力を得ていきたい。
生きるために、
内にある力を使いたい。
よく眠れば、良い時の記憶が心地よく。
まるで、当たり前にある励ましに、
気持ちを込めて感謝をする。
そうやって、不思議な日常を送っている。
命の力を信じたいし、
ただ、それだけでは駄目なのだろう。
心にあるエネルギーは、今、平均値を保っているという感覚だ。勢いがあるでもなく、枯渇して苦しんでもいない。キリスト教にある、見張ってあなたの心を見守れ、命の泉はそこから湧くというような、マスタークラスと言える閾に到達するのはかなり様々なことが削がれて、大変なことであろう。ただ、ちょっとしたことで、傷つきもするし、逆に心からエネルギーが湧くということもある。それが生きているということなのかも知れない。ただ、自分はエネルギーを枯渇させ、苦しむことを恐れる。そこからエネルギーを何かで注入して挽回することに、時間がかかるからでもある。ただ、苦しむのがしんどいというのもある。
私は、ある程度ならまだ若い。だから、命のエネルギーが自然に存在する。希望がない訳でもない。だから、生きる力を保っている。この生活の一時期、八方ふさがりである時、苦しまずさっさと死ねるなら、それでもいいと思っていた。今は何が変わったのか、生きたいという意欲がある。その経験を思い出すと、どこかに力が宿っていて欲しいと希望する。そこに宿った力を。
私は若かりし頃、流されて生きていた。人に嫌われるのが嫌で、また努力というものに憧れていたが、できなかった。しんどいし、自分はまじめになっていくし。でも、そういう自分が変わりたくて、実家にあった催眠術の本を見つけ、トライしたこともあった。乗り越えるエネルギーが欲しかったのだ。変わりたかった。
現在、あの頃からすると随分色々経験して、変わったこともある。その間、キリスト教に出会ったこと、福祉の仕事に就いたこと。色々あった。しかし、芯の自分は何かあると、苦しみうろたえる。自分の実力として、変わったことも英語もそこまでは上達しないし、ギターも上達したなと思うこともあるが、間違う癖もあるしそんなには理想通りにはいかない。練習もさぼるし。あと、奥が深い。英語は上達度が始める前より、37% 上がった、ギターは45% 上がったという適当な数値の感覚。文章はあるな、という感覚で、その中の一人であるということであるとそれは、嬉しい。売れたい。潤したい。いいものを書きたい。(本当は中の上かな、と思っている。自分調べ。反感を買うので書かないでおいたが、わざとらしくも感じたので結局書く。ちゃんと比較していないが。好みの問題も多いのが文章で。この文章好きだな、と思うのが基本だろう。私の立場もある。どういうことか知りたくもある。)
いつぞやか、聖書にある言葉から力をもらおうとしていたが、その言葉を携えるというか、経験なんだなと思うようになった。そこに言葉があることはとても励ましになるし、力にもなる。しかし、ざばん、と波打たれてそこが砕け何とか生きている。それでも、落ち着いた時に言葉を見る。私はマスタークラスの人ではないと知る。
でも、どうやらそうやって人は、と書こうと思ったが、何時の年でもそんな現場にいるのは辛いものだ。今も苦しむ時もあるが、私には逃げ道があったのだ。
生活形態を変えようかと考えている。できるかなー。


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