ルカの福音書 1章から11章

 

イエス様が登場する福音書は文献とか牧師として訓練されていないと、ちゃんとは伝えられないだろうと思っている。自分なりに。
御使いガブリエルにより、受胎告知を受けるマリヤ。聖霊があなたの上に臨む、と。
処女であるマリヤは私はまだ男の人を知りません、と言うが、神にとって不可能なことは一つもありません、とガブリエルに言われ受け入れる。
何時だったか、昔に観たテレビで卵子だけでも子供ができる可能性がある、とあったのを憶えているが。その時は可能性で、今はどこまで解明できているのだろうか。
何より、そうして産まれたイエス様は力があった。イエスは医者なり、という讃美歌があるように病人を癒し、そして、高度な知恵を持っていた。そして、クリスチャンとして大事なところはこうした、聖霊に満ちた力のあるイエス様の本質は愛であったということ。
昔、子供の頃に母親から聞いたのは、かなりの重篤な病気だった人が、ある時医者が検査をすると、医者にも理解できない回復が起こっていた。という話、横で父親がそういうことがある、と言っていた記憶。
マルコ11章になるが、キリストがいちぢくの木を枯らす場面がある。空腹を憶えて、いちぢくのなる季節ではなかったが、葉のほかには何もないのを見て、「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」と言う。次の朝、弟子とイエスがそこを通りかかると、いちぢくの木が根ごと枯れていたという場面。
個人的な解釈だと、いちぢくの木にも意識が存在していて、細胞一つ一つにその意識が存在する。小さな命の意識で微細なもの。それをイエス様はその細胞の意識を負の方にベクトルを働かせた、という私の解釈。みるみるうちに、それら意識は死の方に向かって行った。
また、中島らもの小説で「ガダラの豚」という小説がある。題名を気にせず楽しんで読んでいたが、聖書から引用した題名だと後に知る。
ガダラ人の地にレギオンという悪霊たちにつかれている人物がいる(正確に言うと悪霊たちにつかれていたからレギオンという名前。もとは何ていう名前かは知らない)。悪霊はイエス様にひれ伏して、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願う。山の辺りに、豚の群れが飼ってあり、悪霊たちはその豚に入ることを許してください、と願う。イエス様がそれを許すと、悪霊たちはレギオンから出て、豚に入り、すると豚の群れたちはいきなり崖を下って湖に入り、おぼれ死ぬ。という場面がある。
難しいがこれも意識にも関係があるのではないかな、と思っている。悪霊の存在もあるだろう。そういう関係の中、豚の意識は崖を下り、湖に入って行く、という強いベクトルに向かう。あまり深くは触れる所ではないのもかもしれない。完全な個人的解釈。
お腹が空いてきた。中断、麻婆豆腐を作ろうと思う。

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