時々にヒントもある。ふとした。
自分は詩や文章のことを、自分なりにやってきた。文章について色々な世界を渡り歩いてきたようなことはなくて、そういう猛者(もさ)具合はない。子供や若者に何かできないか、という思いは今もあるが何か特別な準備を自分に課してきているかというと、そうでもない。仕事を辞めてから、色々なことがあるのだな、とインターネットから感じるようにはなったが、でも確かに良い経験をさせてもらっている。しかし、自分のことしか考えていないけれど。一人に慣れて、そのことを(そういえば色々あるな)言われなければ、少しは苦しみながらも、ふんふんふーん、と生きられる少なくとも今はそういられる、体質に性質になって。それは様々に世界に繋がっているからではある。ふと大丈夫かな、と思ってもそれに触れていなければ、この今までの暮らしはもっと陰鬱な物になっていただろうことや。最近感じる、声が通っているということ。時々の助けの声。教会はどうだっただろうか。やはり、む(自分に関する色々なことがあるから)、とすることはあっても温かいことをもらっていた記憶だ。今は一人でいることが楽だが。苦しくはないな。
詩や文章のことを自分なりに伝えることができるように、準備をしようかと考え始めている。そういうことは案外に難しいだろうし、ある程度伝えて飛ぶようになったら、そこまで伝えることはないかなと思う。自分が感じていることを分析してほんとに感覚的なことかも知れないが、できないかなー、と思うだけなら思っている。何かできないか、は自分のできることは詩や文章のことだから。子供にも伝えることを対応できるように。子供の感じってどんな感じだろうかな。ともかく、自分が自信のある詩などについて、具体的に届くように伝えられる準備を自分の課題として始めようかなと、なるべくその子に響くことができるように。思春期からかな、とも思うけれど。心が変化して来るそういう時から。小さい頃は小学六年生でも絵本の読み聞かせを聴くと心が温まっていた。男子は中学生になると、だっせんだよ、の空気が蔓延し始める。母親のことをお母さん、と言った時にきしょっ、と言われたことがある。中学三年くらいになると、周りは敢えてお母さん、と正直に言うようになるカウンターカルチャーが広がる私の経験ではあるが。何を言い始めたのか。
具体的に準備をしてから、何かできないかなと考えている。この生活の経験から上手くは行かなくても、その準備は私自身には残っている。子供のために何かしたいのなら、それから始めてみてもいい。続けよ、続け。何かに刺激を貰いながら。ゆっくりね。
具体的に準備をしてから、何かできないかなと考えている。この生活の経験から上手くは行かなくても、その準備は私自身には残っている。子供のために何かしたいのなら、それから始めてみてもいい。続けよ、続け。何かに刺激を貰いながら。ゆっくりね。

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