何でもない日々。でも、何でもなくない。みんなしんどくても頑張っている。ちょっといいこちゃんな言い方だが。



この頃、米を沢山食べてしまっている。沢山食べた初日は食べ終わってから、気分が悪くなった。普段食べている米の量を明らかに越えていたからだろうか。次の日お昼に吉野家で久しぶりに食べたのだが、牛だくのカレーで、カレーの大盛と書いているのを頭の中でルーが大盛なんだ、と解釈して大盛りを頼んだ。頼んだ後気付いて、ああそうか、牛が大盛りでなくて、カレー、つまりご飯ごと大盛なんだ、と気付いた。もったいないから全部食べた。また、気分悪くなるかな、と思ったがならなかった。その日からお腹が空きやすくなっている。今、普段の気持ちになってきて、食べるのを少し抑え気味にできるようになってきているが、気を付けよう。体重は増えて、それからはまだ体重計に乗っていない。外食もほどほどに控えよう。昼は時間の短縮にもなって、弁当とか外食が楽だけど。お金の使い方もちゃんと気にして。しかし、コメダ珈琲をまた利用するようになってしまって、あー行くようになったかー、と父親に言われた。Apeもコーヒーだけの利用でもいいようなので、使ってみようかな、と思っているが、長居するのが申し訳ない感じがする。まあ、私の利用時間はだいたい2時間くらいで、最近はもっと短い。
私はアスリートのような人たちとは違って、本を読むのも遅いし、量も読めない。しんどくなる。それができる人たちはやはり勉強をする時期に鍛えてきた人たちなのだと思っている。もちろんその後も鍛えているのだろうけれど。許容量が訓練により、大きいのだろうと。勉強だけでそれを鍛えるのではないかもとも思うが。一度その容量の大きさを得ると簡単にはそれを失うことはないのだろうな、と思っている。妄想だが。
私は謙虚でなければいけないだろう。みんないいな、ずるいな、とまで思う強化をされた訳だ。だからという償いではなく本当に、こんなことができるかもしれない、と子供に可能性だって持ってもらいたいという思いがある。現実的な想像をすると、うーん、それどころじゃない子供が沢山でこっちも傷付いたり、とか上手く全体を上げて行くのが難しいかー。と今、部屋が汚い気持ち的に低空飛行気味な気持ちでいると、思ってしまうし、それを想像すると、そうかー、とふーっと思ってしまう。しかし、元気な自分を思い出して考えると何しろ、面白いのだ、責任はあるけれど、変化を遂げて行く手助けができることを思うと。一番は心を救うこと、安心感や宗教的でないとしても絶対的なよりどころ(絶対的な、は哲学的に考えると難しいかもしれないが、しかし、辛い時に思い出すよりどころ)。
何度も同じようなことを書いてしまうな。こうやって、ぶつぶつ確認やモチベーションを上げているのだろうな。


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