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6月, 2021の投稿を表示しています

どうにでも。

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  昨夜から興奮のような、憤りのようなことが続いていて、Apeでの作業が身に入らなかった。Apeには最近見かけないけれど、東南アジア系の方たちがいることがあって、学生だと思うけれど、何をしているのか友達のように聞いてみたかった。英語を多分主婦の方たちに教えているかわいこちゃんがいて、私も習いたい、と思った。はきはきした感じなので、エロはちょっとで抑えれそうだ。ちらちら、胸元とか見てしまうかもしれないが。でも、多分大丈夫。私のこの凝視や見入ってしまう形は、ごまかしではないつもりだが、ことが起こって特にその形ができたんではないか。もともと、エロを全面的に押し出したタイプだったが、始まってこれは異常だな、と感じていた。24歳から25歳。それと、突然他人に怒りの感情が出ること。正確には感情の一部が出ること。あれ、この感情は否定的な感情は何で出るのだろう。ごまかしでは言っていない。ことが起きる時にそれが出る。今は、それが落ち着いている時期。薄い感じ。エロはあり、女性に渇いている。ちらちら見るくらいなのはもともとだ。しかし、一方落ち着きがある。まあ、関わらなければ、そんなに。私は多分だが、本当は分からないが薄いのだ。どうにでもなれ、となったら、どうにでも続いて行くのだろうか。昨日のベトナム風揚げ春巻きは、顔からぼとぼと汗を多量に流して、揚げていた。今日は汗をそんなにかかなくていい、夕食にしようと考えている。 アニョハセヨ~♡という渦にいざとなったら、ダイブしてやろうじゃないか、と本当は思っていないが、振り切ったら思っている。どうにでもなれ、おぼれてやる。自分を台無しにする最後の鐘だ。まず、しないけどね。

チャービル

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  チャービルの臭みが好きで、 本当に時々買うことがある。 初めて買ったのは、パスタを作るためにハーブを使ってみたくて、 買った。 臭みがあるものにもちゃんと価値があって、 作り手はそれを大切に育てるのだ。 ローズマリーのように、名前も匂いも高貴なものや、 ヒングのように俗称や臭いも恐ろしいもの。 そして、それぞれに使用する価値がある。 適切に、適度にそれを使い、使い分ける。 それらを使用し料理する料理人はそれを味をみて理解している。 特に考えず書いてみた詩ですね。まあ、自分の年齢から始まったにおいを、ため息をつく感じで、そうか。と思ってその気持ちが入ったかな。生き物のにおいがする。いつまでも。あきらめ。希望は持っている。 セブンイレブンの和風カレーが量も味も好きでお昼に時々買う。ちょこっと腹を満たす。自宅にいるとだらだらしてしまう。今日は風が吹いて歩いて気持ちが良かった。Apeにも行った。アジア料理とか作りたいがやる気が追い付かない。

まだ、歩いていられる。そろそろ水でシャワーを浴びる季節が近づいている。

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  はらはらと泣いている。 そういう世界を旅立って、 旅先の景色は変わらないようで、変わっている。 冷たいアイスや、冷たい缶コーヒーを飲む季節。 この旅先は景色が変わるのだ。 小学生はどうやら、学校帰りにランドセルを地面に。 楽しいようだ。水遊びかな。 それなりに暑い。今日は豚肉を食べよう。 (そういう世界~仕事場全体のイメージ) 夕食はアプリを見て今のところ、ゴーヤチャンプルに決定している。豚肉多めにしようかな。すぐに時間は経つな。暑くてだらだらしてしまう。人の目があると、真面目モードになるからApeで半日くらいいて、途中で寝っ転がったりできて、室内は店員さんだけで、ということを妄想するが、そうもいかない。そして、Apeもさぼり始めている。こういうのが人なのだ、と思うことにしている。できる人はちゃんとできるのだけれど。

やることやろうぜ、自分。

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  振り返ることをする。そして、人生は進行中。 ただ、ただ、色々あったな、と思って、まあ、人にはただ、ただあることが人生なのかもしれない。見えていないだけで。 随分だな、と思ったり、自分の情けなさが情けないこともあったり。 それでもやり直しの期間は誠実に生きていた、と思うことはできる。 そうやって、色々思う時に、 あいつ、いいやつだな、と思うことができると、日常に風が入ってきて、 元気、という希望が湧いてくる。 母親のノートに、げきうま、という手記を見ると、親子だな、と思った。 ちょっと、いいことをした。もう広まっているのか、でも今あんまり書くことではない。随分だな、と今でも思うがそして自由に笑っていたい、と思うが、それも経験かとも思う。もういいけどな、そういう経験も。無邪気が嫌われる原因、と聞こえた時もあって、少しは大人になりたいものだ。無邪気もいいところと、悪いところがあるのだな。大人、というところでは少ししか成長していない。希望としてはいつでも旅人のように、身軽でいたい。本当にやりたいことをするようになったら、そうもいかないだろうけれど。日常の稼働時間が短く、読みたい本とか読むべき本が増えていく。今の私の情報源は本、ということにしたい。ネッツ、も新聞もあるけれど、本を読もう自分、と思う。しかし、本当に本を読む人はどうやって沢山の本を読めるのだろうか。

