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横尾忠則現代美術館にて。

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  土曜日に神戸の横尾忠則現代美術館に行ってきた。今回のテーマは生まれてきて死ぬこと。もっと、ちゃんとしたテーマだった思うが。交尾をして産まれてきて、そして死は平等にやってくるということ。ある絵を見て、死体が臭って生きている人が探している様子が描かれていて、そのまま腐った死体はひょっとしたら忌み嫌われるものかもしれないが、それが私たち人間の最後であり、存在なのだと私は受け取った。ほっておいたら、そうなのだと。横尾さんの子供時代からの死への意識。それは年老いた祖父母に育てられたからだと、え、ちょっとまてよ、そうだっけ、確かそうだった。子供時代からの記憶はとても大切だと、私は思っていて、横尾さんの今回のいくつかの絵を見ても、そうだと私は思った。少なくともそういう要素に私は、よく惹かれる。ある小さな版画だったのかなあ、絵は骸骨に綺麗に一凛の花がさされていて、他の絵は蝶もいたっけな。骸骨が、嫌われるものとしてではなく、美しくどこか風景の一つになっているように表されていた。 以前のテーマ寒山拾得もそうだと思うが、横尾さんの底から出してきて、記憶やあっちの世界の力やなんやらなんやらの要素、エネルギーが混沌として混じって出しているのかな。そこまでには、どのような修行、訓練があったのだろうか。私も水彩絵の具とかを買って、絵を描いてみようと思ったのだが、ほぼ手をつけていない。描いてみると案外しんどいな、と思って。私の妄想になるが、リミッターを振り切って、精神的なところの入院となったら、ひたすら絵を描いているだろうか、というどこかの映画みたいなことを思っていて。とても、妄想だ。絵って凄いな、と思っているので、魅力があって。 美術館を出てその道路を隔てた斜め迎えに、たこ焼き屋さんがあって、坂の上から学生さんが歩いて降りてきていて。学生さんがお得意さんのたこ焼きやさんかな、と思いつつなんとなくそれだと恥ずかしいが、たこ焼き好きなので行ってみる。感じがいい好きな感じのおばあさんが切り盛りしていて、店内で食べているのは大人の女性で。持ち帰り15個入りを頼む。中で食べている人の一人はだし汁につけてたこ焼きを食べていて、美味しそうだな、なんか神戸っぽいなと思っていた。たこ焼きを持ち帰って、車の中で食べると、すごくソースもたこ焼き自体もあっさりしていて、かなり美味しかった。これは、だし汁につ...

読書の秋、食欲の秋、運動の秋、芸術の秋。

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  夕方に、温かいコーヒーを飲む。 つくつくぼうしは鳴いていて。もしくは、泣いていて。 少しせつない、これくらいの日もあわれなり、と思い。 夕飯には、夏の感じの余り響く、冷麺を食べるつもりだ。 ブログを続けていて、詩も気を入れていないけれども、書いていて。まず、A4 用紙にボールペンで書いて、パソコンで打ち直していくが殆どで、初期にも書いたがパソコンで打つ時に、詩が変わっていく、修正されていくのが定着している。パソコンで打って、あ、この方がいいなと変わったり、短い小説だと根本的に誤った表現に気づいたりと、ブログのこの経験を、もし、ならば、もしかして、なかんずくば、文筆において認められて、というのは表の世界で収入もそれで得られて。そう、この経験を活かせたらと願う。血はないが涙と、汗と匂いとの集積なのである。今までのブログの思い出を振り返ると。うむ、そこまでではなくとも、振り返れば思い出があるのよね。むんむん。 画像を観ていて、ある小説家の方の文章における感覚が、自分もそう感じると思うことがあった。そこは共通するというような。俳句の査定の語感について、あるな、と思うだけでなく小説家の方の感覚にも小説の感覚としてあるんだな、と思うことに面白さを感じた。長年、学生が俳句甲子園とかを目指しているような場所でもそういう感覚を感じているのだろうな、と思うに至り。そこで、おたく気質の語感に派生していく気持ちも少し分かるようになった。微妙な感覚というか。ちょっと違うんだぜ、とも思いたい気持ちもあるし。しかし、今のところ自分はそうではないし、それをできはしない。ツイッター、えっくすの絵を観ていて、ピカソが初期はちゃんとした上手い画力の絵を書いていて、次第にあの画風になっていくのを、改めて感じて、文筆のことでも、魅力的なんだな、と欲が出そうにはなる。掌編(しょうへん)小説も終わり方が、パターンがあるし。楽だからそれをするのだが。うむ。 10月になると誕生日を迎える。誕生日までの1週間、好きなものを買って良いことにしようかと、考えている。主に食べ物で、太り過ぎないを注意して。そうなると、デパ地下が明滅してくる。美味しいハムを買って、美味しいパンでサンドウィッチを簡単に作るとか。様々な煎餅を購入するとか。美味しいワインや、日本酒は井上屋で購入して。チーズもいいね。美味しい漬物もいい。...

