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男子小用一体型洋式風トイレ

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  ちょっと見にくい。スマホでメールで送って取り込んだからだろうか。 男子の小用の便器と座って用を足せる両用の便器。普通の洋式の便器だったら蓋を開けて奥に立てかける部分が男子小用の便器となっている。小用の一番上の部分に柔軟な素材のキャタピラー式のカバーが内蔵若しくは、裏にそれが備わっていて、ボタンを押すと小用の水が流れるところをカバーして降りて行く。または古い考えだと、一番上の部分から布ビニール式のカバーとなる素材が引き出せて、小用の便器にある下のストッパーに先端の棒をひっかける。そうして座って用を足す。 そして、男子が用を足すときボタンを押せば(ボタンは屈まなくてもよい位置がいいかな)小用便器が上へ2~3センチ浮き、人のいる手前に移動をする。(ここで平均的な一番良い位置を実証実験しておく。それか、使う人が位置を選べるでもいいかな) 便座は右下の図だが、正面から見た図で、右へ開いて固定できる。蓋のことを書き忘れたが、蓋も右に開いて固定でいいだろうな。 便座と蓋は小用便器が前へ移動したときに、入り込むくぼみが、小用の便器にあってそこへ入って行く。 ウオシュレットは小用便器と関係なく固定されてカバーされている。 小用の水が流れるときに、便座の方の便器の中のくぼみというか、あのラインが水がはねないような仕組みになっていた方が良いだろう。しかも、大きいのが落ちても自然に入って落ちていくような。 小用の水が流れたあと、便座の便器の中の水が流れていく。どうもやっぱり、水は多めに使うことになるのか。 もっと考えないといけないこともあるかもだが、大手メーカーさんにプレゼン。 小用を早くしたい時など、便器の移動の速さとか。 私はときどき、外します。勢いが良ければはねるときも。 便器の中のラインが難しそうですね。

これからを、見ていたい。

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  なんだこれは、と思うことがよくあって、 金持ちになりたい、豪華客船に乗りたい、と言う子どもに、 静かに笑っていたけれど、本当はもっと大切なことがある、と言う二人。 お父さんを大切にしてください、と言ってくれた場所。 墓は守りなさい、とも。 そういう思い出があることは、 今でも小さく勇気や栄養になっている。 (格好よく言えば、そうなのだけれど、そうとうなことをしている。詳しく書くと、特に若い人に反感を買うと思う。少しは反省しています。)

風鈴

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  深い配慮など、かけらがどこかあるほどにしか、持っていない。 正しさがどの方向にあるかも分からない。 どういうことになるのか。 どういう風に思うのか。 肌にふと触れる感覚のように、すぐに消えて、 どこかに暗く積まれている。 さらさらと流れる風だったら、そのように。 ただ、聴くことで優しい時間を貰っていた。

追憶

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  自分が難しいことが言えないことを忘れていた。 さして、洗練されて頭の中が動いている訳でもない。 ただ、綺麗な雪を綺麗、と言い表すことができたら、 それなら、時々できる。 美しい世界を見たことがあるからだろうか、 人生の隙間に時々出会う。 優しかったり、哀しかったり、 愛おしさが後からやってくる。 そして、ゆっくり気付く。 それは結局、私には優しさで、 ありがとう、と呟くとして、 思い出して、またそれを私に見せてくれてありがとう。

やはり、食べ過ぎなのだろうな。枝豆だけ食べて、ダイエットをしたと聞いたことがあるが、その勇気はない。

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  昨日買った、ズボンがすごくいい。ジーパンよりは暖かいし、なによりストレッチがよく伸びて、屈んだり座ったりの動作が気持ち良くできる。お腹周りのところもよく伸びる。肌触りもいい。いい買い物をした。物寂しくてブログをする。詩はかなりいい加減なことをし始めているので、書く気持ちではないときはしないほうがいい、かもと今考えてみる。やはり、そのうちには、いつかはよく人と話す環境に参加したほうが良いだろうな、と思っている。生活の活き活きさに関わってくる。今は以前よりさらに、話したことがない人と話すとどきどきする。緊張する。人に晒されていない期間が長い。教会があることは本当にありがたいことだ。12月の最初に寒波が来たときに、ぐうっと気持ちが落ち込んだが、それからは私の冬の期間としては今のところ、気持ち良く生活をしている。 お昼は櫻井誠さんのTwitterにあったのをスクショしていたガリトマ鯖キーマカレーを作って食べた。トマト缶がベースであっさりして美味しかった。作り方もカレーを作り慣れている者からしたら、作りやすいレシピだった。ご飯は冷凍していたキューライスさんが漫画で書いていた、ターメリックとクミンシードを入れて炊いたターメリックライスを解凍して食べた。カレーによくあう。 ブログを書いて、気持ちが少しすっきりしました。

