明日返しに行こう。

図書館で借りた、河合隼雄さんの本、明恵 夢を生きる、をやっと読み終えた。
主に明恵上人の夢からユング派として学んだ筆者が分析、また自分としての考えを書いて行く本だった。
はっきり覚えているのは難しいが、結局、私として残ったこと。その頃、仏教は無意識下に潜って行くことが多いこと。その無意識に潜って精神が崩壊するものがいたこと。他の本で見たことは、無意識に潜って戻ってこれないことがあると読んだことがある。正しくない記憶かもしれないが、それが精神的な療法にもなること。
明恵は修法の最中に手洗いの桶に虫が落ちたと思う、というと、調べると本当に蜂が落ちていて助けたこと。他の例もある。
テレパシー現象は極めてまれであるが、時に生じる、と書いている。
科学者、哲学者、宗教家など簡単には分類できない世界最大の「霊媒」として有名という、エマニュエル・スウェーデンボリという人。カントは彼を高く評価している。スウェーデン・ボリがストックホルムの火事を、遠く離れたゴッテンベルグから「見た」体験。その体験をカントが報告したのをユングが詳しく紹介したということ。
土曜日の夜火事が起きたと言い始めて八時になって、火事は消えた、と言って、政府の役人がそのことを聞きた出した。彼は詳しく語った。月曜日の夜メッセンジャーが来て、火事のことを報告したが、その様子は先に語ったことと全く一致していた。
意識の在り方について。
スウェーデン・ボリを絶対知識に接近させた意識閾の低下が存在したと、想像するとのこと。
無意識の精神にとって空間と時間は相対的であるように思われる。つまり、空間はもはや空間ではなく、また時間はもはや時間ではないような時、空連続体の中で、知識はそれ自身を見出す、と書いてある。
無意識が、意識の方向にポテンシャルを保ち、発展させるならば、その時、並行事象が知覚されたり「知られ」たりすることは可能である。とのこと。
人間の通常の意識では、その場に居合わせて見ていたものしか知ることはできない。ただそこで特別な「意識閾の低下」を生じたものは、その場に居なくともそれを「知る」ことができる、とユングは考える、という。

西洋の近代に確立された意識は、仏陀の狙いとはまったく逆方向に発展させられたもので。そして、それは鋭利に研ぎ澄まされて、多くの現象や物質を切断して分類して、自然科学の体系を作り上げてきた。自然科学の成果があまりにも強力であったので、現代人はそのような意識こそ、唯一の正しい意識であり、それによって把握される現実こそ、真の現実、唯一の現実と過信するようになった、と書いている。
ユングは時に「心」の次元を超える領域として類心的領域(サイコイド)と呼んだ。(サイコイドが名前がかっこいいから書きたかった)フロイトが扱っていたのより深い層の無意識の存在にユングは気付いたとのこと。

自分のための記録ほどではないが、書いておこう。こういうことの興味の匂いもあって、気持ち悪い、とかも言われる理由の一つかな。

親鸞の夢、とあって。

六角堂の救世大菩薩、顔容端正の僧形を示現して、白のうの御袈裟を服著せしめて、広大の白蓮に端座して、善信に告命していわく、
行者宿報にてたとひ女犯すとも
我れ玉女の身と成りて犯せられむ
一生の間、能く(よく)莊厳して
臨終に引導して極楽に生じしめむ

親鸞は性の問題と対決し、回答を得ようとして、六角堂で百日の参篭にはいり、九十五日目のあかつきに、示したような夢告を得たということだ。
救世観音は愛欲を断てとは言わなかったばかりか、もしお前が女犯するなら、自分は犯される女性になろう、と言ったというのである。
明恵もそうであるが、僧の性との対峙がいかに大きいかも書かれている。

私も人の性ということの関りの深さはよほどでないと、断つことの出来ないものだな、と思う様になっている。ある時の全くの性への欲がなくなったとき、これは楽だ、と思った。1つ手放すことができたと思い返す。しかし、生きている以上、関わって行くのだな、と思っている。なぜかは分からないが、敏感さはいまだあるが、通常の域に戻ってきたかな、と思っている。いや、わからんな、結局敏感なのか。今さらだが、私は普通な方と思う。プライドもそこにはあるしな。

憶えていて気になった箇所はここらへんかな。

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