センサー

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  飛び立つ鳥の羽音を聴いた。 上を見上げることで、生き物の自分が生きていること。創造物のひとつ。 その時意識が開いて、拡がって感覚に着地する。 ただ、生き物と。確認のために。 血が流れていることを忘れて、意識が先立つ。 何が感知して働いているのか、分からないのだが、 キリスト者となって、 意識のことや、意識が拡がることも、今は感覚として 理解することにしている。 イエス・キリストも、それをひととして生まれ、 与えられていて、愛する子、神様の領域。 私はその感覚を、旅人が ふとした命のうごきを、感じる時に、 そのように感覚だとして想像することしか できない。それで充分だ。 生活のバランスを崩して、がたがたになっている。それでも許されるから怖い。確実に健康に悪い。七折小梅で梅干しを作り始めているので、そういう作業もカビが出ないように丁寧にしないといけないのに。荒い。残りの梅は梅シロップにして、ゆっくりシェイクしてあげないといけない。これはそれくらいはしている。湿気が酷く、清潔にしないといけないのに、がたがたしているので、きちゃない。皮膚の粉がカビとなるのだろうな。皮膚の粉もそろそろなくならないか。 意識についての本を少しは読んで、そういうことがある、ということを存在として認めている。今後も、もっとゆっくりでいいから読んでいきたい。 車を停めて歩いていて、木の影から鳥が飛び立ったときに、感覚が拡がるというか、意識のセンサーが急に働くという経験をする。その先の命もあることを感じる。そして、自分に戻って、自分を確認する。そういうことが、まれにある。昔の旅人とかそういうことがあったのではないかなあ、と思っている。それが唄い人なら唄にしたためることができる。今なら写真家もそうなのかな。画家もそういうことがあるかも。歌人、俳人、漢詩人とかが昔だとしっくりくる。NHKのテキストのお坊さんは、良寛さんだった。 イエス様が過ぎ越しの祭りの時にロバが繋がれていることを知っていたのも、意識閾の低下として感じることができたのだろうな、と思っている。自分はそういうことはできないが、それがあることを感じている。神様がそういう力を持ったイエス様をこの世に送ったのだ、と。そして、復活という出来事に神様の存在を感じていて、信じている。イエス様が知らせてくれている。沈黙、という小説は読んでいないが、映画

なんか、どかんと楽しいことをしようと思うが、思い付かない。車で旅かな。今いいのかな。

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  雨の日に濡れた道路を見て。 心もこんな風に濡れて浸ってしとしと。 そういう気持ちになりたかったが。 時間は今日は思ったより鈍く。 もう暫くすると夜が来て、 しとしとまた雨が続くだろう。 今日は穏やかに鎮まる夜を迎え入れるとして、 何かを求めるのかな。 壁に貼った子どもの写真。祖母と犬のきみの写真。 人の評価ではなくて、今は自分を思って、 何度も信じている。 治ったかと思ったら咳が続く。机の前で病弱の物書きの気分になって、過ごしていた。シャワーを浴びてラーメンを食べに行こうと思っている。頑張れ、ということで餃子も付けて。煮卵も、、食べたことないラーメンにしようかな。

薄闇に。

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  薄闇の夕時に、小川の上に冴える紫陽花が、小川の涼しさを 受け、流れ、この時を生きている。 命がきれいに映えて、 ただ、当たり前にその花の色々を咲いて、 一所懸命にというよりも、 今、この季節、ただ生きて、 そのことが強くもあり、綺麗なことなのだ。 少なくとも、人に見、映る、そして思ふ。 その紫陽花の様子は。 こうして、その人に与えた時の象りは。 久しぶりに夜のコーヒーショップに行った。気持ちが良かったな。昔ほど、色んな音とかに慣れなかったけれど、それでも、気持ちを傾ける、というか自分の心に傾けて行くと落ち着いて来て、自分の空間が保てた。気持ちが良いを味わうことができた。また、行こう。今度は写真集を持って行きたい。 自分が本を読むのはやっぱり、最初、文の才能がある、と言われてから本を読むこと、積読読みのことを教えてもらってからだな。要するに物書きなのだから、本を関係があるから読む、ということだ。もし、関係がないとしたら、だるい、と思って続かなかったかもしれない。どんなものだろう、と思って読み始めた筈だ。すっかりそのつもりになり始めたのも良かった。文学学校とかに通信で1年だけど試したのも良かった。手探りでも色々やってみるべきなのだな。ザルに引っかかる記憶は少しあいまいになっても残っている。あいまいがちゃんと栄養になっていることもある。詩もそんなに書いていなかったけれど、ことが起き始めてから、特に書くようになった。よく書くように、の始めは写真を撮ったその写真から、とその写真を撮った時の雰囲気からが多かったように思う。そのもうちょっと前に、応募した詩の、返って来た冊子に、しじん、という詩が1番初めのページに載っていた時はびっくりした。自分のことだと思って、自分のことを言っていると、でも、なぜかが分からなかった。詩人、という響きが好きで、よく頭の中でそれを響かせていた。 恩師の言った、考えを書いた本、というのは出所が確かなら、その人の授業を受けているということになる。大学に行かないその人の授業。そして、自分の興味のある授業を受ける。まだ、本を読む体力のある自分だから、しんどくならない位には読んでいくのがいいことだ。無意識にそういう栄養が落ちて行って、発酵して物書きにも生かせるだろうし、何かの考えにも生かせる(間違っただけだけれど、ここは生かすのままで)。そして、今はそうい

