木を見て森を見ず。文学の森。
手をまさぐる範囲で、情報を得、
自分のものにしたいと思う。
素晴らしい情報であったことに、後に気付いたり、
混じり気のあることや、私はそうでもなかった、
という結果を感じることもある。
生きていて気付くことは、幸いであるな。
蛙は外の世界に出たとして、
やべえな、と気付き、
何処かふんどしを締め直し、
やべえ、ふんどしおれはできない、と気付き、
その代わりにはちまきを頭に巻き。
自分ができること、自分でもできること、
を探すことにした。
生きる旅に出られる自由を手にしていた。
詩人、物書きである、と自分のことを書いたが、世間的なバッシングにびびっているくらいに臆病ものである。しかし、最後のプライドは保っていたいとは思っている。道化ものであったこと、しかして、結構そのものでもあるところは、あり得るところ。
そんな中、宮沢賢治の詩について、分析してみたいと思ったのだが、がちでやるのは難しいことを感じた。その頃の田舎にいる日本人が感じる情景、それを感じること。素直に明滅、という言葉が美しく感じられること。とにかく、よく感じていること。そして、それを現わす表現力。なんてことだろうか、難しい。ぱっと読んだだけだし。それを感じ取り、評価する側もすごいと思うのだ。でも、あるなそういうアンテナ、とは感じるようになった。自分ももうちょっと、文学について感じて、読まないとな、と最近思っている。一時期は頑張っていたが、考えが書いてある本が好きになってそういう本を読むことが殆どになって。この生活の初期は文学的な気分が今思い返すなら、あって、そういうものを感じ纏(まと)っていたような気もする。思い返すと、気持ちいい、書いているあの時間。最近より、あの頃が思い出す限りあの気持ちを纏うことができていた気がする。できるならまた、あのような気持ちになって。
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