今日は冷蔵庫にあるもんで、、から、マッシュルームハンバーグだね。

 

中野信子さんの脳科学からみた「祈り」という本がある。
少し紹介する。
脳の中で記憶を司る部位である海馬は、これまでにあったことを記憶するだけでなく、「未来にやるべきこと」「将来行う行動」についての「展望的記憶」もコントロールしています。
たとえば、「来週の水曜日に午後二時から〇〇さんと会う」予定を記憶していることが、展望的記憶です。~この展望的記憶をしっかり持っているか否かが、じつはその人の生き方にも深い次元で影響を与えています。それは、たんに「スケジュール管理がうまい」といったレベルの話ではありません。私たちが未来に対するヴィジョンをしっかり持ち、希望を持って人生を歩んでいけるのも、実は展望的記憶の能力があればこそなのです。~さきに「よい祈り」はベータ₋エンドルフィンやオキシトシンの分泌を促し、そのことが記憶力の向上にも結び付く、と書きました。すなわち、「よい祈り」は展望的記憶の強化にも役立つと考えられるのです。
そもそも祈りとは、本来、未来に向けられるものです。変えようがない過去に祈りを向けても仕方ありません。亡くなった方のことを祈る場合でも、私たちはその人の生命が未来に向けて安らかであるよう祈るものです。~
しかし、脳の仕組みから考えれば、ふだん「祈る」という行為をしていない人が一時的に猛然と祈ったとしても、そのことで脳に変化を及ぼすとは考えにくいのです。~脳細胞を育てるのは、筋力トレーニングをするのと似たようなものです。毎日少しずつ鍛えていく。~人間の細胞が入れ替わるまでには三か月くらいかかると言われています。~そこから類推するなら、一つのことを日々祈り続けるにしても、最低三か月くらいは継続してみるという決意が必要なのではないのでしょうか。脳に明らかな変化が生まれるまでには、それくらいの期間が必要なのかな、と思います。
清流が日々変わらぬ姿で滔々(とうとう)と流れて行くように、何があろうとなかろうと、日々変わらず祈り続けることが、脳の仕組みから考えた「よい祈り方」だと言えるでしょう。
日々祈り続けるにあたって、一つ注意しなければならない点があります。それは、脳の持つ「ルーティン化志向」という性質のことです。
脳というのは、ある意味でたいへん「怠け者」と言えます。というのも、「考えなくてもできること」をなるべく増やそうとする性質があるからです。~
したがって、祈りという営みについても、ルーティン化志向は強く作動します。つまり、平たく言えば「祈りは惰性になりやすい」のです。~祈りの時間が「惰性で行う、ただの習慣」に堕(だ)してしまいがちなのです。そして、歯磨きの様なたんなる習慣になってしまった祈りは、たいした変化を脳に及ぼすこともなく、願いも漫然として、「叶う」という状態からは程遠くなってしまうのではないでしょうか。
では、脳の仕組みに逆らって「祈りを惰性にしない」ためには、どうしたらよいのでしょう。
祈りが「無意識で行うこと」になってしまうからこそ惰性になるわけですから、祈りのたびに「意識の上にのぼらせる」よう心がけてみてはいかがでしょうか。
たとえば、一日二回、朝起きてすぐと寝る前に「祈りの時間」を持つとしたら、朝には「なりたい自分」「成し遂げたい目標」について集中して祈り、夜には「そのために今日、何が出来たのかを反省」そして「成し遂げたい目標のために、次の日にできること」を中心に祈るようにしてはどうでしょうか。
そのように”祈りの的”がきちんと定まれば、大丈夫。大切なのは、祈りという営みを「毎日やると決まっているから、なんとなくやる」退屈な習慣にしてしまわないことです。


結局、沢山になってしまった。こういうことから、以前行っていた教会の祈りの方向というか、それは脳科学からして見てみても決して間違ってはいないことが分かってくる。最近はないが、祈るときに上を向く様な方向に顔が持ち上がって、祈りが集中されるという経験があって。それは、聖霊体験だと思ったことがあったくらいから、時々あって。自分の勝手な分析からすると、組織のことではない。脳がその方向に反応し始めていたのだと思う。でも、最近はない。

今はクールダウンしている状態で、周りが今も見えていないこともあるが、どっぷりそうなっていた見えていない状態になっていたことが、地に着いたというか。もうちょっと見ようよ、というか。
ただ、それらの経験はずいぶんと貴重な経験なのだと思っている。何かを形作りもしただろう。

そして、現実世界の自分はムカつくところがあるやつで。ハブにされた経験も始まりはそういうところからだな。においもあったけれど。嫌われることが、転々とあるな。

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