思春期に入ってやる気ないモードに入った気がするな。そこを回避するにはどうしたら良いのか。

 

喜びの総体があるとして、その喜びの類は、

風が吹くとき懐かしく

その風で思い出す、

人の跡形(あとかた)。

自分の足跡があって、その他命が溢れている足跡が、

あること。

子どもでないのに、それら足の音が、跡が、

楽しい子どものように感じられて、

元気だなー、と。

少しだけ何だけれど、いいなー、と口を開けて、

そんなことを思って馳せるのだ。

わたしにある、わたしの中にあるその命あるときどきの、感じたちに。


写真が難しい。画像が綺麗でこわい。それと取り扱うのがこわい。早速、私の皮膚の粉がレンズについている。冗談じゃない。
嬉しい。良い写真が撮れたなら幸せ。取扱いに慣れてきたら、いったろやないかい。知っている人の写真についての本が出版されれば、早速買おうやないかい。だとしたら、とんでもなく本気になる。
自分にお弁当を作りたい、と思ったことがあるが、めんどくさいと思って作っていない。出汁巻き卵焼いて、梅酢の唐揚げ揚げて、ふんふんふん、と思っていたが面倒だ。ただ、お弁当箱を開けて、ぺかー、と明るくなる気持ちは未だ体験したい、と思っている。だが、やはり面倒だ。自分のためのお弁当。野菜とかで彩られている。
私の母親は料理をちゃんと作る。そのためなのか、お弁当はちゃんとしたものが入っているが、かなり茶色いお弁当だ。中学一年の時のことだが、お弁当を持って行かないといけない日があった。私は若干憂鬱だった。すでに多感な時期に入っている同級生たちは、やべー、だせー、のとき。私は私の弁当が茶色いことを小学生の時からすでに知っている。
そして、お昼の時間になった。私はお弁当箱を開けた。そうすると、お笑いの世界に入った、あいつが私のリンゴが茶色いのを見て、掴んでこいつのリンゴ茶色い、と持ってふれ回った。ちなみにリンゴは塩水に浸けると変色しにくい、と母親に教えてもらっていて。お弁当もそのリンゴだが茶色かった。あとで、詳しいことをネットで調べよう。ちなみに、そのあいつのこと私は結構好きだ。
私は恥ずかしくて、お弁当の蓋を被せては開けて食べていた。ここからが、書きたかったことだが、一緒の席で食べていた女子。後に本格的なヤンキーになるのだが、どう見ても、綺麗なお弁当なのだが、恥ずかしいなー、と言いながらお弁当に蓋をしながら食べ始めた。漫画とかに出てきそうな話だが本当の話だ。そして、その女子がいい奴なことを私は知っている。よしのりがそいつのこと好きだったのも知っている。
そういういい奴らが笑顔で暮らしていることを、願っているんだぜ。
ちょっと懐かしいな。


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前向きにいきたいね。