憶えていること。

 

本を読む気にもならず、何もする気がないから、ブログを書く。本を読むようになったのも、恩師に文の才能がある、と言われてどういうものだろう、と思うようになって。やり直しのチャンスになるかもしれないと思ったからだ。そうでなければ、本を読むという習慣は身に付かなかった。そして、昔の自分の、馬鹿な自分のままだっただろう。今もそれが色濃く残っているけれど。余裕がないと、馬鹿な反応をするし偽善的な態度になる。よく嫌われる原因だ。今まで人間関係で失敗していた分、そんなに多くの人と関わろうとは思わないけれど。でも、優しい外国の人とは話してみたいな。普通に自然に話して、穏やかでいたい。前を向きたいな、情熱がかなり下火になっていて、何処かで希望は持っているけれど、脳の奥の方にその情熱はいるような状態だ。ただ、聴こえてきたルカによる福音書11章、あなたがたの中で、子供が魚を下さいと言う時に、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。が頭に残っていて、ずっと頭の中で思いを巡らしている。強くなったかと言えば、むしろ、あるプレッシャーがあった時、そこでなるかという時だけれど、心臓が小さく震えるように恐怖の手前になって、そしてでも思ったのはこのまま行けば、乗り越えられそう、と思った。でも、それはそこで終わった。昔、子供になる前に脳が振り切ったことがある。あることが、あった時に、自分はこだわりを持ち始めていて、適当でいいのにそれができなかった。そして、追い詰められて、ついにピークを迎えて振り切って、自分の声が聴こえて、ふらふらしながら、1階にいる家族の前で椅子に座って、自分の声の通りに言わされて、医者になる、と子供のように言った。頭ふらふらしながら。それから、まず子供になったんだっけな。順番を忘れた。医者になるんだ、と思って、勉強をしようとして、すると自分の色々な思いが溢れる。勉強に集中するために、その纏わりつく思いたちに触れないように。一点に気持ちが真ん中になるように気持ちを集中させる。それを何度もするうちに、もの凄い集中力が身に付く。そして、段々勉強の時間を増やして行った。その間、図書館に行ったことがあって、燃料電池の本に出会う。(ちょっと冷静になって医者になることが自分のしたいことなのだろうか、と思ったから、図書館で手がかりを探していたような記憶。この集中力を持っていたら、いける、と思っていた。)そして、当時、京都大学の学科に藻のようなそういう水中植物から水素を作る研究をしているゼミがあることを知る。そこを目指すが、父親のもういいぞ、という声にぱちんとシャボン玉が弾けたような感じで集中力が途切れる。集中力がなくなり、焦る。家族に怒鳴る。かなりきている。人に危害を加えるんじゃないかぐらいの時に、父親が医者に行け、と怒鳴る。心療内科に行き、薬を飲む。気持ちが落ち着いてきて、穏やかになってくる。しかし、集中力は途切れたまま。ここからは、あまり言いたくない。現在、自分の考えが相手に分かっているんじゃないか、と思い始めてから、もともとちょっと時々あったけれど、自分の思っていない、感情と言うか言葉が思いが出てくる。色々、良くない思いだ。そして、気持ちの中でごめんね、とか、違うよ、とか思うようにして、伝わってくれとか思っている現在。集中すればいいのだろうか。子供になる前だったかな、頭の中に色々な人格がいて、中には女の子もいたはずだけど、声だけの人格で、その子たちと友達になるようなこともあった。薬を飲むようになって、その人格は消えた。少なくとも自分では感じない。そして、あとで本を読むとその人格と友達になるのは統合失調症あるあるだった。そういう人がいるという説明。ただ、今時々現れる本体の自分では思っていない感情は何か関係があるのだろうか。まあ、兎に角、脳で振り切った経験で、恐怖を振り切るとどうなるんだろう、と思ったりしている。この状況が悔しくて乗り越えたいのだ。
強がりというよりは、気持ちをちょっと吐き出した気持ちで、今日は書いたな。こういう人間に普通の家族とか幸せとかやって来るんだろうか。本当に幸せになりたい。それと、思い出したのだけれど、集中力がある間、睾丸がめりめり、と上がった感じがして、その間性欲がなくなっていた。楽だな、と思っていた。そういう自分の体験から、人の不思議と、またイエス・キリストの癒しはこの世的なこととしても、十分にあると思っている。そして、私達の心には神様に繋がる鍵のようなものが備わってもいる、と思っている。多分、ある。そして、私には後天的な要素があるな、と。だから、何かは思われるかもだが、感謝して生きたい。心が落ち着かない時に、何かを書くと心が穏やかになることが多い。楽しく生きてーなー。今日は酒が飲める日だ。ブログでクリスチャンがお酒のことを書くのは、特に様々な人が観ている中で良くない事かも知れない。犬養道子さんも、無教会主義でもいいんじゃね、と隣で臭い息を吐く人の中で祈らないといけない時もあってみたいに、毒を吐いていたけれど。自分も臭い息の時あるけれど。なるべく、教会にいるようにして、駄目だったら無理をすることはないな、と心に余裕を持たしておく。責任を持っている人たちがいるけれど、自分はその余裕は持っておきたいな。でも、感謝しないといけないことが、かなりあるのだけれどな。自分なりに、できるところまででいい。

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