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12月, 2025の投稿を表示しています

一年ふり返り。

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  生きているから、 良い話を聴けて。 生きる意味は、 せっかくなら自分で見つけて。 その余裕があるなら、あってほしいもので。 魂の燃える頃に。 今日は日曜日はインターネットで礼拝を守って、近くの食堂に親子丼を食べに行くという習慣があるのだが。食堂やってるかなー、と思って、やっていた。親子丼食べ納めができた。一年を通してほぼ日曜日はその食堂の親子丼を食していて、飽きないなー。今日も幸せになった。支払いの時に、良いお年を、っとお店の人に言えばよかった、と後で思ったが、しょぼい私なのでまあそれはそれでいいか、と。 どうしようか、明日以降ばたばたするかもしれないから、今年一年を振り返ってみようか。どんな、年だったかな。記憶にあるのは、本を読む年にしようと年初めに思ったのかな。本は、マイペースにまあ、読んだかな、くらいの冊数かなー。その前の年よりは読んだな。この感じを来年くらいも、という思いだな。あとは一か月に一冊は小説を読む。 旅にもそれなりに出かけたな。いいなー、と思っている人多いだろうなー。人とほぼ関わっていない今では、何か悪いな、というリミッターが外されて、行きましょう、行こうではないか、という心持ちになっている。行きましょう。 ギターの練習をそれなりにして、ちょっと前は30分だったのが1時間の練習をするようになった。30分は基礎練習、そして残りの30分はDVD を見て、こうやっているんだと確認したりしながら。演奏能力開発エクササイズ。そりゃ続けていれば上手くなるよな、なのだが、とろいので激的には上手くなっていない、のだが上手くなっている。もっと練習する人はするのだが、私はここくらいの練習量を来年も、かなー。少し、だが演奏能力開発エクササイズのシリーズを続けて練習していると、ここが繋がっているんだー、と気づく。ここの音がここで、このパターンで、など。ギターとギターのチューニングってよくできているんだなー、と思っている。そうだな、来年は知識的なことも短い時間続けてみようかな。忘れないようにこの思い。 英語は頑張っていたころより、さぼっているがそれでも今年の後半またやる気を出している。ちょっと身についているんだよな。まったく新しい英会話だと、えっ、て混乱して分からなくなるけれど何度も聴いている会話なら何とか聴き取れるな、くらいかな。えっくすついったーに出てくる英...

12月後半に買った本。

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  左から、こど看さんの新刊「10代のこわれやすい こころの包みかた」。 これは買っておいた方がいいよな、と思って買った本。私が知らない現代の子供との向き合い方が学べるはずだ。全回の本もすっごい良かった。前の本は最後に子供の成長を感じたら、自分をねぎらってください、とあって、大人の力の抜き方も書いてあった。ねぎらって、のところで私は子供とさほど向き合っていないのに、自分の苦しみをねぎらってもらったような気がして、ありがとー、と思ったのです。今回も楽しみながら学ばせていただこう。 次に精神科医さわさんの本、「子どもが本当に思っていること」。こど看さんが確かえっくすついったーで、べた褒めというか紹介していた記憶だよな、と思ってその時は迷ったのですが、子どもって何考えてんだろうな、と素直に思ったので今回買うことにしました。私もかつて子供であって、子供の頃の記憶もあるのですが、大人としての都合で過去の子供の頃の記憶を見ている気がして、こりゃ買っとくかと思いました。 左下の本、土門蘭さんの「死ぬまで生きる日記」。えっくすついったーで土門蘭さんのことを知るようになって、幾らか前は手書きのなんだっけな、調べると「前略、あなたへ。」を楽しみにしていて、今はそれはしなくなったのだけれど、今はVoicy があって布団に横たわりながら聴いていて、かなり楽しみにしている。がっつり食いつくというのではないけれど、私は時間があるのでそういえば更新していたな、とか思ってご飯食べ終わって暫くして、横になるかという時によく聴く。何回か聴いていなくてさかのぼって何日かに分けて聴いたり。話が面白いので買ってみるかと思い立った。ただでいつもVoicy 聴かせてもらってるし。 真ん中上、今をときめく長谷川あかりさんの「のせごはんとかけごはん」。レシピ本はいい加減にしないとな、と思っているのだけれど年末だし。私は一人住まいなので、ご飯炊いてそれにのっけて食べるだけの料理はやる気のない時の良き方法になりそうなので思い立ち購入。長谷川さん、師匠の有賀薫さんに遠慮もしているかな、と勝手に思っているが、私は有賀薫さんの潔い味が好きだ。淡麗、という印象。鳥粥もめっちゃ美味しかったし。だしらぼをもうちょっと研究してみようかなと思っている。紹介していたコーヒーミルもクリスマスに買ってしまったし。 その横、これはもう...

we wish you a.

