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7月, 2020の投稿を表示しています

スーパーマーケット

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小さな子どもでも、そんなように。 ふん、ふーんって、されたら、 どきっと、してしまうようになったけれど。 最近、思うのだ。 やさしい気持ちに。 そのあと、わたしは思っている。 お母さんと手をつなぐ。 幸せにいつか気付く。 お父さんに怒られる。 優しさにいつか気付く。 親切にしてもらう。 思い出を信用する。 育んで、生きて、幸せを知る、と思う。だと思う。 (さっきスーパーで不覚にもその緊張をしてしまいました。大したどきっ、ではなかったですが、ふがいない、と思いました。変なやつではないです。ただ、少なくともふんふーーんの感じはどきっと、するのですよね。お父さんがいて、後ろにいて、ちゃんと見ていないのですが、細いだろうけれどどっしりした心のかっこいい感じを感じました。どっしりした心の人になって行きたいです。そう思います。)

蜩の声。

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夏を始め。せみの声が、もう。 最後に世界をその中にいる。 景色をひたすらに視ているのだろう。 ぐるぐると廻っているか。時々の視点が気になるのか。 どんな世界。 どんなことを感じて。思い出すこともあるのか。 例えせみだろうとしても。 死へ向かうことは、自然の摂理で向かうことは、 知ることはできないのか、 しかし、感じることくらいは、 ただ、いつも待っている死が教えてそのせみに。 そう見て、写真をみて想像している。 夕刻蜩がよく鳴いていた。蜩の声は実家では聞いたことがない。 ここは山が近いからな。写真を大きくして確認してから、簡単に選ぶ方法を知らなくて。頑張れば出来るが面倒で。はっきりせみが写らないのが出てきて、これでいいか、と敢てという言い方でそうしたが、写真家の方はこざかしいと思うかなと思った。意図的に近いものは少しどきどきなのだ。写真は言い訳も多くなるのは、やっぱり掴んでいないのだな。当たり前だが。でも、正直意識してからは良いのを撮ってみようと、そう意識しているので、どうだろう、と嬉しさがあるのだな。楽しみの一つになっている。ありがたいね。 いいよな、と言ってくれた人がいて、確かに恵まれている。こんなの、どうだろうとプレゼンもできる。いいよな、って言ってくれた人が見せてくれたように、いつかは答えたい。自分の思いにも答えたい。私が好きなのは誠実だ。おもしろい人でも、変な人でも、誠実をちゃんと何処かで保っている人だ。時々、弱くて卑怯なことをしてしまっても。私もそうなので、そうだ。世の中の強い流れに上手く乗って、みんなそうだから上手くやろう、と見えないところで人を傷付けて。思い考えれば自分もそういうことをしたこともあるが。気付いたことは良かった。そうか、酷い目にもあって、少しは気付いたか。マゾヒストも時にはいいこともあるものだ。そうやって、大人になれたことは。以前、行っていた教会の週報にも書いたことがあるのだが、私はそのままだともっと、ひねくれて嫌味な人間になっていたと思う。ヒートアップしてきたな。しかし、良かった。だから、これからをもっと良かったにしたい。お願いします。醒めたらお祈りもします。

簡単には行かないだろうけれど。

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生活をしていて、時々思い出す。 辛くて、哀しいから、泣いたのだけれど、 勇気を出してくれた 優しさに。 今、思い出した。 多分、本当に優しかったのだ。 それを、また裏切って、 軽はずみに心を。 まだ、私は卑怯な場所を持っているけれど、(よく人が持つせこい所。時にそれに逃げるところ) 幾分か時がそれを流して、ましになっている。 みんな、やっぱり情けない、と思うだろうけれど、 心を傷付けたことを、許してほしい、と思っている。

