クリスマスがやって来るぜ。

 

キリスト教徒だから、日曜日の礼拝に行く。

12月19日。

クリスマスがやって来るのだと感じる。

そんなに器用ではない繊細さを未だ持ちつつ、

そうか、クリスマスが。

キリスト者という渦中にしっかり、浸り流れ。


随分と昔に、神様の知らせを告げていた。

それが今でも随分、人に、私にも、

知らせを告げてくれている。

救い主、イエス・キリスト。

キリスト教の、キリストの教えの始まり。

少し不安に陥ると素っ気なく、すかす、というか、そんなところがある。言い訳はこれくらいにして。
今、コーヒーを飲みながら教会で貰ったパウンドケーキとクッキーを食している。うめえ、と思っている。右隣には裏返しになっていた、最初の福祉の職場でくれたミニチュアのメッセージ入りの木の椅子を表に返して、大切なことをよくないがしろにするな、と自分を思っている。
小学校の先生にはハガキのやり取りはここまでね、というはずだったのに、私は続けてしまっている。先生、年賀状は来年までにします。続けたかったもんで。
色々なことが自然になったらいい、と思っている。打ち解けるというか、自然な和解というか。すごく自然なこととして。私は本当は気が難しいから、色々なことの窓を閉めているのかもな、と思いもする。自然に気持ちよく窓を開いておくことができたら。まあ、人によるか。これも。そういう色々あって面白いのかもな。今の余裕なら言える。どうしても、逃げられない場所にいるって、大変だなと思うな。
幸せが、ええ。幸せになるのが、本当にええ。と、思うな。
以前よりは人のことを考えも、想像もすることができる。そこで、人のこと傷つけるか、ということもしていた気がする。しかも悪気なく。、と書き出して、またマイナスのようなことを書いているな、と思うな。生きていて思い出す何人かがいるのだな。
プラスを考えてみて。そうだな、誠実にはなったな。物事をいい加減すぎる様には見ないし、扱わない。もちろん、できないな、というときもよくあるけれど。今はちゃんとできたら、気持ちがいい。ああ、でも無理だなという感じを嫌な感じなく受け入れる人はすごいなー、自分は今のところできないなー、と思うこともあるか。あとはいやらしい感じというか、エロではなくて。変な意味がいいたいのではなくて、妙な感じを出さないように、そういう感じはもういい、と思うようになったのはいいところだ。正しくありたい。なるべく、そういたい。暴飲暴食がずいぶん少なくなった。動いていないし。コーヒーに幸せを感じる。紅茶も、普通のお茶も。その時間が結構好き。いい子ちゃんなところは今もある。ええっと、プラスなところ。料理は相変わらずレシピを見ながらだが、似たような手際があるのでそれなりに苦ではなくなっている。A型就労のときに調理のおばちゃんが教えてくれた、包丁は斜めに前に出しながら、切って行くというのは、そこで身に付いた。アプリでも包丁の扱いはそれだ。最近やっていないが、包丁のキャベツの千切りもまだそれなりに行けると思う。不安に陥っていないときの自分は意識をしたら、結構前向きになれる、ときも前よりはある。凄い人って、やっぱり凄いんだな、と色々をみたりして、気付く、分かる。それぞれの場所において。気付けて嬉しい。年の功はあるなあ、と思うことや。そういうことに気付いたこと。色々あったけど、今からもあるけれど、酷いことに陥り過ぎなかったら、いきているだけでまるもうけなのか、と。明るくいてえな。ただ、明るい、ではなくて。前向きで面白いことや人が幸せであるように祈れることや。ミラーニューロンということなのか。人が幸せなら自分も幸せ、と。そっちの方がいいな。もっと余裕もあって。思い返して感謝をするべきことが多い。神のなさることは、すべて時にかなって美しい。ただ、受け身ではなくて、そういうことを経験したいと、何かあってもそう思いたい。

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