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10月, 2025の投稿を表示しています

それでも、るんるんでいるのよ。

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  眩しい光。 やすむ影。 踊るために風。 時を移ろう日々。 心に聴こゆる音。 静かに深い夜。 そして 明日。 生活に飽き始めている。いつものように、何かすれば挽回するだろう。今日は街までウォーキングしたな。英会話を申し込もうかと考えている。人と話すことの少ない今、鬱屈するなら工夫をしようと。 話がちょっとそれるが、辻村深月さんが本に、好きなことは人と比べなかったら、大人になっても続く、と確か書いていて。私は運動神経は普通で、でも運動することは好きなので、運動を避けることはなくて、もうちょっと運動をしてもとは思うがウォーキングくらいはする。体力おばけみたいな人が近くで、おらおらと鍛えていたら運動する気がなくなっていたか。英語なのだが、試験のように測定されたら、そんなに伸びていなくてもっと早くに諦めていただろう。できる人と比べていなくて希望を持てているので続いている。ギターもしかりであろう。写真もそうだ。物書きは、語感はあるなと思っていてしかし、長い小説ってそんなに書いたことない。必死になってくたくたになるくらいに、書いていない。この生活になって書いた長めの1回目の小説は書いて結構疲れたけれど。なのだが、物書きは私の自信の最後の要だ。ここは離さない。 よく最近思うのだが、色々なことが取り去られて、やってきたこともあると思っているがそれがなしよ、になって。自分に残るものは自分が溜めていた技術というか。英語を話し、読解する能力が私にあれば何を物理的に取り去られても、その能力が去ることはない。詩や文章を書く力のことも、それも私のものだ。さらに、分かりやすく文章を書くことを導く技術があれば、それも私に残っているものだ。ギターの技術、写真の技術。しかり。しっかし、それが難しいことなのである。英語は本当に上達していない。うむむ。学校の勉強とかも今でも、とろそうだ。でも、測られていないから続けられる。しのぎを削るとは、大切なことであるが。文章なら何とか。正岡子規みたいに賭(と)していないが。 改善されたこともあるが、その代わりに薬で頭蓋骨ぼこぼこしているし、禿(はげ)はあるし。ストレス、地味なのがじわじわ迫って来るし。臭いはあるし。いやだいやだ。 年取って来てるなー、と思う。もっとはつらつとした生活だと、もっと違うのだろうか。幸せになることを願う。部屋が寒くなってきたな。

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  歩くと、気持ちの良い秋。 もう、フリースを着ている。 美味しいものを食べて、るんるんに。 帰りの道、学童の唱歌が聴こえたような気がして、 立ち止まる。 車が何台か走って、歌が消えたように。 車が去ると、歌はなかったのかと。 そのように、気のせいかな、小学校の横道。 るんるん。 最近のことを思うと、まずブログをやりインスタグラムをやり、えっくすついったー、は他の人のツイートを観るためにだが、でもいいねや、リポストをしていて、ほぼ日のアプリを使い出していて、アプリは本来自分だけが観れるものなのだろうが、多分だいたいが広まっているのだろう。いやかどうかと聞かれると、いやじゃない。人と接することの少ない自分に、人が言ってくれたことだが、確かにライフラインになっている。しかし、とろい私にしては随分、現代的なことをしているな、と思っている。 もう1回上記をおさらいすると、ブログは14年くらいかなやっていて、自分を盛り上げるためにでもあるし、何かをやり始めることのきっかけにもなっていた。今は詩を書くことのできる場所であることと、写真もスマホでもパソコンでも観れる場所であるし、せっかく撮った写真を公開できる場所だ。何度も思うがもちろん、自分なりに。前ほどがつがつではないけれど、写真楽しいぜ、と。久しぶりだ、ぜ。ぜ、を使うのがね。 今は酷い状況ではないので、以前のようにぶつぶつと、ちょっとだけ苦しい感じではなく、同じくぶつぶつと、なのだけれど何書こっかなー、くらいにブログを書いている。何か書いた時に、自分が何かやり始めて事が動き出すことも今もある。 インスタグラムは最初は料理のレシピを保存したくて、始めたんじゃなっかっただろうか。どうだったか、忘れた。インスタグラムをやっている人たちの様子も観れて、時間のある私にはありがたい。知り合いとも通じることができるようになって、まあ正直、生命線(生きるか死ぬか、物事が成り立つか成り立たないかの分かれ目で、絶対に守らなければならない地点や限界。~広辞苑より。)なんじゃないかな、と思っている。かなり大きなことを書いたが、ちょっとだけ、ふざけています。でも、そうなんじゃないかな、とは思っている。あせったり、あんまり行き過ぎると、と思いながら、もっと更新した方がいいのかなー、とか考え。コメントとかわざとらしくなってしまいそうだな、と思って...