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  イヴの礼拝をインターネットで見て。 礼拝が終わった時に、女性たちが。 ウィ、ウィシュユア、メリクリスマス、 ウィ、ウィシュユア、メリクリスマス、 エン、ハッピーニュー、イヤー。 と歌った。 楽しいクリスマスを、 そして、幸せな新年を。 ああ、もうすぐ新しい年を迎えるのだと思った。 喜びの便りをあなたと家族に。 年を取ると時間が経つのが早いのは、本当だなー、と思う。もう年末よ。年末にやることは大掃除。汚い部屋を、もうちょっと住みやすく。今くらいのきちゃなさなら、気持ちにもただ生活をするのにも支障はないが、外部の人が見たらきちゃね、と思うはずだ。ここ幾年かは年末には大掃除ができずに、年始にお正月中に掃除をする習慣になっている。それも悪くはないと思っているが、今年は年末にもやる気があるので、掃除をしていこうと考えて。 読みかけの本も年内に読み切っておきたいなとも思うな。大きめの分厚いのはもう無理だろうけれど、何冊か読みかけがある。読んでいない本もある。さらに年末が近づいて買った本も幾冊かある。買った以上は1回は読んでおきたいのが、自分の考えで特に自分で買った本は興味を持って買ったのだから。少しずつではあるが本を読んできて、本からの情報が私の身体に流れているような心持ちである。考える土壌になってくれていると考えておく。 皮膚から出る粉が、大分なくなってきている。かゆみは多少あるが、酷い時から比べると随分と楽だ。これはありがたい。補中益気湯はやはり胃のあたりの筋肉痛のような症状の原因なので使用を中止している。しかし、3か月くらい飲み続けてそれから、肌のガザガザがいくらか、柔らかい肌になった。3か月の間は痛みの症状はなかった。むん。 年末ジャンボ宝くじが当たってほしい。今何が欲しい、と思い浮かべるとともかくに、カメラのレンズだ。35ミリと50ミリのいいのが欲しい。あと何か欲しいものはあるか。そんなにはないな。敢えてゆうなら、いいデザインの服が欲しいか。今は動きやすい生活しやすい服を着ることが優先していて、それもそれでいいけど、おしゃれな店で気に入ったデザインの服を買って着たいものだ。しかし、今の生活スタイルだと楽なのが優先でそれで生活がしやすいな。 午前2時半に目が覚めて眠れなくなったので、ブログを書いた。さてと、今年最後の土曜日だ。7時になったらコメダ珈琲かApe...

イブの日に。

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  波が大きく立っていた。わたしはそれを見ていて。 波は大きく大きくなって、その中を無数の銀色の小魚が群れを成し、一つの形態を作り泳いでいる。朝陽を浴びて、きらきら光り、とても綺麗に。わたしはそれに見とれていて、その思いの狭間、 (まあ、いいけどね。)と、声がした。 わたしはその意味を知っていた。 (知っている声だった。) 大学時代、癌を患って、頭髪を失った老教授の講義を聴いた。わたしは初めて心が震える、という経験を味わった。映画を見て感動する、とか今までのそれとは違う性質のものだった。もっと、生きたいと思った。このような感覚を。 それから、わたしは知を求めるようになった。優美で一つ特別で。 知ることはわたしを生き易くしてくれた。一つ一つの知識の中に安心があるような、そのような気がして。暫く生きていると、わたしは人を心の中で裁いていた。わたしの生きる意味の思いの外を生きている人に対して。 生きることができた。鮮やかな、知の感覚が深く心に根を張って。 そんな時だった。病の宣告がわたしに言い渡された。随分と、進行して、ああ。 しゃんしゃん。 その夜、夢を見た。 子供がいて、悪い仲間がやって来て同じように悪いことをしよう、と。仲間だから、と屈託なく笑う。わたしは見ていた。子供はその悪事に働こうとするが、できない。善意が勝っていた。 世界が転じて。 わたしは子供に戻っていて、店じまいの時にお菓子を沢山くれた小さな商店のおばちゃんが、目の前にいた。懐かしくて、話しかけるとおばちゃんは温かく話に応じてくれた。 話をしていると、わたしは知らなかったおばちゃんの聡明さに驚きを感じていた。そこには生きて行く知恵があった。 ーー、くんには愛が足りないようだね。 という言葉で目が覚めて、少し頭が痛かった。 名声や知識は泡のように波打つ中に消え、わたしは小魚の群れの中の一つになっていた。あの子供や悪い仲間、おばちゃんたちがその中にいると知って、気持ちよく、とても気持ちよく波の中を泳いでいた。 いずれ、大魚に襲われて。 <作者あとがき> モウリー、クリースマース。 クリスマスイブですね。何とか、イブには作品を間に合わせることができました。出てこないなー、から短い話なので、出てきた出てきた、となってなんとか。 今日は朝の4時半過ぎに目が覚めて、写真を撮っておこうと思って、車で出かけ小さ...