α6300

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  肺の感じが変だ。喘息の人はこういう感じなのかな、というのを今経験している。目も左が少しだけ化膿したのと、両目がアレルギーからなのか少しもったりしている。これも、肺の感じと関係があるのだろうか。念のため医者に行った方が良いだろうか。人生では少し前に肺の感じが喘息のようになってから、それまでにはなくて、今またそうなっている。抗生物質で対処するのだろうか。どうしよう、医者に行くべきか。酷く苦しくはない。熱はない。 暑くなり始めて、もう少し体力をつけておいた方がいいかな、と思っている。天気が良ければApeにまでは歩いて行くようにしている。ただ、それだけだな。順調に生活をしていたら、がた、と生活がくずれたり。今はそれらの中間より良い方向気味の生活だ。そういう、がたんごとん、で今までの生活を送っている。グラフで表したら、上向きが良いとしたら、結構上向きの線でがたんごとん、をしている。 母親が亡くなる前に、生活よ、生活が大事、と言ったことは、今の私にとって本当に大事で大切なことだ。 人と接することが多いとしたら、自分の不備のある部分、弱い部分を感じることもあるだろうが、今はほんのりそれを感じて、気を付けよう、と思う現在。まあ、しょうがないか、と言える今の状況だな。ありがたい。 本は本当に遅読をしていて、古賀史健さんの本、山田ズーニーさんの本をまだ途中で読んでいる。それは、ただ読むだけではなくて、ノートに要点など書いて行っているからでもある。現時点で、二人とも自分にとってこれは参考になる、という特にのところがある。書き物だけではなくて、私は大事なテーマというか要点がずれていることがよくあるのだが、そういうこととか、プロットのこととか。小説は筆力でねじ伏せていくこともあるし、最初考えていたことから、はみ出していって、どんどん広がって豊かに話しが変わって行く書き物ではあると思うが、論理的なところが、ましにはなったが弱い自分にとっては参考になるし、そのノートを見直して自分が気になったところなので、つまりは自分が不足したやり方だったりするので、少なくとも自分のやり方になかったところなので、気になっただけのところもあるけれど、そこは見直さなければいつまでもそれがない自分のままでもあるわけで。そして、それがどう自分に組み込まれて馴染んでいくか。自分のものになって行くのか、どうなるんだろうな

水素エネルギー

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  昭和49年発行の太田時男さんという方の本、水素エネルギーという本が実家にあった。持って帰ってちらっと見ただけだが、とっくに太陽光熱を利用して水素を電気分解して作ることが書かれている。ウイリアム・エッシャーという人も、閉ざされた陸より開かれた海へ出よ、太陽で水素を、が信条らしく、21世紀のエネルギーとして実用化への研究が進められているということだ。風力エネルギーから水素を作ることも書いてある。21世紀となった今、水面下で動いていたことが表立って動き出したのだ。はーん。すっかり、自分が考え付いた、と思っていた。私が考えるようなこと、そりゃ、頭の良い人が沢山いるんだから、とっくの遠くの方でかんがえるわな、と肩を落とした。天才だな、自分と思っていた。今、出会っておいて良かった。最大くらいの恥をかくところだった。調子に乗ってしまった。そうかー。この本ちゃんと読もう。父親も、そういうことちゃんと言ってくれたら、いいのに。エネルギーちゃんとあるじゃないか。ちょっと、しゃんとしたな。残るは文章のこと。自分が持っていること。書く時が来たら、できるだけのことを注ごう。アイデアもまだ、諦めていない。まだ、持っているな。書くことができる。まだ、ある。弱気になったら、おい、と来る時がある。元気にできることをして、人生を歩きたい。健康的な楽しいことして。しかし、くそー、と思っているのが正直なところだな。