昼もカレー、夜もカレー。

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風が吹く、と思った。なるほど、肌に感じた。 声だけで充分。子どもの声。 お父さん、お母さん、大変だろうけれど。 冷房の気分だったけれど、風がまた吹いて、 これもいいな、と思って、気付いたのだが子どもの声がしない。 ちらっと見ると、飲み物と、食事が出ていて、 それに静まっていた。 また、風が静かだと感じて、 久方振りのおしゃれな店はかなり緊張していたが、 その静けさが、 ペンを持って、 わたしも静けさを、そのさ中に。 これらの事柄は、だからという様に喜びをまた運んで、静かに音を聴いている。 アイビーは休みでしたね。ちゃちゃっとネットで調べる癖もつけないと。 ネットニュースを観ると、(見ると、しつこいがいい加減にした方が良い。ここは観るとだな)グレタ・トゥンベリちゃんさんは気持ちいいね。ポルトガルだったかの賞で貰ったお金すべて寄付するんだな。はっきりしているな。時事ネタに突っ込むが、応援してるぜ。届くところが気持ちがいい。私は多分だが幾らかはねこばば(転じて拾ったものを自分のものにしてしまうこと。ここでは正確な意味では使い方が合っていないが)するぜ。

苦しい時はだいたいドライブ

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車で出かけて、海沿いを走らせて、 風があるなら受け止めて、 色々思って、部屋に戻ると、生活がまた積み重ねられている。 ため息を吐いて、またやり直す。 洗濯機を廻して、生きていると確かめる。 これが生活だったのか。 別に悪くはないけれど。何度もそうやり直して、美味いもの食っとけばいいか、 と思えば腹が出て。 こうして何かを書いて、自分を助けている。 聖霊が心の内を震わせている。と感じるときもある。 理屈ではない。感じている。 深い場所でまるではっきり掴むことの出来ないこと。 眠っているのかな、と。自分は苦しんでいて、すべて手放して、忘れている。 苦しみの中でその時、気付かないのだが、語っているのか。 そうだとしたら、信じて良い。なぜ、はっきり信じていないのだろう。 いや、どこかで信じている。塗り重ねられていたのだ。経験を。 (コカ・コーラゼロはまねではないです。自分の身体の流れに任したら、だいたい影響されているのですよね。ジュブナイル小説っぽいのを書いた時も、自分の思っていた事と、世の中で起きていたことがリンクされていて、でもまあいいか、とそのまま書いたりして、どこかでやはり影響されている、と考えた方がいい。) 聖霊は特別な自分のものではなくて、ある人が一人一人に聖霊を感じる。と言っていて、静かな気持ちになった時に私も感じた。命にくっついているような、そこから何かがいい意味で漂っているような。 ダメだったことをまたすることは、一応常識的に昔は生きていたので、ダメだろうってどうしても思う。常識と組織が働く非常識。そうやって生きて、いい加減にして欲しい。まあ、そこまでは今は少ししか思っていない。よーし、明日はアイビーのゴールデンカレー食べよー、猫を見てこよー。今日も見たけれど。

今になって。謝るしか出来ない。

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福祉に曲がりなりにも、短くとも経験をさせてもらって。心を少しはもらった、と思っている。道行く手を引く人。見ていると、私のやましい心はそれより大切な人の心を温かい場所を思い出させてくれる。ふざけた例になるが、昔、母親がいた時、テレビにさんまさんが出ていて、「え、そうなんか。おれなんかいつもエロいこと考えてるでえ」と言った時、母親の顔が、「そうなのよねえ」という顔になった気がした。多分そういう顔なのだと思う。そういうものな人間。それでも、心を知ったおかげでそういうことから距離を置いた、その上を行くような感情も持つことが出来た。私にとって大切な思いだ。 やってしまったことは、もうやり直せない。無神経なメールも。 どんな人なのかだけ憶えている。よくは知っていない。 恥知らずな私だが。それでも、愛する人と家族が欲しいと思う様になった。 できるなら、一緒に子供たちも。 この期間、どうしていて、どういう思いだったか。想像出来ない。 どう思っているかも分からない。酷いことをしたり、書いたりしたのだと思っている。 私はいい気なものだったと思っている。 許して欲しいと今になってやっと思っている。今さら気付いたのだと。大切にするべき人だったのだと。格好を付けすぎかも分からないけれど、そう思っている。 ただ、想像が出来ない。これからどうなって行くのか。許されることが今はもう想像出来ない。別の世界のことのように感じる。