夕食は昨日の続き。ほんとにほんの少しだけ意識しているのが、昼食をちゃんと食べて、夕食を今までより減らす。できていないことが殆ど。

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  のんきだと思う。 ただ、哀しみも経験してきた。 ふと、それもよかったと。 高校生の私を思い返す。とても弱かった。 人に嫌われることが恐くて。 今を思うと、その私もやっぱりいるのではないか。 そう、思い直す。強くなったと書きたかったが。 強くなった。それもある。 けれど、人にそんなに関わらない今だから。 そのようにも思い当たることがあるのである。 ウオーキングに街まで行ってきた。カフェでいつもとは違う作業をして、美味しいもん食べちゃろと考え至って。カフェも初めて入ったカフェであったのであるのであるわけである。最初に飲み物を注文するとき、2時間くらいいてもいいですか、と聞くと、もちろんです、と返ってきたので、ここも私のマーキングが入った店となる。いい香りの方の。 色々、楽しむこととして作業をしたので疲れもなく、それに居心地が良かった。お昼が近づいてきたので、カレーを頼む。(詳しく書くとハンバーグとチーズの。やはり、贅沢具合を情報として流すことに恐れがある。しかし、書いておく。後ろめたいので。お金稼ぎてぇ。文筆で。文筆で、がいい。なんならよければ、アイデアでも。さらにゆとりがあって。) 美味しい丁寧な仕事のカレーで今度はチーズオムレツのトッピングにしよう、と決める。生姜かな、を舌に感じたときは爽やかですっきりの気持ち。満足。 普段はそこまで贅沢は、どうだっけな、基本はしていない。しかし、秋のうちはウオーキングを疲労がたまらない程度に行う予定なのでその時に、かふぇで美味しいものを注文するつもりだ。 カフェの帰りに愛媛県美術館に何をやっているか、覗きに行く。スマホで調べりゃあ一発だが、それはせずに。真鍋博というイラストレーターの方の展示がやっていて、愛媛出身でもう亡くなっている方だ。入ってみると、かわいいのだ。デザインや絵が。何というか、モダンだなと思った。結構昔の作品なのに。私が使う、モダンという言い方古いかもなのだが、モダンの言葉の感覚が、昔のテレビの影響なのか好きだ。写真撮影はだめで、しかしながら満足して美術館をあとにする。 今日はこのブログを書き終わったあと、ごろごろ寝転んでちょっとだけ詩集くらい読むか。県立の図書館の改修工事が終わったら図書館のカード作ろう。市立の方は持っているのだが。県立は電子書籍も始めているのだな。 1日くらい禁酒の日を作ってもいいか...

