希望を持って。

 

痒みが痛さと伴って、

いらいらする気持ちを鎮めて行く。

書く、と気持ちをそちらに向ける。

定まって。これくらいの痒み。

気持ちを定めて行く。

私は祈りにも可能性を置いている。

眠り過ぎたり、夜にお風呂にはいらなかったりすると、痒みが酷くなる。何かに集中するとその痒みを忘れて行く。短い間だとしても、ペンを取り詩を書いて行くときも気持ちを落ち着けて書いて行くと、痒みを感じなくなる。祈りにも可能性を信じていて、自分の身体やそういうことになると、特に祈りを諦めたくはない。殆ど内容は忘れたが、図書館で大分昔に借りた本に、瞑想について書かれていて、ある人がこれは本物だ、と感じている箇所があった。ただ、その本物だ、という書かれた場面の雰囲気だけ憶えている。私たち一人一人の深いところにある鍵。私の勝手な考えというか意識していることは、そこに向こう側、神様の世界に繋がっている、という不思議があるのだと勝手に思っている。私はクリスチャンなので祈りにそれを託している。すぐに諦める一面も私は持っているので、しつこく祈って行きたい。そして、マザーテレサが祈りは私にとってガソリンというように、エネルギーが起こされるように。謙遜では全くなく、本物たちの祈りができるか、と言われたら、どうもそうにもできない、と思う。しかし、祈る。心の不思議、魂、霊的な感覚。少なくとも、人間にはそういう概念がある。全く、それが微塵も理解できない、その感覚がない、ということは多分大体の人においてない。人間は掘り下げると不思議なのだろう。いや、命は不思議なのかもしれない。生まれて生きて、朽ちて行く。戦争で簡単に死んで行く命があれば、私のようにそういうことを色々考えたり、しんどくなったらアイスを食べたり、これからどうなるんだろう、と希望を持っていたり。そうだな、急にはっと思うと、幸せになりたいな。まだまだ色々なことを知りたいとも思うし、しかしでも頭がついて行かない。SNS を見渡す癖がついていて、もっと落ち着けて一つのことを、本を読んだり、人の話を聴いたり。常識を知らなかったり。頭の回転が追い付かないこともあるし、後から遅れて気付いたり。人の希望とか見せてもらうと、気持ちが良い。でも、私は自分にも希望を持って、やっぱり自分の思うことがしたい。しかし、そういうことも全然頭に入って行かないのだよなー。もっと、実感が欲しいのかな。いや、それは言い訳のような気がする。あの自分がここまで来れた。優しかったかもしれないが、いやこれも人によっては違うだろうが、でもあの自分がここまで来れた。様々な計画、人による助け、組織による助け、やはりクリスチャンになったこと。私の考え方は日本型クリスチャンかもしれないが。一番は、大元の神様がいることを、感じ始めていること。色んな経験があったにも関わらず、未だにはっきりしていないが、それでも神様はいる、と感じていること。その神様がどういう存在なのか。私はクリスチャンなので、聖書と歩んでいく人生で信じながら生きて行けたら良いと思っている。
腰を痛めて、ひたすら横になって寝ていたら、かなり億劫癖がついていて、気持ちをしゃっきりさせないといけない。そして、未だに腰は痛い。ウォーキングができない。

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