人間失格はしていない。いつか亡くなるときに人間合格になりたい。

 

自分のこと。聖書教育の予習をしていて、最後の晩餐からユダの裏切りの話だったのだが。ふんふん。ユダがどういう気持ちだったかは実際のところ分からないのだが。イエス様が最後の晩餐でユダへ裏切りの指摘をするところ。私の若かりし頃。図太いところもあったが、なかなか、センシティブで大人はそういうの見抜く人もいる経験だけど。こういう指摘があったとき、自分はそういう頃の自分は、ごめんなさい、なのだよな。恩師に会ったときに、自分の失敗を話したとき、良い子だったんだよ、と言われた。悪いことを気持ちの上ではしたくない、というか見抜かれたくない、という気持ち。人間失格の話になりそうだけど。悪い部分も感じているけれど、それを見抜かれたくない。そういう良い子センシティブ。そして、実際悪いことを失敗をしてしまった。今もその流れにあるけれど、しかし、そういうことって、あるよね。という。人間は失敗する生き物で、良くなるためにわざわざ失敗は必要がないけれど、生きていれば失敗はあるだろうし。自分はなかなか、時たま耳にする大きな失敗をしているが。へらへらして、本当の自分を見抜かれたくない、も今からの視点で見るとあるのかなー。まさに太宰治の話になるではないか。嫌だな。どうなんだろうな、いや、色々あって、誠実になれたのだよな。まだ、せこいけど。色々あったからこそ、失敗のようになってはいけない、と思ったのかなー。だから、誠実に生きないと、と思ったのかな。そういう風に生きていたのかな。人がいい、はもとからでもあるし。でも、ときどき思うのだけど、狂気的もあるかもだが、センシティブでなければ、それはできないだろうな、というのを感じることがある。それだけの物を作り上げるのに、センシティブな感受性を持ち合わせずにそれはできないだろうな、と思う。だから、私も柔軟になるようにして、レジリエンス、少しはそういうのを鍛えられて、感受性を大切にして。この身に余る事柄を感謝して、肩の力も抜いて。ときどき、感じる「その時」を受け取って。ありがたく、生きたいものだ。ブログを始めたとき、嫌なことをあまり書かなかったのは、前教会にいたおかげだ。心の状態も良くなっていた。何か意図的に思って、書くのではなく本当にそれが事実だと思う。そこを後にしてから、色々なことを知り、また目線も変わった。昔、よく決めたことを流されてやめて、へらへらしていたけれど。それをするんだろう、と言ってくれたことを、いつか会ったときに、自分なりにやりました、と言えるくらいには、実現させたい。先は謎が多く、様々がストップしている。自分のペースでやって行こう。
ウクライナのこと。祈ります。

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