扇風機にあたりながら。

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  命があること。 気持ちがいいと思えること。 大切な日々。 人からの親切。 苦しんだり、幸せになったり。 自分を大切にすること。 大丈夫だと思って、安心すること。

い・の・ち ふ・し・ぎ を意識すると面白くなるのだろうか。

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  9月半ばからよく眠れる。夢を見ながら、眠っていることを解消しているような(罪悪感を解消)感じだった。頑張れば起きることができるのだが、眠気に負ける。こういうことが、自分にはある、と言い聞かせるようにというか、自覚し始めている。その代わりに顔のアトピーは酷くなる。分かっているのに眠気に力負けという。ある時期から特異に眠るということはあった。昔から眠るのは好きだけれど。 ある時期から酷くなったアトピーよりは、現在のアトピーのいらいらはましだ。完治してほしい。そういえば、食事の前の祈りに完治することを祈っていなかった、と思い最近その祈りを加えている。食事の前の祈りも外食するときにパフォーマンスみたいになっていないか、気をつけようと思っている。どういう人か知っているんだろうなー、と思っているので。 旅行をして戻ってきて、紐が抜けたみたいにルーティンにしようとしていたことを、しなくなると寂しさが襲う。今日は昨日あほそのものに眠ってアトピーが酷くなって、せめて本を読もうと思い、Ape で読みかけにしていた奥田牧師の本を読む。ヒューマンだね。寅さんが好きだというのも分かる。なかなかね、リアルにそういうことをすることは大変で。自分はどうだろうな、と思うと子供にはできるかも、とか、ぎりで若者にはできるのかなー、とか。若者は凶暴になったら恐い、とか。この体力でできるだろうか、と思うのだが、ある程度寿命を減らしても、何かしてみたいな、と思う。今現在は、欲があってさっさと私は死んでもいい、とは思えなくて。生きたいなー、と思っている。ただ、様々見ていても一生続けるって大変なことだ。やるからには、責任が伴う。今、胸を張って私は子供や若者が、生きやすく希望を持って人生を歩く支援をします、とは言えんな。祈ってはいるけれど。まず、問題はこの体力だ。何か負荷がかかると、季節的にもそうなると寝込む。言うだけならなんぼでも言える。でも、杭みたいなものが私のどこかに打たれていて、しつこく何かがしたい、と思っている。その杭は抜けない。何かがしたい。文章を伝える、でもいい。あとは、自分の欲だと触れてみたい、命に。ふと命を感じる時、頑張れよー、と言いたくなる。せっかく貰った命だし、形は色々あれど、気持ち良く生きたいものだ。

