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11月, 2024の投稿を表示しています

愛媛県総合科学博物館

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  愛媛県総合科学博物館に行ってきた。Twitter、えっくすでフォローしている山中俊治教授がディレクターの特別展があるのを投稿で観かけたので。12月1日までで行っとこう、と思っていたのだが、行って良かった。平日で人がほぼいないし、好きなペースで観ることができた。ハイレベルなことなのだけれど、どこかにシンプルに考えてもいい頭の中のスペースが残されてあるようにも感じた。 結束バンドとか、ねじれの展示を観ていて、少し前から思っていたことなのだけれど、子供のあやとり、は脳の発達に良い気がしていて色んな形を糸で作り出す。感覚だけではなくてどうしたら、この形になるのだろうと考えたりしながら。私はそういう脳を使うのが苦手で、展示を見ながら、ちょっとどうなっているのか、と考えようとしたが、うええ、と拒否反応が出てしまった。物質とか物理のことはなぜそうなっているのだろう、とか法則もあるが、そうなっているものだから、そうなっているのだ、ということを父親が言っていて。そうなっているものを見て、そういうものだから、そこから考えるのだな。何を言っているのか。 デザインイラスト、画像で観て感じていた大きさより紙の大きさが大きくて、しっかり目に入って来た。かっこいい。 山中教授はモーターが機械を動かすのだな、と思ってモーターを幾つも機械の中に入れ込むことを考えたそうな。沢山タイヤのついた、虫さんのようなロボットの展覧の場所に説明書きがあった。虫さんはタイヤだけで動くのではなくて、タイヤのない関節部のような場所を使っても動く。切り替わるのだね。 特別展を出て常設展も行ったのだけれど、これも面白かった。なぜ宇宙が広がり続けていることを判断できたのか、分かった。ネットを観ていて、宇宙は広がり続けている、と言っていてなぜそう考えたのか、調べていなくて常設展に説明が書いてあった。ドップラー効果ってそういうことなんだ、と知った。 帰りにぐるぐる回りながら昇降の坂を歩いて降りて、あ、ここ来たことあるわ、と気付いた。仕事をしていた時に、お出かけで。あんまり、愛媛のこと知らんのだな、と思ったな。新居浜市に博物館はあるのだが、新居浜は国道11号を車で走ったらそこまで時間のストレスなく行けるなと知った。自分のイベントごととして、楽しい時間を過ごすことができた日であった。

あ~きのふんふん~、ふ~にー。て~る~や~ま、紅葉。

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  随分と、穏やかに一つ一つ暮らしを紡いで。 楽だな、と思って。 でも、するんだろう、という声を聴いて、観て、 できるんだ、と思って。 命が反応して、とても目の前が冴えたように。 人が嬉しいほうが、私もうれしいし。 わたしのこころも、清濁併せ持っていても、 嬉しいほうが、そりゃうれしい。 そっちの生き方の方が、気持ちいいんだよな。 私はそう今、感じている。 良かった。ほっ、と。 ほんとに、ほっとしている。自分の立場で酷いことをする人間であったら、どんなことになっていただろう。もちろん、良くない言動や行動もしてしまったことがあるが、思い返すと馬鹿だったんだな、と感じる。良い方面に光を当てると、心からの気持ちでそれをすることができた。それは結局たぶん、痛みを知っていたからなのだと思う。それだけじゃないか、そういう教育でもあったのだ。そうやって、育つことができたのだ。ある人が、大事なことは教育、と言っていて。そうだよな、大事な時期に人にとって大切なことを教えておくことは。悪いことをしても、取り返しのできないことはしない方がいい。賭け事みたいなんだよな。ある分岐点があって、天使と悪魔がそっちじゃないよ、とか言い合っていて、ベットして(そっちに賭けて。)やってしまった、という自分も傷付く後悔をしてしまう。本当に、危ういものでもあるのだ。それを、自分事として感じる。自分が持っている、偽善。そうじゃないよ、と言って貰いたいのではなくて、本当に持っている。人を傷つける。今があるから、兎に角気をつけようと思うのだ。大人になって行っているのだ。難しいんだけどね、人間関係において。 そんなこんなで、今は穏やかな生活をしている。お金の心配もない。先を考えなかったら、だけど。色々お金を使ってしまっている。自転車のギアもおかしくなっているので、変えて貰おうと考えている。あんまり乗っていないけど。生活は続いて行くので、気張らないでちょっとずつ本を読むとか、続いて行くことを意識する。英語、さぼっちゃっているな。単語をもっと、頭に馴染ませないと。中古の魔女の宅急便のDVD 英語のやつ買ったぞ。ジジの声が低い。2017年秋からだったと思うのだけれど、30分の英語に取り組むようになって、7年か。その間、さぼることもかなり多かったけれど、英語を学んでいなかった時よりは、まあ分かるようになったよな。...

