改めて振り返ると、きちゃないことの世界って失礼だな。いい人結構いた。いつの間にか忘れるように。

 

話をしていて、自分の恵まれた状況に触れることがある。自分はその自分の中に生きていて、実際自分はその状況の中でこれまた生きていて。心がむき出しになっている、と思っていたことがあって、最近はましなのだが。心の鎧を着ておらず直でその物事を感じてしまう、という感覚。色んなことが始まって、知らない店員に「みちのり」(表現をぼかしています。)と突然言われた時は、恐かった。あ、ちなみにコンビニの店員でファンの男の子がいます。推し、と言ってもいい。何だか感じが良くて可愛らしいのです。
あとは自分の考えていることが知られる、と思っていることは顔に出ているのかな。色々きちゃないことも考える自分で、顔に出るのだったら考えないようにしようと、意識するのだが、そうする内に確かにこれは、きちゃない考えだなと認識することもある。言い訳すると、私はそんなには酷い考えはしないことが多めではあると思う。外に考えが漏れるではなくとも、振り返ってあの子に悪いことしたな、とか後悔することもある。そういう配慮ができたり、できなかったりするのが人間なのだろう。振り返ると、スクールカーストやきちゃないことも考えたりしたりする世界で生きていて。どちらかというと、そちらの方が普通なのかも、と思う。今は人と接する機会が限定的で、生き心地が良いと言えば、いい。それでも、その中で勝手に一人で苦しんでいたり、本格的に嫌われたらどうしよう、とか思っている。でも、ガス抜きをして、振り返ると私の不器用さや嘘や色んなことを取り除いて、真の眼(まことのまなこ)で頑張って見てみると、高校時代も大学時代もいい友達だったのだと思う。私自身もなかなか、問題ありなのだ。そういうところが、変われていたらいいなー、と思うなあ。気難しさやプライドの高さ、とか。
ブログをやっていて、自分語りの癖が生活でも出たら問題だ。今日は武道館のジムに行こうと思っていたが、寒いし雨だし風も強いのでやめた。
コンドウアキさんのおしごと展に先週の金曜日に行ってきた。勝手にメッセージのように受け取って最後の方はもしかしたら、でもどういうことだろう、とか考えながら美術館を後にした。可愛かったな。一時期スヌーピーが好きで、初めはスヌーピー確かにかわいいけれど、スヌーピーが好きであることに楽しみを見出していて。美術館のスヌーピーの展覧も行ったりしていた。かわいいものは純粋に好きだった。今もかわいいもの好きだが、以前ほどではない。ケアマネの時に便箋で届いた封筒に水色の服を着たピーターラビットの切手が貼っていて、かわいいなー、と思い暫くデスクに飾っていた。殺伐としたなかに、ふとかわいらしいものを見かけると、心が安らぐものだなあ、と今も思う。今殺伐としていないけれど。
これから私はどうなって行くのだろうな。理想のというか、自分が思う自分より、随分まぬけで、せこく天然であり。冬に頑張ろうと思った子供についてのことも、殆ど取り組めなかった。本を読もうとすると、頭がむいむいすることが多く、少しは読んだのだが。もっと本を読んでチューンアップしたいと思う(ここは宣伝というか、本を読むと良いことがあるよ、と広めたいというか。自分の好きなことでもあるので。子供の本ももっと。今、むいむいしているけれど。)。
基本的にマイペースで暮らせていることは、とてもありがたい。きちゃない部屋で暮らしていて、ふーんふーん、な素敵な暮らしではないけれど。ふーんふーん、な生活いいなあー。自分次第でそれもしようと思えばできる。
何かいいことあると、いいね。地味でいいから、近くに。

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