シンプルに楽し。

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  旅に行ってきた。初めての島根県、高速道路を使うと4時間ほどで着く。生で見た宍道湖は海の匂いがした。 出雲大社へ。 来てよかった、と思える。雨がぽつぽつ。 雨の日の傘を打つ音、小さく、とんとん。 雷はなる、こわくて ごろごろ。 海に抜ける小道があったので、海が見たくて駐車場への帰り、脇にそれて暫く歩く。海だなー、と荒れ気味の海を鑑賞して、もと来た道に引きかえしていると行きは閉まっていた店が開いていた。昼時になってきたからだろう。出雲大社の表近くにいくつか出雲そばの店があったが、こういう脇道にあって小さい店の方が美味しそうだな、と思い入ってみる。メニューの名前は忘れたが、要するにかけそばを頼んだ。出てきたそばは東京などで見る、醬油の黒さがあるつゆで、味は甘みがある。しかし、とても上品で美味しい。そばはざらざらした平打ちの、そばでこれもとても美味しい。この店の手打ちそばらしい。甘い味付けがどうの、と思っていた時期もあるが美味しいものであれば、美味しいと今は感じる。とても美味しくて上品なそばであった。 次の日に島根から鳥取の水木しげるロードを目指す。この橋を渡れば鳥取県。 げげげの夫妻。 今の記憶の限り、ゲゲゲの鬼太郎で一番好きなキャラクターはねずみ男。せこいところが好きだった。他にマニアックなキャラクターで好きな妖怪もいたかもな。一反木綿も、ぬりかべ、も好きだったな。 私の親しみのある、ゲゲゲの鬼太郎の画風。漫画がこういう画風で、私の頃のアニメの画風はその頃として漫画よりモダンな画風だった。母方のおばあちゃんとエキスポランドだったかなー、どうだったか、一緒にゲゲゲの鬼太郎のお化け屋敷に入ったことがある。キャラが濃い、と言われる母方のおばあちゃんだが、自分もそう思っていたが、子供の頃に思い出になるようなことを、結構してくれている。何もしないより、してくれた方が子供はうれしいよね。 ふむ。 ふむふむ。 ふむふむふむ。 水木しげる記念館にも入ってみた。良かったな。ゲゲゲの女房として朝ドラにもなっていたけれど、観ていなくてどういう人か詳しくは知らなかったのが知れた。日本が戦時中にどういう悪いことをしたかも、説明されていた。水木さんのヒストリーを知れたのが収穫。 水木しげるロードの行き帰りのこの海沿いの道が気持ちが良かった。行きに運転しながら、考え事をしていて、はっとし...

少しましにはなっているが、まだ暑いな。

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  気になることはある、でも 心を静かにして。 嬉しいこと、哀しくなるようなこと。 のんきなこと。 歩くと思うより、汗をかき、 部屋の冷房を入れて、氷をグラスに落とし。 淹れたお茶を注ぐ。 美味しい。 汗も蒸発していく。 部屋が少しずつ冷えてくる。 まだ、暑いのだな。