まだ、秋よ。でも、終盤が始まっているのかね。体感として、12月の中旬くらいまでは、何とか元気な寒さ。寒さに強くなりたい。

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  忘れていることは、 ただ、無邪気に人に接することで。 人は傷付き、私のことを。 私の気持ちを、最初は放った言葉で 判断することでしかできなく。 私は本当に言いたい気持ちを現わせなくて、 そんな擦れ違いが、人の世界にはある。 まだ反省するべきところが、私にはあって。 でも、世界の、組織のおかげで、 沢山の痛みを知覚した。 時々、大人になって行くのって、こういうことなのかな、 と思うことがある。 ちゃんとした、大人の人って、と。 感じる限りの、ちゃんと分別を持った大人ってああいう人なのかな、という記憶がある。小さい頃や、若い頃にどこかで感じていた、大人の人。その一方で、そんなに変わらないんだな、ということを本で読んで、それはそれで、ありなことなのだな、と思ってもいる。いい方向のことであるなら。人生色々とは、そんななのだな、かな。 11月中旬後半から、小説を書いてみる、と考えていたが、そんなに行っていないにも関わらず、釣りを優先したい、と。釣りをしていたら、やってみないと分からないけれど、小説には集中できない、かな。釣れたら捌いて食べたいし。生活のイベントとして、大きな割合を時間にも気持ちにも、割くことになる。秋は釣れる時期なので、行っておきたいの気持ちが、水曜日にボウズであったにしても、行ってみて、ある。ソフトルアーの大きめのに何かが齧りついているだけで、やる気が出てしまう。 海に出掛けて、寒波が来るの情報も、確かに寒さもあるけれど、まだ秋の寒さなのだな、というのを感じる。家では、毛布だけから布団を出しても、そういうことを感じた。 興奮して眠れなくて、朝6時前に眠りたくて久しぶりに、吉野家へ行って、牛丼を食べると、正確には、ねぎ玉牛丼のアタマの大盛だが、美味しかったなー。かなり久しぶりに食べた。と思ったら、しっかり体重が増えていた。一時83㎏ まで減らしていたが、すぐに増える。それなりに食べているしね。でも、結構元気であるし、いいかな、くらいの。少しずつ減らして行こう。 赤飯を貰った時の、南天の葉を、嬉しくて小さいコップに水を入れて立てている。貰った、猫と音符が描いてあるコップに。そのコップはワインか冷やした日本酒を飲む時によく使っている。 部屋の掃除を少しした。明日もするつもりだ。冬支度として、明日は衣替えなど、色々やりたい。朝起きたいね。大分、自分の生活...

しじん

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  へんなふくをきたおとこのひとがきた せんせいがこのひとはしじんですといった しじんのひとはあごにひげをはやしていて みみにいやりんぐをつけていた 「わたしはしぬまでしをかきます」といった 「たくさんたくさんかくつもりです つまらないものもかくでしょう でも ひとつでもきにいったしをみつけてほしい」 それからしずかなこえでしをよんだ なにをいっているのかよくわからなかったけど ことばがおがわみたいにながれていく こころがふだんとちがうふうになって どっかにわすれものでもしたみたい なにかしつもんはとせんせいがいったので 「しってなんですか?」としじんにきいたら 「ぼくにもよくわからないのです」 といった みんながはくしゅしたらしじんのひとはおじぎをした なんだかなみだぐんでるみたいだった 谷川 俊太郎 あくせくしていた時に、ある詩誌に詩を応募して賞には結局引っかからなかったのだが、それからいくらか月日が経ってその応募したところの詩誌が家に送られてきた。おもしろいもんがあるぞ、と聞こえて、送られた袋の封を切って、詩誌のページを開いた。沢山の詩人の詩が載っていて、その一番始めのページの詩に谷川俊太郎さんの、しじん、という詩があった。当時、詩の世界については、そこまで詳しくなかったのだが、さすがに谷川俊太郎さんの名前は知っていた。ただ、たにかわしゅんたろう、の名前をたにがわしゅんたろう、と私は言っていた。その、しじん、という上記に載せた詩を読んでいて、あ、自分のことだ、と感じた。ただ、すごくはてなマークで、なんでだろう、でも私は自分のことを言っている、とずっと感じていた。私を詩人と言ってくれている。 仕事を辞めて、この暮らしが始まって、世界と通じていると知るようになって。まだ働いていた時に、別の詩をあるところに応募した時に、出版社から電話がかかってきて、面白がっている人がいる、と出版社の人が言っていて。当時は自費出版をしないか、と持ち掛けられたのだが、よくある出版社のことなので、断ったのだが、あの時に面白がってくれていたの、谷川俊太郎さんじゃねえだろうな、とか時々思っていた。面白がってくれる、ってすごい嬉しいことで、純粋に興味を持っているって、ことで。そういう思いがあったことと、そういう思い出だ。 すごく嬉しかったです。谷川俊太郎さん、魂が平安でありますように。...

