言いたくなる。

 

セブンイレブンのピスタチオクッキーの包装を開くと一つ一つに包装はされていなかったので、全部食べてしまった。美味しかったので良しとする。
やること全然できていないが、寒いので良しとする。ブログを書く≒何もしていないので満足感を得る、ということが多いかな。温かいコーヒーは何杯も飲んでしまう。
写真のことは、写真をブログにアップすることが恐ろしくなるが、いや、ここはマイペースというか、自分なりに。
具体的なことを指摘しているのがすごくて。本を買ったとしても、いくらか読んでやっと大事なところが出てきて、しかもそれが大事なところだと気付かずスルーしてしまうような、ことが多分あるが。短く、知らないことをばしばしと。雑誌で時々あそこのカレーは最後にガーリックパウダーを足していてあの味になるのだ、の吹き出しがあって、やってみたら本当にそうだった、みたいなことまで、出てきたり。
のちのち参考にしていく。できるなら。
自分の領域は文章になると思っていて。恩師に文の才能がある、と言われてからそう意識的に生きてきた。
村上龍さんの13歳のハローワークが出版されたときに、父親が買っていて、眺めていると最後くらいだったか、小説家、若しくは物書きは、何だったかな、最後に考えるというか検討する職業だ、みたいな大分違うかもしれないが、書いていて。誰でもできるから、だったかなあ、みたいに書いていたのが、うる(うろ)憶えで印象に残っていて。
実家にいたときに、BS である小説家本人と小説の紹介が不思議な感じで、放送されていて、その不思議な世界に引き込まれて。芸術的なことは、思春期から、音楽の影響で好きになっていて。テレビを観ながら、不思議だ、と思っていた。まだ、浅かったかもしれないがその世界好きだった。
恩師が松山を出て、暫くして小説を書いてみた。自分なりに頑張ったのではなかったか。アイデアが今でも見て面白いな、と思っている。出版社側が自費出版を狙ったもので、賞を取った作品以外は自費出版をしないか、と声をかける何とか賞という、賞の最終選考に残る。自費出版はしないし、それについては商売っ気があるなと思っていたが、自分が書いた作品が、結構面白い、と感じていた。
恩師は私に小説よりは考えがある本を読んだ方がいい、と言った。今の予想だが、妄想型の私の特性を汲んでだったのかもと思うこともある。
私は文の才能がある、と言われたので小説も書いてみたし、やはり、小説とはどんなものなのか、を知るために、小説、特に現代作家の本を読み始めた。不思議な空気感、世界、小説ならではの目茶苦茶さ、またそれを想像すること。その世界に引き込まれ浸ること。小説のある基本かもしれないが、その世界に逃げ込めるというのもある。今も感じるが、小説でなくとも本を読んでいるとその世界に行ける。おー、そうなのかー、私とかこう思う、とか自己と本の世界または文字の世界。そして、芸術点。昔、ギターの先生に技術よりも曲の芸術性が評価を受けることも多い、という話を急に思い出したが。文章の芸術性。これを書いてみると、恐れ多くなるが憧れの一つ。何と、それが日常に言葉を使う私たち、そこからスタートできる。芸術を試みることができる。もちろん、甘くない。しかし、どんなものかを知り、本を読み。詩を読む。不思議な感じ、それを知る。文章によりもたらされる感じ。自分もやってみたい感じ。そんな感じで小説を読み、詩は多くは読まなかったが、最初に家にあったリルケの詩はよく読んだ。長い小説はかなり、体力がいるので書けなかったが、短い小説や詩になるくらいの話は書いたかな。思い出すと、小説を読んでいて、力不足を感じたので、自分に溜めて行こうと思い、主に現代作家の作品を読んで吸収していこう、と意識的にアンテナを本当に張って読んでいたと思う。今もできていないが、その頃から付箋を貼って、ノートかパソコンに自分が感動した表現や凄いと思ったことを、記していったら今でも見返すことができるし、かなり戦力にもなったのかなあ、と思うな。無意識の領域のことを考えて、それでも私にその感動したこととか、栄養になっていて、発酵して力になっているのではないかな、と思いもする。今から始める人は多分、自分が凄いと思った表現や話の持って行き方とか、ブログやノートに付けておくといいと思うな。早く戦力になるというか。
そして、書くことで溜まったことを研いでいくというイメージで、書くんだろうな。今は大分どうかな、よく分からん感じになっているが。小説を読んだあとに、その人の文章に影響されているということは、結構あったと思うし。綿矢りささんもそう言っていた。意識的にふざけている時は、まねもしたし。作り手側になって読むをよくしていて、ブログとか始めて自分の世界も自分宛てに作ったかなあ、とうーん、思って。そういう、栄養が自分に溜まったとしたら。一時期はだけど短い話は、手始めは箇条書きね。考え付いたこと、スターバックスにいたとしたら、気になったガラスの向こうの風景、それによって灯った感情をつけ加えたり。想像を付け加えたり。どんどん、ノートに箇条書きで書いて行く。その感情に引っ張られて話ができたり、箇条書きが繋ぎ合わさって、話ができたり広がったり。その箇条書きによって別の話が湧いてきたり。だった気がするな。それを暫く置いてまたアイデアが出てきたり。
特に詩を書き始めた最初は、写真で詩情を灯していたと思う。自分が綺麗だと思った風景や一場面な訳だから、気持ちも出てくる。写真だけでなくとも、綺麗な一場面を目にして、うわー、と思っていた思いを言葉にする。要するに古賀史健さんの感情の翻訳だよな。私はそれまで文章を意識的に書いたりしてきたから、だんだんと詩にすることができたと思っている。撮った写真の風景とか様子とかを眺め想像しながら、ここ良いね、と思ったら、そこの感じを言葉に、詩にしていった。撮っていた時周りの感じとかも憶えていて、その感情をまた言葉にする。自分のアンテナに伝わってきたことを材料に。色とか先に観えた風景とかそのまま言葉にもしていた。とっかかりは、自分に印象的なその感じ、時。一場面、写真とかのその写ったそれ。考えれば、感情の翻訳は難しくて、そのままのことを言葉にもしていたか。しかし、そこから詩情が灯り、その場面により想像力が灯る特に最初の詩を書いていたときかな。時間がある人は面白いこと探し、いいね。何でもない、日常の近所か、ちょっと遠くか、歩いて、自分にとって面白いことを写真に撮って、想像を広げる。
詩とか小説とか書き始めは自分はそういう感じだったと思う。あんまり、ずばっとこれがいい、とは思いつかないし、思いついてもそんなには言わないと思うか。でも、言いたいのは言いたくなっちゃう。今があるからだな。新聞と考えがある本についても、自分にとってはどういう関係だったか書いてみたいけど、もういい。小説についても、こんな凄いと思ったことがあったんだ、と書きたかったけれど、どんなことか忘れたな。記録つけておくべきかもな。あとは、凄いと言われている人のある方向からしか見ていなくて、違う一面を見たときの、やっぱり、すごいのだと思ったりすることとか。ある方向からでも十分凄いのだけど。
もう一つ、テレビの俳句のプレバトは一時期観ていたけど、語感を養うということでは、いい番組だと思っていますね。俳句のルールとなると分からないことも多いけど。語感、ではよく理解できるその感じ、というのを思っていた。観ていた途中から俳句の方のひねくれたというか、おたくてき語感に行きだしたか、と思うこともあったけど。むき出しの語感を感じていました。

コメント

このブログの人気の投稿

こころの呼吸。

深夜のゲームセンター、昼間なら行けるか。

前向きにいきたいね。