のんきな生活ではある。

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  詩を書こうと思ったが、写真を観てイメージを広げようとするうちに、眠くなってきた。疲れていてしかし、寝ようとしても眠れなかったのでやっと来たか眠気、と思っている。夜は4時間は眠れたが、私としてはかなり短い睡眠時間。朝はせっかくはっきり目が覚めたことだし、と思ってコメダ珈琲にて、作業をいつもよりは短くする。自宅に帰って昼食をとり、なんか頭がむわむわして疲れるなー、と思って横になっても眠れず、少しの距離近所に写真を撮りに行く。まだ、歩くと汗をかくなー、と経験して自宅に帰り、お茶を淹れて氷の入ったグラスに注ぎ、飲む。 スマホを観てだらだらだらして、せっかくならブログを書いておくかと今に至るが、またそうやって書いているうちに目が覚めてきた。むぅん。 これくらいにして、ちょっとお昼寝をしようと思う。今日の夕食は昨日のフライパンたこ焼きの材料が残っているので、同じくそうする。完全レシピ通りではなく、長いも入れたりとかしている。お味噌汁も簡単に作る予定だ。実家で貰ったへちまを入れようかな。それと豚バラ肉、トッピングでねぎを。正確な言い方を忘れたが、赤、と言われるタイプの味噌での味噌汁は豚バラ肉が合うそうです。アプリの知識。

静かに目を瞑ったご老人を思い出す。静けさがあった。

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  伝えると、痛み。 また、 伝えると、喜ぶ。 私たちは意思を伝え合い、社会を築き。 朝になり、そして夜を委ねて、 明くる日へと時移ろう。 時は経つ、と私たちは感じる。 そして、また意思を伝えて、 痛み、喜び、 ふり返る。 もうこんな年なのかと思いを馳せて。 だらだらしているな、と思ってはっきりとこの時間は何かをする、と紙に書いて1日のスケジュールを書くと、まだ2日目だが真面目に生活している。朝起きるのが遅くなることがあるので、起床時間別に1日のスケジュールを書いておいた。朝早く起きるとやることに余裕が生まれる。勢いがある時は、それに任そう。のらになっても、それはそれのスケジュール。9月を結構さぼったので、頑張るメーターの数値が半分以上はある。今までは工夫はしたつもりだったけれど、同じようなことをしていると、少しずつ鬱屈というか嫌になってくることがある。嫌とまではいかなくても、またやらなきゃあ、と義務のように。気分の転換は必要なのだね。もっともっと気分が晴れる工夫がしたい。ギターが上手い人はずっと練習できるのだろう。しかし、私も練習量はそういう人たちに比べると少ないが、身のある練習を心がけている。YouTube とか観ると果てしねえな、と思うのだが。 新幹線の3列のシートをそれぞれずらして、手すりの余裕を持たせようというアイデアがあり、考えている途中だ。ずっとは考えていないが、ぼんやりと。さらに、通路側と真ん中のシートのずらしを大きめにして、窓側の人が出る時にすいません、とカニ歩きで出ないでいいようにと思ったのだが、そうなるとどんどん後ろに行くほどにずれてきて、窓側のシートとかなりずれが出てくるかな、と考えようとするとこんがらがっている。自分が楽しむための考えなので、またそのうちカフェででも考えようと思っている。 ウオーキングに出かける時に、街まで出ることが多いのだが程よく2時間くらいいられるカフェなど場所をもっと見つけたいと思っている。2つほど思う店があるが、お客が増えた時にさすがにずっといると、悪いなと思う。あとは、高島屋の「余白」のスペースがまだ使えたら使ってみたい。色々見つけること自体も楽しみではある。 多分、今ハイになっている状態であると考えている。この静かな生活を続けていて妙にやる気な時期と、うなだれている時期があるとシンプルな生活なので気づきや...