ラザニア

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掃除をする時、まず耳にかけるタイプのウォークマンを使用して、音楽を聴きながら皿洗いやなんやをしている。そうやって音楽を聴きながらしていると、ストレスが少なくがっつり掃除が出来たりする。やる気がなくてもウォークマンを使用して音楽を聴いていると、よっしゃあ、と動けたりする。せっかく詩人と言ってもらったことがあるのに詩人ぽくない、表現がよく頭に浮かぶのだが、そうやってウォークマンを使用することを私はドーピング、とほぼ名付けている。昔の日本兵が名付けそうだな、と思うことがある。 そうやって、掃除をしていると手に持つ物がなくて部屋を移動する時、気分が乗って、上記の絵の様な踊りをすることが多くなってきている。もっと上手く絵で感じを出せたらよかったが出来なかった。また、失礼だがゲイの人っぽい動きの踊り。イメージとして出てくるのは、映画の「羊たちの沈黙」の猟奇的犯人が、殺害した女性達の皮を縫ってそれを着て、ふんふんふーん、と機嫌よく踊る場面。踊りは違うがイメージとしてはあんな感じの気持ちが出ている。うけを狙っている訳ではなくて本当の気持ちの感じ。こういう感じも嫌われることに作用することがある。 それで、いかんな、と思ったのは実家でもそれが出てしまったことなのだな。圧をかけられた時に、緊張をごまかすためにふんふんふーん、と踊りながら歩いてしまった。あ、癖になっている、と思った。実家ならいいが、赤の他人の前で出た場合、まずい、と最近思っている。踊りも最近の物なのだよな。 大阪文学学校に1年通信を受けていた時、私は純文学がどういう物なのかも分かっていなかった。作品に先生がコメントを付けてくれるのだが、純文学の説明を少ししてくれて、(私の書く物は)純文学の物だと思いますよ、と書いてくれていた。文に切れがあるとか、美しいとかの純文学。うれしかったなあ。 ネットを見ていると(観る、と見るの使い方で最近混乱している。どっちでもいいが、鑑賞するようなのは観る、か。ネットとかは眺める感じだから、見る、か。)本を読む人は本当によく読む。私も少しは読めるようになったが、まだまだ。読めた方がいいな、情報を吸収できるから。無意識に落として栄養になる筈だから。 最近は特にずっとは同じ本を読めなくて、何冊かある本を少しずつそれぞれ読み進めている。本当に少しずつだな。 やる気がない時は本当にや

夜が明けている。

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限られる、私の鈍い心が、後になって そうか、どうなのかと思い。 いつまでも心は鈍い。 繊細に動く心を、機会に感じないらしい。 感じない。 後でどうなのか、と思うくらいで、時に身を任せ、 その水が流れる行くことを、 流れる、と見届けている。 そうかなあ、ということを目に入って、あとでそうかなあ、と思うことがありますね。 いつも大体あとからそれに気付くか思い浮かんでそうかなあ、と思い煩うほどではないにしても、思いますね。色んなことがあって、当たり前のように忘れて行って、日々を暮らして、私の考えていることをどうやって、知っているの? と思って。寝ている間に何やらして、聞いている。か、一番恐ろしいのがテレパシー的なこと。びんびんに放っている。若しくは自分で気付かず思っていることを、口で話している。2重人格。 そして、過去を思い返す。馬鹿だったなあ、と思う。抜けていた穴を埋めて行って馬鹿がましになっているが、色々な機会が少ないから、埋められていない馬鹿なところが気付かずにいられるのかもと思う。多分、人と話すと鈍い私の頭の回転がまず、目立って次に知識の抜けが目立つのだろうな。特に一般常識。しかして、時間がずっとあったことが幸いして、インターネットもあることから、埋められていると感じる。ヒマなのだよな。そんなことを思い返して、常識人としてましになっている。人としては短所があったり、長所があったり。想像力が欠如していたり。そんなところだな。

