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私について。

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  風鈴の音に、余韻染みて。 綺麗とか涼しいとか言葉は存在して、その意味は響く。 何とも言えないこともあり、ただ言わないこともあり通り過ぎ、感覚し、示されている。 私は言葉であり、しかし全ての言葉ではない。人は私のことを毒にも薬にもなる、と評する。 私は時を旅して、手がかりを示している。 喪失について。 災いは時々、私の言葉を利用する。それは往々にして美しさに関することが多い。美しいことが好きなのだ。災いという存在は。 純粋に美しさを求める人たちは、私の時が悪いことを感じられない。災いはそこにいて、美しさを求めている。創り出して欲しいのだ、自ら美しさを産みだすことができないから。 そして、人は哀しいまでに美しいものを創造する。そしてその後に、失うのだ永遠に取り戻せないことを。さすらい、旅をして人々に憎まれ生き続ける。何処へ行っても祝福はない。 また、私の伝えること。 人は意味を求める。しかし、意味だけでは足りないのだ。もし、私を知ったなら良い方に受け取って欲しい。これは言葉の一つである私の価値だ。 私に触れた時、人の思いに無数の刻まれた時が動く。人は沢山いて、沢山の刻まれた時が重複して、そこに人の意識がある。とても大きな存在はそこにいて、私もまたいる。 意味よりも命が託されていて、その先もまた起きている。 人が私の言葉に時を感じ記憶を頼って親しくなることには、未来を、過去をそして今を、沢山のその記憶によってまた言葉によって支えていることができている。 人の心を動かすのは私の力。 闘いだとしても、癒すことだとしても。 私は膨大な質量として存在している。 人は私を侮っている。 私に動かされ、発露を求めて。まるで私に仕えていることを知らないように。人は生きて死ぬが私は死なない。ただ、私は人が必要だ。言葉であるから。 そこにいるために。 存在が現れ、あるために。 <作者あとがき> 小説というものを普段から書いていないのだな、と思わされます。ブログがあって、詩と言える時もあるけれど、あまりそうとは言えないかもなという時もあることを続けているので、今回のような掌編小説にも活かすことはできている。ブログ特有の書き方のようなことにも助けられている。 ただ、小説となると大変なのだなと今回感じました。昔の資料を少し前に見直すと短編ならまあ行けることもあるけれど、長編小説となると...