ぶつりぶつりと。
気温が高くなってきて、まだ冷房は使っていないがそろそろ必要になってくるだろう。今は扇風機でやり過ごしている。カリフォルニア米、カルローズを買っていてそれで十分美味しい。イオンでカルローズ米を売り出す前に、店頭にある2キロの国産米を買っていたのだが、それよりはカルローズ米の方が美味しいと思っている。
どないしたら、いいんやろうな、ということがある。かなり特殊な状況で。何とかはしないといけないのだが、正直、見当(大体の方向。見込み。)がつかない。こうやって、誰しもの目につくところで、そのような気持ちを書くことも不利に働くだろう、と思いながら書いている。
今私は特殊な状況にいて、普通ならどうにもな生活をしている。仕事を持たず、家族以外の人と触れ合うこともなく、インターネットでの励ましにて、活力を得て。キリスト者なのだから、神様から活力を得よ、というキリスト者もいるかもしれないが、それは1週間に1回のインターネットでの礼拝により、いい話が聞けたな、また1週間やっていくか、という元気のもらい方で。それで、十分だ。食事の前は祈る習慣を持っていて、感謝を持って食事をしている。熱々の食事を早く食べたいと気がはやる時もあるが。
私が悪かったな、と思うこともあるが、そんなに悪いことしたかな、という気持ちもぼんやり全体を見返してある。教会は行かなくなればなるほど、行く気がしなくなる。今の正直な気持ちだ。ただ、食事の前の祈りの最初はイエス様に出会ったこと、神様という存在を意識できたこと、そして出会ったことを感謝して祈っている。それまで思ってもいなかったことを、考えるようになったし、良いも悪いも経験できてまだ定かではないが、自分なりの考えを持つことができた。ただ、人間的な意図や所属関係などにより感じる神様ってそういうことが言いたいんかな、と不勉強にしろ勝手に自然に思いが湧くこともある。神様の言いたいこと自体私は分からないこともかなり多い。殆ど分からないかも。インターネットで観かけた外国の方が日本に住むようになって良かったと思うことは、と聞かれて、宗教から解放されたと答えていたことは印象的だ。まあただ、日本にある大体の宗教関係はそこまではいかないだろうという予想と実感。世話になったしな、最初の教会では。本来はキリスト教は良いものであるはずで。でも、次に通うようになった教会で貰った冊子には、人間的な問題が発生していることが書かれていた。それが現実なんだな、と感じるようになった。だが、経験として良い方を思い返すと、かけがえのない経験をさせてもらった、と最初通った教会、次に通いだした教会のことを思う。嫌だなーと思うことでも、開かれた時、良かったなといい経験だなと感じることができた。またその経験はしたくないけれど、しかし今は良かったと思うことができる。たーだ。そういうことがあるのが今は面倒というよりは、嫌なんだよな。置かれた状況とか立場があるのだろうけれど、気力がないなと。行かなくなればなるほど、そういうことの方が気持ちに浮き出てくる。我にふり返れば、寂しいとか思うのかもだが、インターネットによる何かに触れることができている今、人との交流についても孤独について鬱屈することも少ない。
ただ、声掛けには1回、山は越えているんだよということ。私は未だに根に持っているということなのか。気持ちの引っ掛かりがあるのだよな、まだ。しかしでも、楽しい時に笑顔があって見渡しても、よい笑いがあるとか忘れているな、そういうことを思う。あったか。前まで通っていた教会でも。

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