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12月, 2020の投稿を表示しています

年末

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  風が強い、もう年末で。 今年を振り返るほどに、心が切り替わっていない。 自分はただ、なあなあとして生きていて、 思いだすにはなあなあと時間が過ぎていた。 ただ、なあなあにも思い出がある。 もっともっと、なあなあを続けていると、 身体が溶けてゆくだろう。比喩だが。 それはそれで。 来年がそれぞれにとって良い年であることを心から願います。sincerely.本当に。 きみは現実の自分がまだまだいかんところがあるとおもっているね。 はい、そう思ってまた落ち込みそうになりましたが、もう、いいということにしています。 ねこのでんたつできいたのだけど、こーひー豆をかいためているね。 はい、年末と正月のために。 それはいいけど、おふろはそうじしたほうがいいよ。 はい。 せいかつ、せいかつがだいじなんだよ。ねこのでんたつでは広まっているよ。 はい。

現実は眠りに甘んじて(甘えている)。しっかりしろ、自分。

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  知った世界で旅に出ている。 知らないことが転がっていて、 他人を傷つけていて、私も自身 傷つきもしている。 昔、小さい頃、お前本当か、と言われたように、 忘れていたことだが、私が傷つけば、他人の痛みが 分かる、と。記憶の限り。 果たしてこれ以上そうだろうか。良かったこともあった、のだが。 優しいという人が、見渡すと いるように見えて、幻覚だろうか。 どうやら、優しい人が生きているようだ。 これは本当のことか。 ただ、鐘が。 祝福の鐘が鳴っている。 優しさの海に浮かぶと、そう、人々が鳴らしている。 人々が互いに祝福を鳴らしている。 おのおのを優しくそっと抱きしめていることをいつの間にか見渡して、 懐かしい風が吹いている。他人を気遣っているようなのだ。 わたしは多分、幻想の中に浮かんで目を瞑って聴いている。 知らせだとも知って。幻想でいたいのだ。 愛するという大ごとのような、自分でそれを言うなら偉そうに聞こえるような、ことですが。私はいつも貰っているのですが、小鳥がいつまでも貰いたがるように、口を開けていると、いつまでも乾いているのですが、奥にある本能の様なことが愛するということを、と書こうとしてまだ分からないですね。普通に卑怯なこともして生きていた人間だからだろうか。ただ、感情的にならずとも、優しさに触れると、思い出すのですよね。誰が何を言うとしても、自分に不備があるとしても、愛することをしてみたいのですよね。普段からべたべた、とかいうのではなくて。ただ、優しく抱きしめてみたいのですよね。実際に抱きしめなくても。今の感情では。感情的には。

記憶が混じり合うとき、また良い知らせを聴いている。

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  詩情が私を起こして、それに浸っている。 素敵な時間だと思っている。 誰かが見つけて、知らせてくれて、 私は詩を書くことができている。 頭がまっ白になって、我を思って、 ひとの筆跡を見る。 忘れていた時間。大切だった。 12月、冬が来ている。 静かに人びとが吐息を立てている。

いつもいつか自分頑張らんとな。

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  歩く考えごとの時間が悩み事やつまらないことに変化もして、 それでも、特に身にもならない考えごともをしている。 私は私で、詩を書く気分でもなくなった。何かを訴えたく、 助けてではなく。笑った日常を見ることは嬉しく。 何が言いたいんだろうな。そんなこともあったな、と思いながら、 舵取りは祈りながら、今はそれができそうだ。本当は思っていること、げろしたい。 神様にできるな。そんな悪いことは思っていない。

静鳴

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  やさしい信号(シグナル)をキャッチして、 丁寧とはとても言えなかった性格は、 と、思って、部屋の惨状を見ると、やはりそこは変わっていないが、 沢山、心のどこかを ごしごしと、磨いている自分がいて、 色々削れているから磨いている、と言っている。 「お前、えらいな」 と言って、声を掛けると、 意外とやっていると気持ちがいい、と言っている。 私はすぐに傷付いて、ぶちぶちと不平を言っているが、 あいつ、えらいわ、と思っている。 私ももう少し見習おうと思っている。 皆、それぞれ痛みを負っている。くらいのことを年を経て行くと、感じるし、正直そっちのほうが信用できる、とは言わないでいいことでも思いますね。タイプにもよるのですがね。痛みを負っているちゃんと生きている人、ということか。ただただ誠実にでなくとも。

ポテトころっけい。

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  満たされている、と思っていると。 「そう」 「力が欲しい」 と思ったことを、そのとき思っていた。 深い底に行き着きもしないで、突然気づかないとき、 支配している不安が、恐怖を生み出して、明るいできごとが眩む。 でも、そんなこともあるね、と。 そんなこと、思い出もすきま、万華鏡の一部にきらきらと輝いて、 そうだな、今日こそポテトコロッケを作るのだと思う。 美味しい、美味しい、ポテトコロッケを作ろうと思っているので、心の準備をしている。 詩はブログなのである程度思い付くまま書いているのだが、そうすると時間感覚や突然の思い付いた言葉とか、借りた言葉で表すなら、揺らぎが出てきて不安定さをある程度は楽しんでいる。それが普段使う(書いている)言葉に気を付けなかったら影響をしていることを感じている。まだ、楽しめている状態だが、気にはしておいた方がいい。今回は時間感覚はおかしくないか。見直してみると。随分、言えるようになったな、と思うが。やはり、大分忘れているが、初期に気を付けた方がいいことを気にすることが出来たことも、ちゃんと生きていると思う。そして、仕事をしなくなってからの、ネットワークでの学びもあった。 今、YouTubeでワウペダルをかけたギターのバンドの音が流れているが、この状態で流れるととてもいい。いつか、時間をかけて上手くなるぞ。のんびりやっているのだ。