力を得ていきたい。

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  生きるために、 内にある力を使いたい。 よく眠れば、良い時の記憶が心地よく。 まるで、当たり前にある励ましに、 気持ちを込めて感謝をする。 そうやって、不思議な日常を送っている。 命の力を信じたいし、 ただ、それだけでは駄目なのだろう。 心にあるエネルギーは、今、平均値を保っているという感覚だ。勢いがあるでもなく、枯渇して苦しんでもいない。キリスト教にある、見張ってあなたの心を見守れ、命の泉はそこから湧くというような、マスタークラスと言える閾に到達するのはかなり様々なことが削がれて、大変なことであろう。ただ、ちょっとしたことで、傷つきもするし、逆に心からエネルギーが湧くということもある。それが生きているということなのかも知れない。ただ、自分はエネルギーを枯渇させ、苦しむことを恐れる。そこからエネルギーを何かで注入して挽回することに、時間がかかるからでもある。ただ、苦しむのがしんどいというのもある。 私は、ある程度ならまだ若い。だから、命のエネルギーが自然に存在する。希望がない訳でもない。だから、生きる力を保っている。この生活の一時期、八方ふさがりである時、苦しまずさっさと死ねるなら、それでもいいと思っていた。今は何が変わったのか、生きたいという意欲がある。その経験を思い出すと、どこかに力が宿っていて欲しいと希望する。そこに宿った力を。 私は若かりし頃、流されて生きていた。人に嫌われるのが嫌で、また努力というものに憧れていたが、できなかった。しんどいし、自分はまじめになっていくし。でも、そういう自分が変わりたくて、実家にあった催眠術の本を見つけ、トライしたこともあった。乗り越えるエネルギーが欲しかったのだ。変わりたかった。 現在、あの頃からすると随分色々経験して、変わったこともある。その間、キリスト教に出会ったこと、福祉の仕事に就いたこと。色々あった。しかし、芯の自分は何かあると、苦しみうろたえる。自分の実力として、変わったことも英語もそこまでは上達しないし、ギターも上達したなと思うこともあるが、間違う癖もあるしそんなには理想通りにはいかない。練習もさぼるし。あと、奥が深い。英語は上達度が始める前より、37% 上がった、ギターは45% 上がったという適当な数値の感覚。文章はあるな、という感覚で、その中の一人であるということであるとそれは、嬉しい。売れたい。...

頑張るために。

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  どうしても、つまずくのは こびりついた私の持つ汚れ。 忘れていても、そのうちに あることを思い出す。 嫌味だな、と思うのだ。 しかし、その一方で沢山経験したこと。 嫌味という汚れに微笑みたい。 汚れが、ごめん、と赤らむくらいに。

げげげ、誕生日だ。もうこんな、年齢。

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  きみ、誕生日じゃないか。 お二方、、ありがとうございます。 しかし、なにか君はふさぎ込んでいる。 ああ、でもこの会話で明るくなろうと思います。 松山の地方祭がきみの誕生日。 そうです、私は小さい頃からずっと松山祭りと言っています。 きみがきみの誕生日を特に意識するようになったのは、君の母の妹、おばちゃんが誕生日に贈り物をしてくれるようになってからだね。 そうですね。母が亡くなってから、おばちゃんがどういうきっかけかは、忘れたのですがワインや煎餅が入った贈り物を届けてくれるようになりました。栗焼酎とかおいしかったなー。それまでは、ああ、誕生日やってきたなー、と祭りの音楽を聴いて過ごすくらいだったような記憶です。 (しげるより)人生は短いようで長く、長いようで短い。運動している時のしんどい姿勢は長く感じるが、実は短く、スマホを観ている時の時間は短く感じるのに実はとても時間が経っている。のようなものだ。 え、はい。 (太郎)世界は広い。一反木綿に乗ればどこにでもいけるのさ、そういうこと。 え、はい。 (しげる)たとえ、きみが片腕を無くしてもギターは弾ける。がんばれ。 あ、えっと、はい。 (太郎)毛バリはときどき、けばれ、がんばれ、という意味になる。がんばれ。 ん、いや、はい。 (しげる)いや~、あんないけめんに、自分を演じてもらうなんてなー。じまん。 ああ、はい。 (太郎)猫娘とユメコちゃん、どっちがタイプ? え、や、ユメコちゃんかな。 (しげる)へ、はいい。へ、はいいぞ。 ああ、はいはい。 (太郎)ぼくも、誰もいないところで、へ、をこくんだ。実は。 はいはい。もういいです。 ゆっくり、誕生日を過ごします。 (あ、よく見たら目玉のおやじさんがいた。しまった。)