旧約聖書 サムエル記 第二

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サムエル記 第二 1~24章 列王記 第一 1~2章 このダビデの後半の物語にヨアブなる人物が登場する。個人的に好きな人物でしかし、実際にいたら絶対に近付かない人物である。 読み取る限り 軍人としてかなり、優秀な人で切れ者である。 同じく軍人で前イスラエルの王であったサウルの優秀な部下であったアブネルという人物。サウル亡き後、話をまとめてサウル側とダビデ側に分かれていた事情を何とか取り持って、ダビデに全イスラエルを任すことを約束している。 ダビデも認めていて、祝宴を張るがその後、ダビデのところにヨアブが来てなにやってるんですか、動静を探っているのに気づかないのですか、と言ってヨアブはアブネルを追って、殺害している。ここで、ヨアブの兄弟のアサエルの血に報いた、と聖書には書いてある。つまり、先の戦いでヨアブの兄弟が殺害されていたこともアブネルへの恨みとしてあっただろうが、実際に疑ってもいたのだろうな、という私の認識。疑いと恨み両方かな、と思っている。恨みが強いかなとも思う。 ダビデはこの報告を受けて、悲しみ、言葉としてヨアブを呪っている。39節にはツェルヤの子ら(ヨアブたち)であるこれらの人々は、私にとっては手ごわすぎる。主が悪を行う者には、その悪にしたがって報いてくだるように。と言っている。 部下として優秀だが、危険人物という私としての認識。あいつやばいなあ、ほっておくと恐いなあ、という感じ。 9章11~12節には軍人として勇ましい所が記されている。 ヨアブは言った。「もしアラムが私より強ければ、お前が私を救ってくれ。もし、アモン人がお前より強かったら、私がお前を救いに行こう。 強くあれ。われわれの民のため、われわれの神の町々のために全力を尽くそう。主はみこころにかなうことをされる。」 また、ダビデもダビデで戦場に行っているウリヤの妻、バテ・シェバ(このダビデとの子が次の王、ソロモンになる。この子かは分からないけれど。間違っていないよな)の美しさに惚れて寝ている。そして、身ごもった、という報告を受けてやばい、となる。そして、戦場にいるウリヤを呼び寄せて、まあ、休みなさい、と言って家に帰らせてバテ・シェバと寝させてうやむやにしようとするが、 ウリヤは、「私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に

年月が変わって、こんなところにいる。

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いつでも、何か共通なのかな。響きが、 想い出なのだろうか、これは。 人の響きが、 響きは色彩なのだろうか、 震動かな。 言葉なのだろうか。伝うメッセージなのだろうか。 何処から沸き出でて、 せっかくメッセージを運んでいて、 簡単に傷付いて、無くなって行くことは、 かき消されて無くなって行く。 波に泡になって、海の波がすべて。 祈祷会で間違ったことを言ってしまった、と思ったので書いておこうと思う。 マタイの福音書25章1~13節 そこで、天の御国は、例えて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。 賢い娘たちは、自分のともしびと一緒に、入れ物に油を入れて持っていた。 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。 ところが、夜中になって、「そら、花婿だ。迎えに出よ」と叫ぶ声がした。 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。油を少し分けてください。私達のともしびは消えそうです。」 しかし、賢い娘たちは答えて言った。「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。」それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。」 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼と一緒に婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。 そのあとで、ほかの娘たちも来て、「ご主人さま、ご主人さま。あけてください」と言った。 しかし、彼は答えて、「確かなところ、私はあなたがたを知りません」と言った。 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。 今思ったが、イエス様は結構厳しいことを例え話で言うが、例え話だからわざと厳しく言うのだよな。心に戒めということだな。 それで、聖書教育の箇所、~みなさんは全員、聖霊を宿しています。一人一人が神殿です。神殿に常夜灯があるように、常に喜び・祈り・感謝の火を灯し続けなくてはなりません。から、私は上記のマタイの福音書の箇所が思い浮かんで(はっきり何処だとか、どういう箇所だとか言うことはできなかったけれど)、、つまり、さぼってはいけないんだ、と言ってしま