年月が変わって、こんなところにいる。

いつでも、何か共通なのかな。響きが、
想い出なのだろうか、これは。
人の響きが、
響きは色彩なのだろうか、
震動かな。
言葉なのだろうか。伝うメッセージなのだろうか。
何処から沸き出でて、
せっかくメッセージを運んでいて、
簡単に傷付いて、無くなって行くことは、
かき消されて無くなって行く。
波に泡になって、海の波がすべて。
祈祷会で間違ったことを言ってしまった、と思ったので書いておこうと思う。
マタイの福音書25章1~13節
そこで、天の御国は、例えて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
賢い娘たちは、自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。
花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
ところが、夜中になって、「そら、花婿だ。迎えに出よ」と叫ぶ声がした。
娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。油を少し分けてください。私達のともしびは消えそうです。」
しかし、賢い娘たちは答えて言った。「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。」それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。」
そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼と一緒に婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
そのあとで、ほかの娘たちも来て、「ご主人さま、ご主人さま。あけてください」と言った。
しかし、彼は答えて、「確かなところ、私はあなたがたを知りません」と言った。
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。


今思ったが、イエス様は結構厳しいことを例え話で言うが、例え話だからわざと厳しく言うのだよな。心に戒めということだな。

それで、聖書教育の箇所、~みなさんは全員、聖霊を宿しています。一人一人が神殿です。神殿に常夜灯があるように、常に喜び・祈り・感謝の火を灯し続けなくてはなりません。から、私は上記のマタイの福音書の箇所が思い浮かんで(はっきり何処だとか、どういう箇所だとか言うことはできなかったけれど)、、つまり、さぼってはいけないんだ、と言ってしまったけれど。違うな、と思う。さぼっては、私はさぼり続けているし、まあ、それも確かに良くないのだが、私が感じていることは、天の御国の例え話から霊の目を覚ましていないといけないといけないのだな、と感じている。ある感度を感じているということ。突然その機会というのはやって来る、と感じる。小さいことや、大きいこと。普段から、聖霊の火、喜び・祈り・感謝の火を灯し続けることは、その機会を感じる、また準備を整えておくことになるのだな、と思っている。その感度。そして、その機会に自分は何を選ぶのか。そして、生きていていつの間にか、御国が来るときにどうなるんだろうな。マタイの箇所はなかなか厳しいけれど。私も全然できていないけれど。

さあ、聖書通読7回目をずっとさぼったままだ。時々、自分なりに感じたことを、ブログにあげて行くことにしようかな。通読の動機のために。怒られることも書いてしまうかもだけれど。常識的に自分が感じたことを。いつまでもさぼったままはいかんけんね。








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