α6300

 

肺の感じが変だ。喘息の人はこういう感じなのかな、というのを今経験している。目も左が少しだけ化膿したのと、両目がアレルギーからなのか少しもったりしている。これも、肺の感じと関係があるのだろうか。念のため医者に行った方が良いだろうか。人生では少し前に肺の感じが喘息のようになってから、それまでにはなくて、今またそうなっている。抗生物質で対処するのだろうか。どうしよう、医者に行くべきか。酷く苦しくはない。熱はない。
暑くなり始めて、もう少し体力をつけておいた方がいいかな、と思っている。天気が良ければApeにまでは歩いて行くようにしている。ただ、それだけだな。順調に生活をしていたら、がた、と生活がくずれたり。今はそれらの中間より良い方向気味の生活だ。そういう、がたんごとん、で今までの生活を送っている。グラフで表したら、上向きが良いとしたら、結構上向きの線でがたんごとん、をしている。
母親が亡くなる前に、生活よ、生活が大事、と言ったことは、今の私にとって本当に大事で大切なことだ。
人と接することが多いとしたら、自分の不備のある部分、弱い部分を感じることもあるだろうが、今はほんのりそれを感じて、気を付けよう、と思う現在。まあ、しょうがないか、と言える今の状況だな。ありがたい。
本は本当に遅読をしていて、古賀史健さんの本、山田ズーニーさんの本をまだ途中で読んでいる。それは、ただ読むだけではなくて、ノートに要点など書いて行っているからでもある。現時点で、二人とも自分にとってこれは参考になる、という特にのところがある。書き物だけではなくて、私は大事なテーマというか要点がずれていることがよくあるのだが、そういうこととか、プロットのこととか。小説は筆力でねじ伏せていくこともあるし、最初考えていたことから、はみ出していって、どんどん広がって豊かに話しが変わって行く書き物ではあると思うが、論理的なところが、ましにはなったが弱い自分にとっては参考になるし、そのノートを見直して自分が気になったところなので、つまりは自分が不足したやり方だったりするので、少なくとも自分のやり方になかったところなので、気になっただけのところもあるけれど、そこは見直さなければいつまでもそれがない自分のままでもあるわけで。そして、それがどう自分に組み込まれて馴染んでいくか。自分のものになって行くのか、どうなるんだろうなー。と。結局、実際にせめて何かの形で使わないと自分も納得しないだろうし、やはり自分のものにならない。ノートには自分の考えは書いていないな。なるほど、という頷きばかりなので。

じぶん、ありふぁのやつ。

あるふぁ6300ですね。

そうそう、あろはるくねんなんでやねん。

ああ。

それでいいんじゃないの。

じぶんもそうおもいはじめています。

いまのかつどうだとね。きんじょでぱしゃぱしゃするだけだし。なんでやねんはけっこうできるやつだしね。ねこのね(ん)こりきでしゃしんみると。

そうなんですよ。ちゅうとはんぱにこの6300のことをあつかうというか、みていたのですけど。みなおすとけっこうやってくれているのです。

いつのひにかはまたおむかえしたらいいじゃない。

そうですね。いまあたらしいかめらをかうこともないと。あまちゅあですし。はたのさんのれんずとかみてちょっとてんしょんあがったけど。

あせらないあせらない。ひとあくび、ひとあくび。

そうします。ちしきもあんまりないし。

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前向きにいきたいね。