情熱のあざやかな。

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  キリスト者になったばかりの頃、passion というイエス・キリストの物語を、 映画館で見た。 嘲笑され、苦しみを受け、 十字架の上で死を遂げる。 今もあの映画のところどころが、記憶によみがえる。 情熱、と言う。 でなければ、あのように生きられなかっただろうと。 色々もあったけれど、 キリストの情熱に触れておいて良かったと、 クリスマスを前にして感覚している。 聖書の話は人間的であり、霊性を帯びており、しかし、だから子供にはがちのところは、年齢と共に成熟する人間の傾向としては、早いのかなと思った。どうなのだろうか、子供の頃と大人になってからの感じ方の違い。人間て色々あるのね。でも意外と、シンプルでもあったり。うむん。 今日は夕食にビーフシチューを作ろかな、と考え予定している。クリスマスが近いし。牛肉安くなっていますように。最近、コープではオージービーフを売りに出しているので、求めようかと。クリスマス当日は、モスチキンかドチキン(ケンタッキーフライドチキン)を買おうと思っている。ドキンドキン。 近日、写真を撮るとフリンジが発生することが多くなっている。ISO を暫くずっとAUTO にしていたのだが、試しに曇りの日にISO を決めて固定して使用するようになってから、AUTO に戻してもフリンジが発生しやすくなった、のかなー、と思っている。今までフリンジが発生することなどなかった。年末ジャンボ宝くじをネットで購入したので、当たったらSIGMA のいいレンズを買おうと決めている。100万円当たるのでもとてもいいから、どうか。 掌編小説を書こうとしていて、クリスマスには間に合わず、年末も頑張るけれど無理かな、と今のところ予想している。少し書き出したのだが、理屈っぽいのと、外に開いていないというか。吉本隆明さんの芸術言語論を読んで頭に残っているのは、純文学系の書き手は自分の筆力に頼ってさぼっている。純文学系ではない書き手はアイデアが凄くて、よく考えている。とそのままではないが、記憶に残っていて。純文学も大衆文学も境目が曖昧であって、筆力もある上に話の内容がとても引き込む面白い書き手がいるであろうし、とともかくに、手癖で今回の掌編小説を書きたくないな、と思っている。今の段階では、うーん、難しいという状態。兆しが見えたら、そこから一気に書きたいのだが。なんとかは行きたい...

今日、ごはんいこうよ、と仲いい人に言いたい。そういうこと、いえることができるように、なりたい。

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  机の前と横の壁に貼られた、おばの幾年からかの誕生日メッセージ。 友達が遊んでくれたこと。 職場で親切にしてもらったこと。 教会での経験、交流してくれたこと。 色々思ってしまうが、確かに変えられたこと。 冷静に思い返そうとすると、頭がぐるぐるする。 何がどうなって、今があるのか、 頭がぐるぐるする。 何があったのかと、しっかりと冷静になって思い返そうとすると、本当に頭がぐるぐるする感じがして、思い返せなかった。今日のネットからの礼拝を守って、冷静になってみようと思って、これまでどうなったのだろう、と思い返そうとすると細かいところを思い出そうとするとできなかった。無理をしない範囲で思い返そうとすると。 色々あったんだな、でもそれは自分の立場があるからでもあるのだな、と思い。それ以外のところは、自分の汚い性格の要因だな、と。案外私はむかつく人間なのだ。しかし、この無職の間にその汚れが幾らか浄化されていった。それでも問題ありな個人の性格な、のだろうか。どうなんだろうな、と今思う。本当に自分のことを考えて。あまり考えるとぐるぐると同じで、考えられなくなる、とめんどくさい。自由にさせてくれ、と感じる。 生活ぶりや旅も結構していて、いいな、気楽で、そう思う人が多いだろう。確かに今、すごく気楽だ。人とのトラブルが多くて、人と関わっていないブログを書いているこの時に感じるにはとても楽だ。人と関われず、苦しくなった時もあるがそれは波のようにやっても来るが、これまでトラブって来たことに比べると随分と心軽く生きている。 しかし、冷静になってみる。今日の礼拝で言っていたことから、確かに人生のやり直しを始めた時、それはキリスト者になった時と重なる。いや、確かに導いてくれた存在がある。何が、と限定するのではなくしかし、神様という存在を意識するようになり。今自分から何が導いてくれたとはっきり言えないが。ある時、突然体の芯から気づければいい、と思う。それは誰に、ともちろん感謝する人たちはいるが、そうだったやっぱり、神様だったらいい、と思う。人が何か伝える、ではなくて自分が本当に気づけてその存在が、なんて言うのだろうか、人が言う何か、ではなくて。結局、人が感じていたこと、となるのだろうが。本当に生き物として感じていること、純粋に感じていることを私も感じる。それが、どうやって知るとかもあるの...

