レモンの。
私にはレモンという概念がある。 最近それは主に国産と言われているレモンのことを指していることが殆どで。 イエローカラーがつやつやしている、外国産のレモンは概念にはあったのだが、スーパーで見かけると、眼をすっと泳がしてレモンがなかったように、そこを通り過ぎている。 もちろん、バスケットボールをきゅっきゅと磨くようにイエローカラーレモンを磨けば、問題はそんなにないのだろう。しかし、私はもうイエローカラーレモンを見ると、眼が泳ぐ、そういう人間になってしまっている。嘘を付くときとまったく、いやほぼ同じ私という概念。概念。そう、つまり私は概念であり、私という私は4次元に存在し、今日もレモンという概念。つまり、国産レモンの実物を、概念と照らしあわせて、見つけ記録し、またイエローカラーレモンの概念を、ああ、そうか、イエローカラーレモンはもう、レモンの概念ではないのだろう。イエローカラーレモン、という概念になってしまったのだ。 なぜ、こういうことになってしまったか。 それは、あの料理が始まりだった。レモンの、当時はレモンはレモンだった。その当時、図書館で見つけコピーした、レモンの皮をすりすりして、香りを楽しむ料理、それを見付けてしまったのだ。暫く4次元で生きていると、レモンの皮すりすりは、ときどき見かける料理だった。香りが、香りがレモンなのだ。そして、今日4次元をにゅっと出て、記録したレモンは、爽やかで。香りも見た目も爽やかな、レモンの皮。そして、国産の軽く農薬というリンスをしたくらいのレモンならば、お湯でじゃじゃっとすすげばいい。現地では多くの経験を経ただろう、船便で長い眠りのそのイエローカラーレモンを目覚めさせ、また保つには、いくつかのオーバードーズと言っていい時間を経なければ、スーパーの野菜コーナーに共に陳列することはできない。ネオレモン、と言っても良いかもしれない。ネオレモンは実は多くの活躍をしている。私もそれを認めている。ネオレモンはバーに行けばそこもまた活躍の場だ。私が3次元までの空間世界しか知らなかったときは、ネオレモンを受け入れ、それを飲み干した。ネオレモンは気軽な奴なのだ。自立している。国産レモンは家族感というか、連帯意識が強いかもしれない。4次元に生きている私にはその家族感に魅せられ、惹かれ、今日もその記録をしている。今の私ではネオレモンのようにどこ...