土曜、たこの日。

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  元気な女の子を憶えている。 やんちゃで、レジカウンターによじ登り、 私の存在を知っていた。 どこか、優しい感じがして、 大きくなっても、 その感じわすれるなよ、 と思っていた。 部屋がきちゃなくはなっているのだが、生活にストレスがない。掃除せんとなーはあるのだが、料理は簡単なものを作るし、皿洗いくらいはまとめて、するし。まあでも、気持ちの上がり下がりは、なだらかにはあっても。食べ過ぎも、以前よりはましだ。ポテチ齧ったりはするけれど、少しは米を食べていると腹持ちがよく、お腹すいたー、とドカ食いすることが少なくなった。しかし、スーパーへ行くと結構お金使うんだな、と必要な食材を買うだけでも思う。冷蔵庫の残り物でざざっと食事を作ることも意識はするようになった。今日の夕食は冷凍庫のタコを解凍してフライパンたこ焼きだ。キャベツなどはスーパーで買った。お味噌汁も作るかな。 以前にも書いたが、天気の良い夕陽が落ちるくらいの時間帯に浜辺で、ギターを弾いて詩を考えたり詠んだりしたい、と思っている。気持ち良さそう。いくらか前に車で海を見に出かけた時に、女の子たちが海辺で夕方ギターを弾いていて、いいなー、と思ってからまねをしようと思っていた。思っていることにはあそこなら、人がいなくて車を停めるところもある、という場所がある。 レシピ本を振り返ると、これでもか、というくらい今まで購入している。兎に角振り返って、興味のあるものを時々は作っていこう。読み返すと、当時は特別じゃない、と作らなかった料理も今見ると、簡単で美味しそう、というレシピが色々ある。少しずつではあるが、どんな感じか、と本を読まずともアドリブには弱くともこういう時はこう作ればいい、というのが身体的に身に付いて来てもいる。特別なものでなければ。感覚って大切だな、と料理をしてしみじみ感じている。ましになって来た、ギターも間違いやすいところで、あ、この感じと修正する場所を感じ始めたり。テレビで観たのか、どこかで見たのか、師匠がそうだ、今のだ、その感じを忘れるな、と言っている記憶があって。今の年齢になって、言っていることが分かって。若くてもそういう感じを知っている人が結構いるのだろうな、と思っている。私は今になってやっと感じ始めている。色々経験しないとな。とろくて、できないからこそ、憧れがあって取り組むことができる。そして、...

(親子丼の)美味しさに包まれたなら。

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  身体の匂いに、今ではない自分を思い出す。 それでも、何かを書き出すことはできて。 学生の頃に憶えた、酒の味。 コーヒーの味覚も好きになった。 日々は何事もないが、静かに動き、 傷付くことを忘れている。 傷付くのは優しさを保っているからで、 心が傷付かない人なんて いるのだろうか。 (引きこもりモードになり始めている。外には出ているのだが、気持ちとして。お昼は近くの店の親子丼を食べてしまった。幸せになれるから、いいのである。引きこもりモードが気持ちよくなっているが、ちょっとしゃきっと、しようかな。)

ござる、ござる。

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  冬が近づいて行くようで、何だか嫌だ。気合を入れた生き方をしていたら、そんなものへっちゃらなのだろうが、だましだまし、のらりと生きているので、と書いて。軟弱に生きている、と感ずる。冬の気候は苦手であるが、温かいものが美味しいと感じるのは好きだ。ほかほかした、良い匂いの食事。冬はどうやってもやって来るので、楽しもうではないか。今日の夕食はミートソーススパゲティだ。それに味噌汁を付ける予定。冷凍庫から牛の挽肉が安くなったもの、トマト缶の残りを袋に入れたものを取り出し、玉ねぎがないがスーパーまでは行かずとも、と思っていたらコンビニにあったので、何とかなりそうだ。スーパーに行くのは好きだが、今日はもそもそとしていたいのと、最近ましだがスーパーに行くと余分なものを買ってしまうな。 書くことがそんなにないな。何か書きたくはなるのだけれど、いざ、書き出すとそんなに出てこない。小さい目標、心地良く書ける、ブログに載せることの出来る短篇を書く。出すエネルギーが最近そんなにないが、書いていてエネルギーが湧く心地良い短篇小説。11月中旬後半から取り組んでみようかな。生きてるぜ、と思えたらいいな書いていることで。まったくでござるよ。