ゴッホ展

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  東京に行ってきた。ゴッホの絵が見てみたくて。日帰りは難しいので、静岡に1泊して朝に東京に行き、展覧を見て、松山に帰るという旅。 東京に着き、AI に聞いてせっかくなら美味しいラーメン屋に行こうと思って、午前からやっている紹介してくれたラーメン屋があったので新宿へ。その途中新宿の公園が気持ち良かった。それで、ラーメン屋は不定休のその日であって閉まっていた。この無職の期間になって旅をそれなりにしているので、こういうのも旅のいいところだ、とささやかに思って帰りの新幹線で美味しめの弁当を買っちゃろ、と心に抱く。 歩きながら東京って、大都会だなと改めて思う。 午前は電車以外は人がそんなにはいなかった。歩いていて気持ちがいい。 ゴッホの絵はとても良かった。一番初めに見た絵は、陽が狂気的な印象でその他の周りは下手だ、自分の写真を失敗させたものと同期する、と一瞬思うが恐ささえある、と思い直す。その後に続く、ゴッホの絵は、綺麗なんだなと思った。もっと、イメージとして狂気がある先入観を持っていたが、展示されていた絵は脈動とかぞわっとさせるものもあったが、綺麗だ、と思った。上手いんだな、と感じた。やっぱり、ちゃんと技量があってこその、と私としては思った。私個人として、感じて自分を納得させた思いであった。そんなことを思いながら、かなり楽しんだ。 続いてターナー展もと思い行ってみるが、確かめるとターナー展は来年なのだね。2つの美術館が上野に併設してあって良かった。まあでも、ターナーを見て帰るとなると、随分遅くなるので、それで良かった。それと、ゴッホでかなりお腹いっぱいになっていたので、その余韻で十分。 楽しかったな。春にまた、遠出の旅に出られたらいいな。春は予定としてはがっつり行きたい。

気持ちを現す。

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  感度を高くして、変えようと思って。 感銘を受けたこと。 男の子はゲームをして、 女の子はお母さんと、動く景色を見る。 分かる感じ。 感動を心の隅っこに添えてみよう。 数年前にフェリーに乗っていて、ある家族が私と同じフロアにいて景色が変わってきた時に、確か大きめの橋があったのかな。お母さんが見に行こう、と船の甲板に行くのだが、妹はお母さんと一緒に外に出て、男の子とその男友達は知らねえよ、という感じでゲームをしていた。ぼんやりと、記憶にあるな、そういう感じと思った。女の子の方が心のそういう芸術というのだろうか、心が変化することに早熟で。まあ、幼い女の子であったので、ただお母さんと一緒に行ったのもあるのだろうけれど。男の子の知らねえよ、という感じ。小学生の頃に友達もそういう感じがあった記憶だし、私もある場面を見て、あ、っそ、という態度で父親に、何も感じないのか、と驚かれた記憶がある。 これも幾らか前に、番組で俳句甲子園のことをやっていて、いけめんの男の子が中学校の時はサッカーをやっていたが、俳句に目覚めて俳句部に入って俳句甲子園に出場だったかな、していて。サッカーがどへただった私はいいぞいいぞ、と思っていた。芸術かっこいいの、若い子がそう思うのいいぞ、と今の私は思う。男の子の場合、かっこいいがあったら、興味が湧くのだろうか。写真は男の子でもかっこいいの入りになるのではないかな。高校生くらいから。 プレイヤーになると、入りやすい。私は一発逆転の気持ちから始まって文を書くようになって、文学という世界に浸かってその気持ち良さを知った。幾年か前から、絵や写真を美術館などで見ることも好きになって、文学で始まってそういうことも好きに繋がっていったのではないだろうか。どうかな。 どういう気持ちかと今の気持ちは、お勧めしたいのだ。その気持ち良さ、心の感じ。若い子にも。 今週か来週に東京にゴッホの絵を見に行くと決めた。