休日の休日

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  いつものことをおやすみして、なにかすればよかった、と思ったが、そういえばした。 ケンタッキー・フライド・チキンへ行き、ズボンを買った。 60%offになっている、とレジで言われ、他を見ないか、と言われたが、 最近の私の見栄で、もう、いいです、と言った。 生地の厚い大きめのトレーナーを買えば良かった、と思った。 贈与品だった、ソーセージとハムの詰め合わせが安くて、その箱を買った。 ハムがそれなりに沢山入っていて、どんなサンドウィッチを作ろうかと、 思いを広げている。 自宅に帰って、雪が降る。 陽に温まっていた猫は寒そうだ。 私にある冬独特のぼーっとした感じがない。どうしたのだろうか。 冬をこうやって、このまま過ごせるだろうか。 スマホで尾道にある朱華園を検索してみたら、閉店をしていました。ショックです。そのうち車で橋を渡って行ってやろうか、と思っていて確かめると閉店。いつかはあの中華そばを食べようと思っていたのに。味楽園のらーめんも食べたい。かなしいです。 だけれども、スーパーで麵だけの袋とスープのもとだけのを売っていて、野菜パックと豚バラを塩こしょうで炒めて乗せたら、美味しいですね。幸せになりました。味玉も乗せて。暫くちょっと馬鹿にしていたのですが、まじ美味しいです。父親が結構美味しいんだぞ、と言っていたのは本当でした。もちろん、学生時代から美味しく食べていたのですが、ラーメンブーム以来どこか馬鹿にしていたのです。太麺をチョイスして美味い。 今日は時々、実家のお手伝いをすることがあるのですが、それをお休みした日でした。午前中とか少しの時間しかしてはいないのですが。それなら何しよ、ってせっかくだから思ったのです。昔ながらの洋食屋さんを探して、ランチも考えたのですが、グランフジに行って、ドチキンを選択しました(ちなみにドチキンの言い方は昔の姉の少女漫画を盗み読んだ知識です。印象的でした。今は若い子はどう言っているのか。ドチキン。結構インパクトのある響きでした。また、そうなっています。私の状態。)なぜか。それはスーパーの商品を見て楽しもうと思ったのです。普段グランフジには行かないので。貧乏性をアピールではなくて、地味に結構好きなのですね、商品を見るの。 全然貧乏はしていなくて、私らしくそれなら、と上の階の服屋さんに行きます。買ったズボンは暖かそうで2160円くらいです

PICFA

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  凍てつく日、 ちょっとだよ、と 雪がすぐに消えて、なくなる。 腕を差し出して、 それに留まるのを期待するが、 そうもゆかないようだ。 またね。 まただよ。 そうか、また来るのか、と思って、 空を見て、曇天。 やはり冬の只中、と。 身体がすこぶる元気だ。 めずらしい冬を迎えている。 今日のお昼1時5分からのハートネットTV、あがるアート(1)を観たが、よかった。わくわくする活動だ。そのアートが努力もあってビジネスにも繋がって、個人経営の人や企業が注目して。才能のある人たちがやっていることもあるだろうが。最後のコーヒーのラベル、画材に描いていた時は、ふんふん、と思って(本当に絵のことが分かっている訳では絶対にないが)それが2作品、コーヒーのラベルになったのを見て、めちゃくちゃいい、って興奮した。それと、画材に描いていた時の作品も、いい、と思って見ていると、じわじわ、いい、と思いが変化してこういうところが私の見る目の怪しい所だが、私にとっては難しい絵で特に抽象絵画というのかな、難しかったが、コーヒーラベルになった時に、うおー、って一人で興奮していた。PICFAという事業所の話だった。

今日は七草がゆだぜ。

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  新しい年が始まって、冬らしく、寒く、始まっている。 明日は風が強いらしい。 洗濯物はやめて、干した靴下を取り込む。 電気ストーブは暖かくて、まだ、寒さに対しても私は何とかなっている。 季節的に来る変化も、あることはあるが。 大したことではない。 私は生き物なのだな、と思っている。 自然の摂理に反応するのだ。 そうだからか、食べ物も時節が来る食べ物を食べると嬉しい。 そういう年齢になっているようだ。 プラセボということでも、 嬉しい気持ちなので、そうでいい。 そうでいいのだ、な。 唐揚げ、揚げ物、大好きだし、 カレー、らーめん、その他もまだまだ、お好み焼きも。 思う、思っているなど思うことの関係を使うことを、あ、そうか、いいのか、と思うことが出来たのは、またまた結局、糸井重里さんなのだよな。日刊新聞かTwitterでそういうことを書いていたのを見て、解き放たれたというか、恐がらずに使うようになったな。それと、こんにちは、のことも感覚としては、その頃からでも私も、こんにちわ、と使いたいな、と思っていた。特に、単発の使い方では。でも、正しいのは、こんにちは、か。と思ってそれにした。これからも、こんにちは、で行きそうだな。そういう世界の人たちは時々、そうやって、解き放ってくれることがある。何なのだろうか、ある一定の感覚を持つというのはある、と思っている。テレビの俳句の査定でもそれを感じる。いや、それを確かめさせてもらった、と時々観て思っている。これでもいいんだよ、という気付きも面白いし、まだまだ知りたい。 あと、正月を迎えて、いい加減な部屋の状況だと気付かないうちにそれが当たり前になって、人が人らしくなくなっていくと思った。自分の状況は異常だ。寒くともある程度は規則ある程度正しく。そして、一人でもそれなりに楽しく。

たぶん。

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  優しい音色を聴いた。すでに身体に滲みてある記号だ。 風がたぶん穏やかに流れただろう。 その優しさを求めて、 そんな気がするだけだが。 自分でその優しさを、築いて、行くのかもしれない。(本当は今までのように助けられて行くのだが、自分でも築いていく。ある程度能動的に。) そうしないと訪れないのかも知れない。 私は未来の優しい時間を求めている。 そして、今は歩いていて、 たぶん、立ち止まってはいない。たぶん。