まだ、この寒さならオッケイ。


遺産
アンカレッジで開かれたリペイトリエイション会議に出席した。
"帰還"を意味するリペイトリエイションとはーー。十九世紀から二十世紀にかけて、世界中の博物館が古代の遺跡や墓から美術品を収集した時代があり、その中には研究目的で無数の人骨も含まれていた。持ち去った先祖の埋葬品や骨を返してほしい、というエスキモーやインディアンの人々の願い、その至極当たり前な要求は、リペイトリエイションという大きな流れになってアメリカ中の博物館を静かに脅かしつつある。
その日の会議のパネリストには、それぞれの博物館から考古学者が出席し、その中にはたった一人、インディアンの古老がいた。
私たちは学問の名のもとに、古代の墓を次々と暴いてゆく。が、その時、その場所に秘められた古代の人々の祈りはどうなるのか。謎を解き明かすということは、それほど大切なことなのか。
私は以前、古いトーテムポールの残るハイダインディアンの廃村を訪れたことがあった。かつて博物館が歴史的遺産の保存のためにトーテムポールを持ち去ろうとした時、人々は朽ち果ててゆくままにしたいと拒絶したのだ。風雪と歳月にさらされたトーテムポールは、苔むし、ゆっくり自然に返ろうとしていた。私はそこで会った一人のインディアンの言葉が忘れられない。
「いつかトーテムポールは消え、森が押し寄せてくるだろう。それでいい。その時、ここはさらに霊的な土地になるからだ」
目に見える物に価値を置く社会、目には見えぬ心に価値を置く社会・・・。リペイトリエイションはその二つの世界のぶつかり合いだ。
会議では古代という定義は何なのか、いつまでさかのぼるものか、という議論が続いていた。ずっと黙っていたインディアンの古老が静かに語り始めた。
「あなたたちは、なぜーたましいーの話しをしない。それがとても不思議だ・・・」
 会場は水を打ったように静まり返っていた。
                          星野道夫  長い旅の途上より

クリスチャンになって霊的な概念という物を意識、また人にそれが備わっていることを知るようになって、生きることに彩りが増した。また怒られるかもしれないが、間違っていない道、場所ならば、似た概念を意識しているのではないかと思う。つまりたましい、というところに触れているのではないのかな、と思う。
料理家の方や感じている方が言う様に、こころを込めるということは、つまりこころを込めた料理や作品はそこに確かに宿っているこころ、もしくは霊的な息が呼吸されているのではないか、と。霊的な息は今、私が勝手に思ったことだが。気付かなかったことや素通りしていたことにも気付くのかも知れない。たまに何処かの店で流れていた昔の曲を耳にすると凄いことが歌われていたりする。こころや魂について、とか。
私は貰ったのだ、と思っていて、ではそれをどうしてゆくかどう表現するのか。また、どんなことを大切にしてゆくのか。先を見通してみようとするが、本当にまるで分からない。どんなことが作品でしたいのか、どんなことをもっと知りたいのか。決めていることはもちろんだが、どう生きて行きたいのか。まあ、今まで生きた感じから感じてみると、その場その場でやることがあって、ぎゅうぎゅうしていて、あれ、いつの間にか、おじいになっていた、というのが理想なのかも、と思ってもみる。くれぐれもなんたらなんたらでのおじいにはなりたくないものだ。


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