い~っぽあるいて、ちゃをし~ばく~。ずっこけんように、しばらく生きる。

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  寒くなり始めて、よく眠る。よく眠るとすっきりして、まんねりの気持ちも和らぐ。ほな、ぼちぼちやっていきますか、という気持ちになることができる。何が今の自分に必要かな、と考える。久しぶりにあほみたいに眠ると幸せだったこと。生きた言葉に出会うこと。生きた言葉は、自分の命の活性化という。本からでも人が話すことからでも。適度な運動も必要ね、身体も心も元気であるために。まあ、そんなとこ。近場の旅もちょっとしようと考えている。 気になる本を結構買っていて、たまって行くばかりなり。それもまたよし。 やる気がそんなにない時期で、なさ過ぎるということもない。焦らずちょっとずつ歩む。工夫して行く。 今日の夕食は有賀薫さんのおうちごはんは日々のくりかえし。より、豚なす味噌炒め、である。前作ったのは豚肉と豆苗の梅醤油炒め、であり、かなり好みの味であった。気を使っている所もあるが、この気を使っている感じの勢いでせっかく買った本のレシピをどんどん作ってみようと考えている。

ショート気味ネコステ。

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  今回はファミリー向けですね。先読み、というネタを考えていて、すごい複雑なことを考えていて、先を読むのですが、ストレートに考えたらこれじゃん、と同じ答えで、奥さんがそれって当たり前じゃあ、というコマを幾つか進んで行く、という話だったのですが、難しいことを考えられなくて諦めました。今回で言えば、シャアのキャラがシャーって言うのだけ楽しみに進めていました。時間かけてしまいましたね。描くのに慣れていなくて、それっぽい顔にするのがむずかしい。それとラフに描く方が感じが出やすいことにも気付く。ララァはシャアとアムロと三角関係であったと言っていい人物です。ウイキを観ると、ララァもニュータイプだったんですね。アムロはお母さんと複雑な関係にあります。途中でパンチパーマみたいのをかぶせたのはアムロを意識しています。あえて言います。 結構、大変だった。そこまでではないけれど。 さあ、今日の夕食は何にするか。あ、さんま、かな。 今回は完全フィクションですね。 見直すと、ちょっと展開が早い。

妄想。一通り書いて、酒への思いも湧いてきました。お酒、ありがとう。

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  ボウルに卵を二個割入れる。 玉杓子は一杯五十ミリリットル。 塩を入れて、掬(すく)った出汁を入れる。 菜箸(さいばし)でそれら合わせた卵をかき混ぜ切る。 熱した卵焼き器に卵液を入れて行き、 脹れ上がった液を箸で叩いている時が好き。 卵2個の卵液が少なくてもよい、小さい卵焼き器を買っています。大根おろしの付け合わせがマストですね。マストの意味は必ず~でなければいけない、という意味です。急に小っちゃい子にも対応しなければと考えました。思い付きで急に。30分の英語を勉強する回数が週2回程度になっているのを改善したいです。やり始めたら興奮状態というか、だんだん乗ってくるのですが、めんどい、と思うようになっていて、酒を飲みたい、とか思って。しかし、酒もなんか飽きたな、とさえ思って。どういう状態なのか、これは。酒も飲んだら乗ってくるのですが、はー今日も飲んで終わりか、という状況です。なんて、贅沢なのでしょうか。何ならふらふらになって、酒のみのお坊さんのように詩を歌を詠もうかと思うのですが、理性が働いて、それをやったら癖になって、伸びしろがなくなる、と理性の私が訴えてきます。なんて真面目なのでしょうか。 ただ、今日は実家の手伝いと美味しいお菓子を食べたので、気持ちが切り替わったように感じています。何か新しいことをして、新鮮な空気を呼び込みたい。自分次第。ということで、勇気を出して詩を1篇100円で書きます、100円なので短くとも、出来があんまりであることもあります、と書いた紙を置いて、詩を書くことをしてみてもいいな、と考えています。妄想では、その人についての何かに触れる詩であると、質問の項目を用意していて、例えば趣味とか好きな色はとか、そこから詩を考えてみる。面白そうなのですが、緊張しいの私ができるかな、と今特に緊張しいなので。手とか震えそうよね。でも、馴れれば行けるとは思う。修行みたいな気持ちで。大分な私にとっての刺激になる。思ったみたいなことにならないことが多い私ではあるし、ここ最近詩的な気持ちになることも多くはない。そんな気になっていないのだね。出てこなかったらどうしよう、と少し不安ですね。でも、実行したら大きな刺激になります。やりたいことをするのです。