取柄あり。

 

何かおかしいところを持っていて。

そんな自分でも才能みたいなものを持っていて、助かっている。

のように、変なやつだけれど何か才能がありそうだ、と。

20代の頃、新聞を読んでいてその記事があったことを憶えている。

挫折後、20代。まれにそういう記事を見かけて、

なぜか、自分に言っていると感じていた。

10代の頃は、自分のできない間抜けなところを、敢えて馬鹿になることで、ごまかしていたところもある。まあ、でも本当にあほそのものでもあった。20代、自分でも言っていたが、あの挫折をしたのに、ぴんぴんもしていて、あほさを保っていた。(いや、しかし、結局人との対面の時はそうでもなかった。変わって行ったのだな。)まあそれなら、今も一人でいる時は、あほさを保っている。人と対面した時は、もうその私ではない。私としてもその方がいい。兎にも角にも、挫折後、一時は放心状態であったが、ぴんぴんしていて。でも、心の奥は何かを訴えていて、ある夜に眠っていて心の奥が苦しくなって、目が覚めて奥にある苦しみのような何かを吐き出したくて、パソコンにそれを打った。どこかに通じたようで、それから暫くして、ある夜ネットの攻撃のようなものを受けて、私は発狂した。その中に、友達が褒めていたよ、でも歌詞にしては短いなあ、という文言があって、憶えている。私の吐き出した文章のタイトルが歌詞だった。それから、2,3年後か、地方紙のリビングまつやまとか、リック愛媛だっけか、そういう無料配布の紙の欄に坂村真民さんが詩を書いていて、その詩の中に、私を本当の詩人にしてくれ、と書いていて。私は自分のことだ、と思うことが病的なところも含めてあることが多かったのだが、そうだな、20代のその自分はあの自分の文章を見て、真民さんが感じてくれて、まあ気持ちとして本当の詩だ、と思ってくれたのかなー、と感じた。もちろん私は坂村真民さんも本物の詩人だとずっと思っているが、言い方というか、詩に感じてくれて、私を本当の詩人にしてくれ、こんな詩を書きたい、というか。偉そうだな。でも、その頃の自分は真民さんのその詩をぱっと見て、私の文章に感じてくれた、となぜか感じたのだな。また偉そうな言い方をすると、感銘を受けてくれたのかな、と瞬間的にそういう物を感じた。本当に感覚的、瞬間的に。
でも、自分の感じたことはそうじゃないことも結構あるな、と今は経験しているので、そういう風に感じた思い出だな。
まあ、大分偉そうというか、失礼なやつだな、とネットの先の方たちにそういう振舞いをしている時がある。私が暮らす現実はまだ修行の場であることは、嫌なこともあるが良かったな、と思うな。でも、やっぱりせっかく書いた話とか、大切だし何かの形になってお金も稼ぎたいと思うな。嬉しいよな、自分の書いた本が本屋にあるとか。やりがい、の意味ではブログや、スマホのメモ帳とかに書くことも、時々世界を見渡したら、何かの形になっている、とかに気付くとやりがいと言えばやりがいだ。あんな、自分が今ある自分でいられる。哀しかったことや、みじめだったこと。それも、経験で、今のような状況になる前でも、あそこで心あることをすることができた、という思い出もいくつかある。逆も残念だがあるが。それが自分なんだなと。しんどいことも多かったな。今、元気はそんなにない。ほんと、マイペースで生きている。穏やかに生きてーな、と思うのだが、今までがそうでもないので、そうでもないのかも知れん。ただ、あんまりぼっとしていると、どんどん鋭さみたいなものが鈍感になって行くな、と思うな。がんばろ。大変な人いっぱいいるのは知っているが、自分はそういうのもう沢山よ。良いことが起きて欲しい。

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