今日も平和、春
上を見上げたら、風に揺れる青もみじの陰に、
一羽の雀が、近く隠れていた。
A から S へとカメラの設定を鈍く変えていると、
上を見上げる。
揺れる陰にはもう雀はいない。
とても小さな、ふわりとした感覚だった。
犬は引きひもを引いて、子供は小走り。
グローブをつけて、速い球を受ける女性。
天気は晴れ。とても平和なる今日。
ちょっとだけ、調子に乗っているところもあるけれど、安定した気持ちで。上手く行くと、何やら良くない待遇を受けるようで。それでも、酷い時に比べれば大したことはない。結構傷ついたなと思う。その代わり、耐性もできたというか。と思うと、やはり傷つくのは嫌だ。苦しくて悲しいから。いやだねー。
美術館に行くようになったのは、そういうのっていいよね、と思うようになって行くようになって。行っている内に、すごい、とか、心がぐわっと動いたりする経験をして、自分はその絵を見てどういう心の動き、またどういうことを感じるのだろう、と思うようになって。本当に好きになった。写真は、山に写真を撮りに行ったりしている、という人の話を聞いて、そういうのっていいよね、と思って、その時はお洒落だな、とも思って、写真撮ってみたいと思っていた。そして、ブログを始めようと思って、介護士の仕事をしていた時に、GXR を買ったのだ。文章は恩師に、文の才能がある、と言われて何を言っているんだろう、と思っていたが、その時からプライドがどこか高くて、おれ本当は何か持っている、と思っていたので文章を書き始めたのだ。牧師さんがメッセージ中に言ったように、書いた小説が名前のないような文学賞に最終選考に残ったから、やり始めているのだ、というのもある。でも、自分が書いたその小説結構良い物持っている、と自分で感じてもいた。時々、だけど、あ、来る、と感じたことは来ることがある。競馬も昔、それを感じて万馬券と行かずとも、倍率の良いのを当てたことがある。まあ、自分の中の迷信くらいに思っていた方が良いが、本当に感じた勘は大切にしておいた方が良さそうだ、と思うようにしている。キリスト教は恩師のところで働いていた知り合いの方に、良い話が聞けるから、と紹介して貰って教会に通うようになった。傷心な自分は挨拶として、人と握手ができることが嬉しかったという。書いて、恥ずかしいが。礼拝が終わったら、握手で挨拶をしましょう、というのがあったのだ。今はコロナでどうもだろうが。教会を変わる1年前くらいだったかな、美人の黒人の女性に、お、美人だと思って握手をしたら、にこーって笑ってくれたの嬉しかった。キリスト教は聖書を読むようになって、深みに入って行ったかもな。本は恩師に勧められて、最初は家の本棚にあったリルケの詩集を手に取って、読んでいると何かは感じて。何年か経つうちに、そのすごさというか、リルケの詩の味わいを味わえるようになって行った。まあ、そういう思いで、そういうのいいよね、と思うなら、軽い気持ちでやってみてはどうかな、と思う思いです。生きる糧にもなる場合があるし。
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