顔がむくむくするし、さーわわっとする。

 

桜が咲き始めた。心はそうではないが、肌の調子が悪い。だから、続いて気持ちがいらいらしている。心の芯は正常を保っている。気になるのは、注意散漫。もとから、そういうところがあったが、最近急激にそれがあって、結局もともとの自分のもので慢心して気を付けていないからなのかな。だといいが、何かある時はよく気を付けて、順序を考えて、落ち着いて行動したい。失敗はまだしていない。
今年の春は何か、そういうことがある。肌の調子に引っ張られてそう思うのか、しかし、肌の調子もここ暫くの春はそうでもなかったのだが。アトピーが急激に酷くなったのも、だいたい14年前の春からだ。

ちょくちょく、イエス・キリストの名でこういう調子の悪さを癒してもらえるよう、祈っている。イエス様のことが以前より近くなっているような気がしていて、それはなぜだろう、と考えてみる。CSのときに司会をして聖書教育の本も読んで予習しているから、それもあるだろう。ただ、組織による不思議な体験をしたから、というだけでなく、それ以外のことに感じる不思議なこと、感じを経験したから。それだけではない。様々なことがあって、経験し傷も負ったが、傍らにキリストがいたから。そう思って祈ることが時々だけどあったから。自然なこととして、そうして祈ったから。ひょっとしたら、やっと自分から扉を開けたのだろうか。もう少し、よく考えずに暮らして時々祈って、本当の信頼をしたい。心地を感じたい。


時々、スマホのメモ帳にメモをしたり、気持ちを書いたり、伝えたいことを書いたりするが、全部筒抜けはやめて欲しい。気持も本当に感情が湧いて、人に見られたくはないが記録しておきたいこともある。今はお酒も飲まない日が増えて、しかし、以前によく酔っていたときに人に失礼なことも書いたことがあると思う。そんなことも筒抜けになったら、酷いなーと思う。本当に失礼なことだからだ。
時々思うのは、まあ、どうなのかよく分からんと思うが、本当にお世話になった人に私はその人といる間、その人に失礼な態度をとっている、とふと思うことがある。ここ最近、ふと思うことがある。そして、その気持ちを過去に時間に流している。
少し、文句を言うと、私の疾患はいざというときに馬鹿にされる材料になる。結局、そうかと思う。恨みが少し残っているくらいで、時間と歩んでいて、これも少しずつ時間という川に流している。
今は人の集まりは苦手だが、教会があることはありがたい。深くではなかったら、人の雰囲気に触れることは心の空気の入れ替えにもなる。少年と少し関わることも。嫌われたらどないしよ。若い女の子のことは自尊心が傷つくことも多かった。年を経るたびにそうなっているのだろうか。渇きが残念ながら長いのだ。悔しくて、哀しいことの一つだ。端的に言うと、余裕が欲しい。こういうことだ。
こうやって心情を書くことは、デメリットもあるなー、だろなー、と思ったりする。ことがある。

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