心の奥ではしいたげられてきたこと、悔しいと思っている。そこを生きてきた。ただ、仮想空間みたいなものだ。痛みは本物だったけれどな。あほ。

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  生き方が、定まらず。 前向きに生きるのか。 色んなことを忘れて生きるようにするのか。 状況が変わったら、ころっと自分も変わるのか。 今のように時々苦しんで、写真を撮って、詩を書くのか。 感傷的になったりするのか。 変わったなと感じることがある。 自分の意思を保って、それを大切にして。 他人のことも考えないととは思うけれど。 嫌われることは恐く、でも気にしすぎると良くない。 自分として生きて、とここまで書いて。 生活をしていると、生きている感じがする。 汚い台所をましにはして、今思う。 また、住宅近くで写真を撮ってしまう。花が綺麗だったので。 人に嫌われることを恐れてしまうところが、私にはあるのだけれど、人と関係しなかったら苦しくはなるがそこが楽だと思ってしまう。考えれば、随分情けなくなったなとは思う。高校時代にハブになり、大学時代は初めのあることから、嘘をつくようになり調子に乗ってしまって、もの凄い嘘で自分を守るようになり中退し、やり直せたと思ったら、失敗し、次で頑張ったと思ったら、かちん、ときて、もともと最初から我慢していたことがあって、初期からのことが積りに積もって、何度も出ようと思っていたことがそこがきっかけで、出るようになって。これで、人間関係が嫌にならない人は、いるのだろうか。いるな、確かに本を読んでいたおかげで、そういう人もいるとは気づくが。そこまで自分は人間のスケールが大きくはない。お医者さんと話していて、時間が経つと自分は憎しみが湧くことが多いです、と言うと、車の事故が起こった時もそういうことがあるんです、と言っていた。ふむ。 今の余裕が時間もお金もまだあることには感謝する。生活ができる。仕事は恐ろしくてできない。ただ、うじうじしてんなよ、と言われると悔しくもあるが、それもそうだ、と感じる。最近、時々自分を振り返って気づくのには、もともと音楽雑誌を読んでいて(私はplayer とかGuitar magazine をよく読んでいた。)音楽的な芸術の世界に憧れていたのだけれど、ギターは下手だったけれど、とにかくその思いが、今は色々な芸術の世界が好きになっていて。もともと、いいなーとは思っていたけれど、振り返るとネットを観るだけでも、その世界があると心が落ち着くというか。そういうことをやっている人とか観ると、落ち着くなーこの世界っと、ほっとする...

何かしたい、と思っていることを妄想の気持ちよくなっている考えで終わらせるのではなく。どんな形でも将来何かしたい。小さなことでもいい。

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  よく眠れる、と思っていて調子に乗り、どこまで眠れるだろうと眠ったら顔がぱんぱんに腫れ、酷いアトピーがこれも顔に出てきた。人生折り返しの年齢。40代というのはそれでもまだ若いと思っていたのだが、身体に気をつけないといけないことはあるのだな。特に自分は身体がアトピーとかアレルギーが出るという意味で弱いし、精神的な場所も他人から見たら何処がだろうと思うかもしれないが、病を持っているのだ。福祉の仕事はやっていけていたけれど、アトピーが大変だったし、免疫抑制剤を使って腸がおならの音を出すようになって、ケアマネの時にお客さんの前でおもいっきり鳴ったり。いろいろ経験したもんだ。 今は人と話す環境にいなくて、少し苦しむ時がある。しかし、めんどくさい人間とかに出くわして笑顔を作って話さなくてもいい。大概の人間関係はある程度は乗り越えないといけないこともあるが、めんどくさい。組織、というのが苦手になってきている。自分の弱い個性に自分の立場。自分はあまりやり返さないから、時々経験するのだが、こいついける、と他人に思わさせることがある。そういう出来事からぐっばい、したい。私の立場に何か関係しようという動きも、私は普通に生きてきたので、嫌悪感を感じる。組織のシナリオみたいなのがあるのだろうか。私は私が生きることを思うようにを許してあげたい。もちろん、常識的には生きる。だが個人として生きたい。それができるのなら。どうなるか、分からない。どうなるか、まるで謎だ。だけれど、自分が思う生き方がしたい。他人の思惑とか感じることから自由になりたい。 組織、は感じている。あらゆることが、情報が組織には流れている。助けられてもきたし、時々独特の嫌がらせを受ける。長く、それを経験している。意味はあったかもしれない。私の生活は変化したし、考え方も少し変わった。この9年間には私なりの時があった。頭の中身という意味では、その前の時間より学ぶことが多かったと思う。インターネット上の考えもちゃんとした人の考えに触れたので、それに影響を受けている。それに加えて時間を経て、様々な考えに触れながら自分でも考えていた。 抜けていく、という経験をしていて。それは何だったのか、そんなに考えていない。世の中のことがあり、理不尽なことがあり、現実がある。運ばれた種は飛んではいなかった。変化をして育っていた。せっかくもらった...