見据えて。

 


カメラを首に下げて、歩いていると、

向かいに小さな女の子二人がいた。

このまま歩くと鉢合わせると思い、
道路の反対側に移動すると、女の子たちも同じ考えだったようで、
走って反対側へ。

すると一人が転げた。

大丈夫かな、と思い声をかけると、
女の子は頷き、長めのソックスを擦りむけただろう左ひざまで伸ばし、
立ち上がって足を引きずりながらもう一人の女の子のところへ向かった。

私は、えらい、と伝えて。

小さい頃の私に言ってもらったようにしか、言えないなと思い。

近頃の親御さんとかはこういう時に、どのように言うだろうと思っていた。



私がその年であると泣いていたかな、と思った。すぐに私は泣きそうになる。いやだな、すぐに泣くのは、と思う。色んなことがあって、根性ついたかと思うのに泣かないように訓練できるならしたい。弱いし舐められるのだな。女の子は偉かったな。


昔、読んだ漫画で人生はめんどくさいとの闘い、のようなことを憶えている。力を貰えればやりがいにもなる色々な出来事であるが、何というかやはり人と会って刺激を貰うことは大切なのだな。今は楽だなー、と思いながらのらりくらり、している。冬の寒さがやって来ると、毛布に包まりのらりのらり。楽なのであるが、良くない。あまりそれをし過ぎていると、気持ちも落ち込んでくる。これはこれで、私にとって闘いなのである。何とか、こう、せっかくの時間を生きる励みのために。


インターネットで礼拝を守っているが、ありがたい。頭がしゃっきりする。今の勝手なイメージだが、聖書を読んだり、クリスチャンになってから今までの時間が要因としてそのことのメッセージを聴くと、鍵で心の門を開くような感覚になっているのではないか、と。脳も反応している気がする。それと、聖書に書かれている時代から、人は良い話を聴くのが好きであるのだな。


変えられたな、とは思う。もっとくだらない人間であったし、今もあたふたする人間ではあるが、大事なところはしかし、できない時もあるかもしれないが、でも集中して勇気を出してそのことに向かうことが多くなった。できなかった時は、いつも通り、ぶつぶつと落ち込む。ぶつぶつすることは、少なくなったけれど。それは今の環境があるからだろうか。そういうことだな。

東京へ運慶の展示を見に行こうと考えていたが、贅沢だな、と思いやめた。同時にターナー展も見ようかと思っていた。もっと、鬱屈がたまった時に、何かの展示を見に行ってもよいか。

このままであることは、今は楽であるし、その一方で恐い。そのうちに、色々なことが変化してくるだろう。今の自然な成り行きとして。今は平和だな、と思っている。その変化に、対応して心持ちの備えをしておかないと。どうなるか、分からない。自分の変化も分からない。大切だろうことも、経験不足だ。自分の仕事になって欲しいことや、やりたいと思っていることについてもどのような変化が起こるのか。肝を据えておきたいのだが、小心者だ。

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