ちょう、かいかん。
デジタルトランスフォーメーション、に変革しそれに頼るのは昔の記事で見たと思うし、だれもが思うことだろうが危険だな、と思った。だが、もう社会はその利便性を感じて、そっちの方向に動き始めている。私もその中にいて、便利だなと思っている。
人に出会えるということ。SNS を通じて出会いがあり、良くない出会いもあるかも知れないが、運が良ければでもあるし、正式なネットの場所でいい人と出会えることもあるかな。
また、大本を人間が管理していることも、承知していないといけない。
さて、自分はこんな社会をどうやって生きて行くのだろうか。詩や小説を気持ちを込めて書けたら爽快である。やっぱりそれを評価してもらいたい。まず誰でも書き手はそうだろう。そして、それは人間っぽいなと思う。機械みたいな言葉や文章より、その人の内面や命の根源にあるものを書き現してくれていたら、それを感じ取れた時喜びだ。その時、感じ取れなくても年と共に感じることができるのかな。
聖書のことを読んでもそこまでは理解できないことも多く、しかし、聖書教育のテキストがあったことは理解を深めるきっかけにもなった。命を感じること、人の性質。神様とはどのような存在なのだろう。そんな中、私たちはおのれの生活を過ごして、生きて行かねばならない。私たちは私たちで生きて行かねば。それでもそれでも、偉大であると感じる。わたしはある。という。神様が、わたしはある。と旧約聖書で言っているのです。
人間は人間で生きていて、キリスト者でも考えが衝突したりする。私はキリスト者だが良い方向で何とか生きたい。未熟なものであるが、子供や若者のためになることがしたい。苦しんでいたり、哀しんでいればなおさらである。どこまでできるのか、何ができるのか。
文芸も才として持たせてもらったのだから、頑張りたい。気持ちが乗ると心地よい。
生活が乱れている、立て直したい。何かご褒美があるといい。ちゃんと今日もやりました、という。しかしながら、思い返すと気持ちもぎりぎりだが、世界に何かを投じる時にグッドサインが出るとちょう、かいかんである。ちょう、かいかん、と書いたが地味によし、と右手をぐー、に握る感じ。これも生きる快感、ご褒美であった。しかしながらしかしながら、表に出て、文筆を評価されるだけでも恐ろしく喜ばしく、お金は稼ぎたいのでもっとないかと思うが。表と裏の出来事では感覚が違う。
子供と若者のために、生きるよろこび、かいかんを。

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