金曜の夜は。

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  ポテトコロッケを作ろうと思って、スーパーに車で走らせる。 金曜の夜。 前方はにぎやかにするのか、車が連なって、ずっと続く。 ポテトコロッケは作るのをあきらめて、 引き返す途中、手軽に弁当を購入する。 おいしい、美味しい、エビフライが3つも入っている。 そうしていると、深夜、午前。 電気ストーブの回転する音。 わずかに聞こえる、金属らしきが風を切る音、そして消える。 様々なこと。 遠い昔のことのようで、本当はわたしは変えていないことも多い。 塗って、重ねて、私は私の少なくとも、子供に与えてはいけないことを、 包んで隠して、それくらいの強さは欲しいから、といつまでも妄想で暮らしている。 まるでそれも遠いことのように。 全然諦めてはいませんが、ずいぶんぶよぶよした生活に甘んじています。本も少しずつしか読まないし、子供のことに関する本も中断している。ユングに関する本はまだ興味があるし、カントの純粋理性批判もNHKのテキストが分かり易く、さらに岩波文庫のを探して読んでみたいと思っている。単純に興味があることなのだよな。本を読み始めの時に、ユングとフロイトの話で、フロイトは分析的に、ユングは自ら瞑想の時と深みに入ることをしていた、と合っているか怪しいが書いていて、ユングが好みだな、と思っていたらユングの本を少しずつ読んでいるな。 馬鹿一直線じゃなくてよかったな。素直に興味のあることなのだ。 本は最近また長く読めない時期だ。そういう風なモードになれば読めるときもあるが、結局気分転換も必要なのだろう。また、詩以外を書くようになってきたな。 聖書も、本も読んでおいて良かったことだ。文筆家や詩人となるなら。偉大な諸先輩方も親しんでいることだ。

なかったことを、取り戻していることで。

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  本を読むと、子供を送り出すとき、最後に頑張れと言うそうだ。 傷付いて、立ち上がれない心にそう言うのは、酷なことなのだろうが、 そうだなと思う。 頑張れ、は本来良い言葉。 年を取って行くと、迫る問題に対処して、と。 そんなこともあるし。 若者はどう生きているのか。 学生時代、やる気のない時間を過ごしたわたし。 今は少しずつの問題や目的を咀嚼している。 頑張れ、と言われると。 しんどいな、と思うが。 頑張っている、と言われると、そうかな、と少し喜んで駒を進めている。 若者も色々いて、映画の観た一部とか私みたいにやる気のない怠慢な生活にどっぷり浸かるとか。そのまま、落ちて行く場合と、あれだけ怠慢な生活に戻ってはいけないと焦りながら修正して行く場合と。その大変な時期にちゃんと頑張っていて、言われなくとも頑張っている、としんどさを憶えていたりとか。 若者、どっちだとしてもちゃんと生きてたら大変だ、とその時期にしかない輝いたときを憶えて思う。批判があっても結局、頑張れ、と端から思うのだ。第三者としてはそう思う。あとは自分なりにやり繰りして自分のペースも見付けて。とまで行くと、勝手な思いだが。だとして、それならいいことがあるといいなあ、と私は思ってしまうのだ。マイペースでもいいし、自分なりでもいいし、駒は進めていく方がいいだろうな。少しでいいとも。笑ってとも。

北海道グラタンコロッケ

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眠りすぎて、少しのことで落ち込むのだな、と。 ファミマで北海道グラタンコロッケをソースを垂らして食べていると、 視界が新たに開けたように幸せがやってきて、 お手軽だが、確かに幸せなのだと思っている。 あの、人が混み合った世界を抜けて、怒りや憎しみが癒えて、 また、時々、波立って、 それがまた私に生活を取り戻して、与えている。 道通りに私を見る小さな女の子に、 マスクを外して笑いかけて、すこし、びっくりした顔が好きで、 今日そんなことがあった。 日々が結局幸せなのだろうか、と。 そして、また日々が過ぎ行き、 大切なことを置き去りにしている。 未だにどんな人だったかだけ、心に残っていて、 もう終わっていることなのだろうか。 文章家や詩人としては渇いていたい、という気持ちがある。力があって、飛び始めている人を見ていたら、いいな、と思う。嫉妬までとはいかずとも、羨ましい気持ちはある。 そうだな、結局そうやって私も見てみたいのだ、世界をな。自由は好きだけれどな。 Googleカレンダーに英語とギター、ウォーキングをしたら、印をつけるようにしている。英語もギターも未だ30分ずつだし、練習していない日も結構あるが、どこか身に付いている。ギターにそれを感じる。自分なりにだが。英語もやめない。続けることの大切さを感じてる。