風はその思いのままに吹き。

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  何が正しいか、というより何が最善か。 私が正しい、と思い始める高いプライド。 呼吸を意識して、 その気持ちから離れて。 不安が一対になっている。 静かな時は、風が運ぶ歌を聴くのだ。 にゃむにゃむ。 む。ねこのかいわ。 そうだにゃ。 きょうは、ねこらしく、にゃ、をごびにつけるのですね。 ねむいからだにゃ。 そうですか。 きみ。ねこのかいわの、ぞーんがひずみを、きたしている。ふあんなのだにゃね。 ええ、じぶんがせんたくした、みちが、ただしかったのか。ふあんです。 にゃんこにも、それはわからないけれど、きみがえらんだ、みちにゃよ。きらわれていくのが、ふあんにゃのね。 はっと、われにかえるとそうです。でも、すすんでいこうとおもっています。 まじめにゃねえ。もうちょっと、かたのちからをぬいて、りにゃっくす。にゃるようにしか、にゃらへん。 はい。 ちょっと、まじめもーどににゃってきたから、ここらへんでおわるにゃけど。じぶんをたいせつににゃ。ただ、いまできることをやるにゃ。それくらいの、こんじょうはみせるにゃよ。ねこぞくと、こうりゅうがある、きみはそのきょうじは、あ、きょうじって、ぷらいどのことにゃね。もっていてほしいにゃ。 はい。わかりました。このみじかいかいわで、ちょっとげんきになりました。 にゃむ。よしにゃ。 ぶつぶつ、いいわけをかんがえるじぶんは、ましになりました。でも、まだそうです。いまから、こんびににいって、あいすたべてきます。 にゃむ? まあ、いいかにゃ。かうんとだうんにゃよ。あと、ふつかで、きみのたんじょうび。 けっきょく、そんなにうれしい、しょくざいはかっていません。あす、あかわいんを、かうときに、ちょっとなにか、いいものをかおうとおもっています。ちーずくらい。そして、とうじつは、すてーきにくです。 にゃっぴばーすてー、にゅーやー、だにゃね。 このねこのかいわで、まえむきなきぶんになれました。けっこう、ほんとうに。 うれしいにゃ。じゃあねこは、もうちょっとおひるねする。さらばにゃ。

陽の当たる場所で生きていくために。

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  そういうのいい。 そう思って、始めたこと。 そんなことなのだが、 綺麗だなと思えるようになって、 少しずつ感動することを得て。 豊かだと。 一歩一歩、歩いて。 苦しければ、歩きを止めて、 休めばまた、ほんの少しでも前へ。 感謝は決して忘れずに。 初期は改善されたとよく言っていたが、人がどう思うかを考えて少し恐くなってきた。自分の実力以上、というより自分の実力が引き出されて、感じ取るようになって。こいつ、あほだったのにと思う人もいるだろう。しかし、私は感謝をして生きていかないといけない。その分、私の領分は子供さんや、若者に何かできることをして。 経験もあっただろうな、特にインターネットへのアクセスから情報、考えを浴びることは大きな出来事だっただろう。そして、実際の生きてきた生活から。 私は基本やられっぱなしの人生で。でも、その時々によい人に出会ってきた。やられたまま、終わっていたら哀しみに打ちひしがれていたが、今があるので自分のできる範囲で自分に対して誠実に向き合ったことは、自信になっている。誠実にできないことも、あったんだけどね。人と関わっていないから、そういう自信を言えるのかも。 島根への旅行から帰ってきて、結構やることをさぼりだしていたが、今は取り戻しつつある。やる気がある。しかし、よく眠れる。疲れがないのだから、もうちょっと睡眠を通常の1時間増しくらいで抑えておきたい。 誕生日までに部屋を綺麗にしておこう。