シンボルについて。

 

河合隼雄さんの無意識の構造という本に、シンボルの話がある。有名な仙厓禅師という老師が心を表した丸、つまり描いた円相。人間の心の完結性、全体性を示すものということもできる、とあり。これを心のシンボルとすることができるが、それによって心の意味を完全に言語的に把握しえたと思うとき、それはシンボルでなくなっている、と。ユング的にはただの記号になる。
また、創造過程に伴って、新しいエネルギーが自我にもたらされるが、それの運び手となるのはシンボルである。人間が文化的な目的のために、新たな心的エネルギーを使用しようとするとき、そこには適切なシンボル形成が行わなければならない。
人間の集団に適用して考えてみると、集団の中で創造的な能力のある個人が、なんらかのシンボルを見出すと、集団の成員はそのシンボルによって新たなエネルギーを湧き立たせることになる。
初期のキリスト教における十字架のシンボルが、どれほど大量の心的エネルギーを民衆の中に動かしえたかは誰しも知るとおり、と。
その反面、戦争中の日の丸が、どれほど多くの民衆のエネルギーを、無意味なことに消費させるに役立ったかを、われわれは体験を通じて知っている、とも。
シンボルによって無闇に動かされないためには、われわれはその意味を意識的に把握する必要がある。
ところが、シンボルの意味が言語化され、自我によって把握されると、それは活力を失い、もはやシンボルではなくなってしまう、と。

このシンボルの話を思い出したのは、最近話を聞いて、自分が違う考え方、とくに神様に近い概念について、違和感を感じ、そのままどこかで攻撃的な気持ちに心が動いて行くのを感じて、はっと、我に返るとまで言ったら大げさかもしれないが、かなり危険な自分の今持っているもののことを自覚した。大げさすぎる言い方をしたら、糾弾するような感じのもの。これはいけない、と思った。仏教とかそういうことも勉強してみようかな、と今のところ面倒なのでしないが思った。キリスト教にありがちな、と言ったら同胞者から攻撃されるかもと思うが、歴史的とか感じたことからとか、その側面を思う。キリスト教には確かに、それを感じ得ればそういうエネルギーがあるのだと思う。聖書は神様ももちろんだが、人間の匂いがとてもする。ある人はクリスチャンの問題を人間です、と言っていた。
昔、ブログで書いたがガンジーはあなた方の、キリストは好きだが、あなたがたクリスチャンは好きではない、と言っていて。
また、マザーテレサはインドのハンセン病の施設で、祈りの時間、イスラム教、ヒンズー教など他宗教の患者とそれぞれの祈り方で祈りの時間を持つと言っていて。みんな天国に行ける、と言っている。みんな神の子だ、と。
何を知り、何を選ぶのか。キリストはその時代としてはありえない蔑まれていた人たちと時間を共にした。

あつくなったみたいね。

はい、じぶんがおもわなかった、あーそうなんだ、という、こころのうごきになったので。

にんげん、めんどいねー。

ああ、というか、いつからか、まじめすぎているのかも。

ねこのかんしでは、へやはきたないけどねー。

さいきん、ましですけどね。

牛乳いっぱいそふとくりーむとかたべるとか。ねこもけっこうすきよ、そふとくりーむ。

ああ、せぶんいれぶんのはあちゅうがむかし、ついったーであげていたそふとあいすたべよかな。まっちゃばーじょんにしてみよか。

そんなこといいながらねこのよそく、でしっているのだけど、100ぷんでめいちょのひらのけいいちろうさんがかいた、みしまゆきおのやつかおう、とおもっているでしょう。

ああ。いつかひらのさんのぶんにふれてみよう、とおもいながら、てがでないので、100ぷんでめいちょはわかりやすいので。とおもって。

ねこはそういうまじめなはなしになってきたら、ひげのほうからしびれて、ねむたくなるのよね。あんたさいきん、ねすぎてないね。

きょうは、ながくはなしてくれますね。ねこのかいわじゃないみたいです。

あしたから、てんきがくずれるよ。あと、かるぼなーらたべすぎ。

きょうでなまくりーむをつかいきったので、しばらくたべません。

ねこのくちのにおいでにおったのよ。

とりゅふおいるつかいますからね。

せぶんいれぶんいってきたら。

そうですね。


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