとパーソナルでも今何がやれるんだ、というくらいのところで。それでも、パーソナルなことは積んでいきたい。そして、実質的に効き目のあることがしたい。心に響いたり、心に届くということは極めて難しいことだ。私自身の経験から言うと、子どもではなく私のことだが、少しずつの語りかけと実行でミルフィーユが重なって行くように徐々に変わっていったということ。ばしん、と心に響いて急に変わったということはなかった。 そうだ、そういうことを考えて本を読んで何かやっている気がして生活をしている。希望も持っている。あと、子ども時代の楽しかった経験は力になる。それも大切に思っていたい。 まだまだ生きて、色々なことを感じたいものだ。

にんにん。と書いて、人人かと思い。

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  目がむくんで顔にアトピーが出ている。私が思うに精神科薬若しくは私の病からの影響かな、と。福祉の仕事を始めた時もぶくぶくに顔がむくむという症状が暫く続いた。そして酷いアトピーが出てずっとそれに苦しんだ。 ひょっとしてだが、私は本来あまり酷使をしてはいけない身体と精神なのではないかと、昔からと今も思うことがある。 これからを考えて、必要ならごり押しもする気持ちだが、特にやりたいことに関して少々のことはと本当に思っているが。 多分、病と薬の症状だろうな、と身に感じて不具合を思う。 ただ、そんな簡単に薬を変えるのは危険で、今は少々なので生活リズムを気をつけて暮らすことにしている。 今日も、ちょっと睡眠時間が長くなってぶくっとむくんだかな、と自分が考えるにはそう思った。そう感じる日がそれなりに今まであるので。 日光過敏症からの疑いもある。窓を開けて寝ているので朝、太陽光が顔にもろにあたりうんうんしながら、それでも寝ていたので。でも、これは最近よくあることだ。 だんだん、笑い話のようになってきた気がする。 日光過敏症も精神科薬からのことである。でも、必要な薬なのだ。それは間違いない。 カラマーゾフの兄弟を時々読んでいて、人が感じている3次元の認識についてもすでに、ドストエフスキーは感覚していたのだ、と知った。上巻をもう少しで読み終わる。残り、中巻と下巻がある。マイペースで読んでいるが面白いと感じている。 人間行動学の本もカラマーゾフを読む時にその次に読んでいて、サドいな、と、でもそうなんだと思いながら読んでいる。好奇心のある若い時になど読んだらサドい気持ちになって、悪い気持ちが出ていたかもしれないが、今の年で読んだので良かったと思っている。ある程度はどっちもあることを認識しておいた方がいいんだなー、と感じる。優しい子ども時代にそういうのを吹き込む輩がいたら、井戸の中に落とし、反省を暫くしてほしい思いがあるが。どこに井戸があるか知らないけれど。 いいんだろうか、こういうことを書いて。いいことにする。 今日の夕食はスーパーの総菜だ。あと、残りのゴーヤーの酢飯。ゴーヤーはいつぞやからか、一般市場にも出てきたんではないか、と思っており、夏に食べておきたい野菜になっている。明日も有賀薫さんのレシピでなんだっけ、ゴーヤーと豆腐のカレーだったかな、それにしようと思っている。忘れて...

変身。

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  今日は暑いな、と思い英語をさぼることにした。気力としてはできるのだけれど、もういいかと。明日は飲みに行くことにした。悶々とし始めている。 昨日は冷房を使ったが、今日は使わず。 何にスイッチが入ったのか、一人でとても楽しいわと思っていたのだが、悶々がももんが、始まっている。ドライブとか、やっぱ日帰りの旅に行くかな。美術館を目的にしてみるか。 冷房を使っていなく、気分転換と涼みに近くのコンビニに行く途中、カンガルーとかライオンとかが木陰でぐったりしているイメージが湧いてきた。暑いと少々だらだらしてもいいな、とあのものたちもそうなのだから、と。 ある女の子のあるアイコンが変わり、挑発~ちゃんだ、とハートをどっきんどっきんさせている。よい子だった。今もよい子なのだろうな、とノスタルジックな気持ちで、時間は経っていく。 とっくに人生の後半に踏み入れている。色々なことを知った。肌身に感じること、知識としてそうだったのか、ということ。 変な言い方だと、ものすごく頭のいい人。それに対抗するには、これも言い方がおかしいが。芸術の感覚の世界、が対抗できるのではないだろうかと、今思った。時々思っていたことだが。頭の良さではとても勝てない。勝ち負けをここで現すのもなんだが。でも、ひょっとしたら何かの世界、感覚、何かの力が働いている、領域は大分酔い始めているのだが。その人が持つ領域の感覚に触れるには、ただ、頭が良いだけでは不可能であるかもしれない。 頭が良い人は感覚を働かすことも理解しているから、そこも知っているのかもだが、到達点に触れるのは頭が良いというだけではないだろう。 お前はどうなんだ、と責められると今は言葉について情報を読んでカオスだが。感じることは、感覚することは、説明書きがあったとして、それ、感じます、というそんな喜びだ。ちょっと、それ感じていますよ、は快感だ。 間を置いた気持ちになって、人と話していて気づかされるのは、そういうこと人によっては不愉快なのだなと。暮らしがあって、生きている。それぞれの守る暮らしがある。 ただ、私は今体力があって感じたい。年を積み重ねるごとに何が変わっていくだろうか。そういう一方で君はいい子だね、男の子だって女の子だって。何かが変わると面白いね、と思うのだ。何かが変わる。私も求めていたことだ。