忍者ハットリくんは、獅子丸が好きだった。子供の頃は犬派だったから。でも、影千代も好きだったなー。

 

目を閉じて、開けた時、世界が変わっていたら。

時々そう思っていた。

テレビは受動的だ。

本を読むことは能動的だ、と言われた。

目で追い、意識を発していないと意味を読み取れない。

頭の中で自分の声を響かせて。

私は完璧に近い人より、人間的弱さがある人の方が好きだ。

そこに優しさのある人が多い気がしている。

私は変わって行ったが、弱さは弱さのままだ。

恥ずかしいと思うこともある。

でも、それで優しいなら、人は優しいことを知ることができるなら、

それはそれでいいような気もしている。

何度か書いたが、血を流した時に正気に戻って、流しているお湯を止めて風呂場を出た時に黒い文字という感覚の悪意の声が聴こえていた。記憶の限り悪魔っぽい悪意の声だった。
もうちょっと、明るいことから話題を始めようと思ったが、記憶に残る印象的な経験だったので、反芻するように書いてしまう。
教会の方が亡くなった。綺麗な顔だった。自分の元の仕事柄と、この年になると人の死によく立ち会う。私は今のところだが、かなりの長生きをしたいとは思わない。もちろんある程度は生きたいけれど。まあ、ある程度で十分かなー、と今は思っている。この状況でくすぶっているからか、生命力がそこまでないからなのか。
子供の元気な姿とか見ると元気を貰えるし、おじちゃん、ありがとう、とか言われると、うおー、と生命力が湧き上がるような気もする。この前、小学生の男の子たちがコンビニのイートインで私の背中越しでゲームをやっていて、盛り上がっていて、声が大きくなったのだが、一人の男の子が大きい声出したらだめだよ、みたいなことを言って、静まったのだが。おいちゃん、世知辛い経験沢山してるし、ゲーム楽しむ声くらい気にせんで、と思って。でも、何ともいい子たちだ、と感じた。そういうことに幸せを貰う日々なのである。今書いていて、これはこれで幸せなのか、と。ただ、やっぱり元気がないのかな。私は若い頃は、子供のこと好きとか関わっていないし、そんな好きでもないかもな、とか思っていた記憶だが。教会に通うようになって、純粋な子供の心に洗われた、というか。こんなにも純粋なのか、と思ったりしていて。今は、心から幸せを願いたい思いだ。捻くれた悪い子だったら、どうしよ、とかも思うけれど。でも、実際はできるか分からないけれど、信じるべきなのかもな、その子の心を。漫画とか読んでいても、結構大切に育ててきた子でも、思春期とかから随分大変だったとかいう描かれ方を観ると、そうなんだろうなー、と思うなー。大変なのだね人と関わる、人を育てるとは。やー。何時までもなんたらしているべきではないな。
私は、15歳くらいの子供がいてもおかしくない年で。なんたらしている。考えると恐ろしい。どんどん老いて行くし、それは免れない。人に接する姿勢と言うか、対応と言うか、それがなんたらの大学生みたいな、話し方やそういう感じで。45歳だぞ。はー。
成功とかそういうことでなくとも、いつまでくすぶっているのだろうか。今は不思議と真に迫った焦りはなくて、日々を生きている。にんともかんとも。


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前向きにいきたいね。