自分が思っていることを、できる幸せ。思っているようになって欲しい、願い。まじで。

 

ちゃんとした情報を聴いたり、観たりすると世界は問題が山積みなのだなと思った。ほぼ9割は人間の問題で、人は変わって行くし人間社会の問題だ。普通に日本で働いていてもそういうことがある。聖書を読んでいても、争いや人間の黒いところが憑依したように現れたり、その一方で人の義を保っていたり。聖書は義の書物だ、と言っていたのが印象的だった。今さらだが、読んでおいて良かったと。24歳で洗礼を受けて、教会にはただ人がいるから通っていた。そして、かなり馬鹿だった。今もそういうところを十分に感じるのだが、何というか人間的に馬鹿、は変えようと思うスタートラインで、考え方の(今思い出していいところもあったが。)馬鹿さ加減。忘れたのだが、いつかにクリスチャンになったことに納得がいくというか、もう自覚していて、腑に落ちていて。誇りにも思っていた。聖書を読むようになって、自分がクリスチャンであるという自覚を持っていたから、読み通すことができたのだなとも思う。自分ともう関係がある書物だからと。西洋文学を理解するには聖書を読んでいないとできない、とある人に言われたと、一人の牧師さんが言っていて。そうなんだ、くらいに聖書を読む時は意識していた。哲学や文学性が(他なんだったっけ。)聖書には含まれているとメッセージでも言っていて、そうかー、とも思っていた。働いている期間の前半、承認欲求というのが自分にはあって、自分の父親の職業を時々自慢げに口にすることがあった。今だから言える。あれをこじらせていたら、どうなっていただろうとも思う。でも、ことが起こる前のクリスチャンの私の人生の期間、私は前を向くことができていた。変えないとな、と思っていた。
私は不器用な所と、きちゃないところが3割くらいあって、結構嫌われることもあるなと経験している。嫌われるからだけではなくて、いかんな、と自覚し始めて変えんとなとも感じる。しょうがないところは、人間なのでしょうがない。あんまり無理することもない。
この無職の期間の前半、バイトをする自信がなかったので、A型就労がしたいとDr. に相談して、弁当を作る仕事にありついた。やー、大変で2か月くらいだったか、それくらいで辞めた。ただ、調理師のおばちゃんは親切で、キャベツの千切りの仕方とか、野菜を切る時は斜め前に出して切るとか、今でも身に付いている。その後、アプリを使用するようになって全く同じことを言っていて、へー、と思った。結構プレッシャーみたいなものを、感じていてまだ元気があったので、頑張ってもいたが、まあ間抜けな私で。仕事中は腕時計を外すので私のリストカットの跡が見えて、私は今さら気にしていない時期だったのだが。ある女の子がそれを見た、と近くで感じて、勝手に痛みを感じてくれたな、と思った。そこにいる人は色々あったのだろうな、とまあ勝手に思っているのだが、自分より精神力ありそうだな、とかいう人もいたが、人の痛みを表だってでもなく、感じることができる人は私にとって、人間らしいと素敵だなと感じている。私も実際痛みを感じている期間が、何度も書くがあったし。いつまでも、そんなの嫌だよね、といつまでも強く思う。
さてと、色々な世界があるとネットで齧るくらい知る。あんまりそういうこと気にせず、生きてきた期間が長く、その中で本当に人としての使命感を感じて従事している人の何とも強さと言うのか。自分はそこまで長く生きられるのか、怪しいなと思っているが、でも、やるからすごいとか、変な話期待があるから、するでもなくて。自分の思っている方向性とか、消えていない火であるとか、嫌だよねという思い。大切にしていたい。そして、思っていることをしたい。手伝って欲しいな、と心から思える人も結構いる。今まで生きてきて、素敵だなと思う人も結構いた。少なくとも今は、社長的な気持ちではなくて、手伝って欲しいと思う人たちが、必要だからと思える人たちがいる。まだ、まったく何も手もつかない状態だが、今の段階でこれくらいは言わせてもらいたい。これまでの経験で、こういうことを書くと問題が生じることがあるのだが、もう言わせてもらいたい。早く、そういう時が来て欲しいぜ。まじで。ちょっと、正直びびるけど。

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