薄闇に。
薄闇の夕時に、小川の上に冴える紫陽花が、小川の涼しさを
受け、流れ、この時を生きている。
命がきれいに映えて、
ただ、当たり前にその花の色々を咲いて、
一所懸命にというよりも、
今、この季節、ただ生きて、
そのことが強くもあり、綺麗なことなのだ。
少なくとも、人に見、映る、そして思ふ。
その紫陽花の様子は。
こうして、その人に与えた時の象りは。
自分が本を読むのはやっぱり、最初、文の才能がある、と言われてから本を読むこと、積読読みのことを教えてもらってからだな。要するに物書きなのだから、本を関係があるから読む、ということだ。もし、関係がないとしたら、だるい、と思って続かなかったかもしれない。どんなものだろう、と思って読み始めた筈だ。すっかりそのつもりになり始めたのも良かった。文学学校とかに通信で1年だけど試したのも良かった。手探りでも色々やってみるべきなのだな。ザルに引っかかる記憶は少しあいまいになっても残っている。あいまいがちゃんと栄養になっていることもある。詩もそんなに書いていなかったけれど、ことが起き始めてから、特に書くようになった。よく書くように、の始めは写真を撮ったその写真から、とその写真を撮った時の雰囲気からが多かったように思う。そのもうちょっと前に、応募した詩の、返って来た冊子に、しじん、という詩が1番初めのページに載っていた時はびっくりした。自分のことだと思って、自分のことを言っていると、でも、なぜかが分からなかった。詩人、という響きが好きで、よく頭の中でそれを響かせていた。
恩師の言った、考えを書いた本、というのは出所が確かなら、その人の授業を受けているということになる。大学に行かないその人の授業。そして、自分の興味のある授業を受ける。まだ、本を読む体力のある自分だから、しんどくならない位には読んでいくのがいいことだ。無意識にそういう栄養が落ちて行って、発酵して物書きにも生かせるだろうし、何かの考えにも生かせる(間違っただけだけれど、ここは生かすのままで)。そして、今はそういう本が好きだ。ブログを観て、いいなあ、と思う人は結構いるだろう。急に思い出すと、金原ひとみ、と綿矢りさ、さんさん、が芥川賞をダブル受賞をしたとき、いいなあ、と思っていたな。もうすでにその時、自分と関係がある、と思っていた。その目指すひとり、と。今は生活はまるで物書き、だ。堕落している気味な生活。大分、良い方には向かってはいる。神経質なところもあって、気になったり考えだしたりしたら、眠れない。どうなるか、と思うが、そうではなくてもいいが、いつにか母の妹おばちゃんがくれたNHKテキストの昔の詩を書くお坊さん、お酒を飲みながら昔の詩を書く。どんな感じか忘れたけれど、どこかにテキストあるはずだけど。誰だったかな。お酒はもうそこまでは飲まないけれど。あんな気楽にできたらな、と思っている。そうもいかなかったら、それでもいいし、やりがいがあるならそれでいい。性分がのらだけど。考え方だよな、今も十分自由だから。詩も書いているし。やることはやるし。また、書いたな。ぶつぶつと頭で考える癖もいいところはあるのかと思うこともあるな。悪い方に働くこともあるけど。でも、随分いいところに行っている。いい場所で考えている。
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