蒸し暑い日。

松山は蒸し暑い。写真は今日の物ではない。蒸し暑い夜は蛍が出る、と天気予報で聞いたので出るかな、と川べりを歩いたが今の所出ない。まだ、早いか。
年を経た人の知恵、というのは知っているつもりだ。ちゃんとして生きてきた経たものがある。その上で言いたいことが言えそうな場なので言っている、とまた言い訳をしておく。
さて、そう上手く行くわけねえんだよな、と、このゆるい生活でも知るわけで。仕事しながら書き物していたら、もっと色んなことがあって怒りでとかマウンティング(最近よく言われるのかな)されてとか、いらぬ感情の浮き沈みをもろに経験しているかもしれない。そんな中、このゆるい生活でもやることが手に付かなかった訳で。途中からそれにかこつけてだらけていたのだが。昨日何かは美味しいもの食べて、ぶれない良さに驚愕しながら味わっていた。元気出たなあ。くせになりそう。
また、今日は相変わらず短いながら書き始めてその時は気持ちというか乗せることが出来た。見直すと直すべきところはありそうなんだけど。
外は雨が降ってきたな。
水曜日に祈祷会に出て、良い時を過ごすことができた。私は前の教会で異言を求める祈りの時に、どうしたら良いか分からなかったので映画のマトリクスのパソコンの画面の様なシーンで文字や数字がばーっと沢山降りてくるあのイメージをしながら、神様にも祈って出てこい、と祈っていた。経験してみたかったのだよな、異言を。ここも聖霊を求める祈りと同じように、何かを得られるかもしれないという、自分の欲があった。
恍惚とした状態だけでは駄目で、霊的に祈り、また知性で祈る、という締めだったのだが、そして異言は大切、ということも。車の帰り、ふっとキリストに頼りたい、頼ってもいいんじゃないか、という思いが無理やりではなく、きらっと過った。きらっと、通り過ぎたような思い。今までそうじゃなかったのか、というと、そういうつもりではいたが、と思い返す。自然な何かが通り過ぎて行ったような。あくまで、無理にではない。だから自然なことに任す。そして、それは目の色が変わるような人間的なことではない。私人間だが。
今年で聖書を通読するのは7回目。読んでいて良かった。奥が深い。
人は霊的な存在であるというのも実感している。そして、知性。聖書からそれらを得ることができただろうか。ちなみに小さい頃観た番組で、象も霊的な観念を持っていて墓場があって亡くなる時はその場所に行く、という場面を観た記憶がある。
何年か前、新約聖書を大学生に配っていたら、うわー聖書、重い。と言っていた。そうだな、確かに重いかもしれない。私の若い頃も、私にとっては人生がこんなにも深くて、重さがあるものだとは考えられなかった。だから、何かがもう私にとって聖書と私に通っている気がするのだ。違うかな、聖書から何かが私に通わされているのか。分からない、今だけの思いで言うと最近の言い方で同期しているのかもしれないという感覚。まあ、まだ全然か。上手くまとめて書けなかったな。読み直して、同期は違うな。
以前の教会には感謝しているし、沢山のことを貰ったけれど、きらっと過った思いは本当にその時感じた何かが通過したその思いがあって、つっかえていた物がその一時キリストに頼ってもいいかもしれない、と思えた一瞬だった。ずっと何処かでつっかえた物だったかもしれない。やっと今になって、ということなのか。


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