たんぱく質卵2つを加える予定だ。
子供が去って、私もふらふらと、歩きだそうとするとまた、側の植林の下でその猫が佇んでいる。ふんん。
まあ、いいか、とふらり、と歩きながら考えたのだが、安心感が得たかったのだろうか、と思った。貰ってもらうまで考えていなくても、側で安心感が欲しかったのではないか、と。猫は昔から人間との関係が深い。もしかしたら、その意識の中に安全な人間ならば側にいるだけで安心感を得ることができるのではないか。
そういえば、またケースが違うのだが半飼い猫のフランク・カッパも私はよく歩きながら、手を挙げて好意を示すことが多いのだが、ある時、ペロティを出して封を切って、ほら、と差し出すと少し舐めて、こういうことじゃ、ねえんだ、と私の足に何度も頭突きをして、私の顔を見上げて鳴いた。いらないのか、と私が歩きだすとずっと付いてきて鳴いてくれた。ほれ、なでろ、と身体も差し出してくれる。なるほど。
ちなみに、私は獣医になりたい、と思っていたことがあって、しかし、勉学が不足していたのでなれなかった。動物へのマインドが優しく、なりたい、と思う学生さんがいるならば、ぜひ、勉学に励み、長い眼で見たら一時苦しくても一生ものなので、挑戦してほしいものだ、と思う。私はその時大切なことを知らなかった。
歩きながら、ふらりとして私はうざいのは変わらない、と思ったりして母親が、私とお父さんの子だから、と言っていたのを思い出す。ああ、それでも今があっていつまでもこうしてふらりふらりとする時間があればいいのに、と思ってみたが、今書いていてその時間があることは大切でありがたいことだが、その場合ではないこともあるな、と気を引き締めないと、とも思う。偉そうにもなり過ぎだしな。気持ちがいいんだけどな。
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