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2月, 2022の投稿を表示しています

今夜は回鍋肉

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  平和な1日だった。朝、早くなくとも起きて、食事をしApe に行き小説に向かう。しかし、今のところチープなアイデアというか、乗らない。カエルによる話が始まるところは、ふざけ気味だがちょっと乗った。私としてはふざけていないが。しかし、それもすぐに切り上げ、まだ机に向かって小説書くのに慣れていない。暫くしていないことだったから。本格的にプロとして書くようになれたら、長く机に向かえるようになりたいものだ。それと、自宅でね。その方がいいだろう。今は気持ちのところで、まだ甘いのだろな。やる気がなくて、外で小説に向き合っている。現像は、適当になっている。これこれ、ちょいちょい、のような。良い写真をブログに載せたい。今回の写真は暗いな。ブログに載せると、現像をしている時と感じが違うようになることがちょくちょく。カメラで撮った時に、モニターで確認したら、私はモニターでやはり確認するのだが、その時は良い気味に撮れた、と思ったが、現像したりブログに載せたりなると、イメージと違う。色々試してみるとする。ことにする。やはりそれが嬉しい。 部屋の掃除もして、食器も洗って机周りがもう少し整頓した方がいい。父親と話して、メバルをそのうち釣りに行こう、と思っている。去年、父親がメバルは春告げ魚とも言われている、と言っていたのが印象に残って、釣ろうと思っている。煮付けにする。夜釣りだな。昔に春は遅れて水温が下がるのでかなり、魚の食いが悪い、というこれも父親からの知識で。しかし、メバルなら基本夜釣りで釣れる。春に時どき、顔を合わす釣り人も、今はメバルくらいやろ、と言う。しかし、じゃあ、なぜ網をもっているのだ、と思う人もいる。チョーさんの釣り情報の雑誌の時に春にデカいスズキが釣れていたりして、わくわくしていた昔。それと、鯛も浅瀬に産卵のために来るという、ネットからの知識。産卵が終わる5月くらいは美味しくない、と釣り人が言っていた。鯛、未だに釣りたい。桜鯛、という産卵前の美味しいのを釣りたい。それと、ギターと英語だな。1日の計画にはみだして、結局しなくなることが多い。夕食をしたあとは、少し本を読むはあるが、やって行こうとブログに書いたこともあるが、ごろごろしている。もう、それでいいと思っている。齋藤陽道さんがTwitterに載せていた、ypad というのちょっと興味がある。書いて、計画を立てるノートみた

ね、ねこの日だ。え、でも、かんがえると、2022ねん、ねこのとしなのか?

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  ねこは、にげる。あなたにちょっとおこっている。 ねこのかいわですね。よかった。それでも、ねこのかいわがはじまった。 ねこが、なぜおこっているか、あなたはいう。 そう、そうですね。きょうは、いんたーねっとで、ねこのひだ、とみなさんがいっていて。ここで、ねこをあらわすのも、どうしよう、とおもって。 けっきょく、ねこたちをさがしていた。 そうです。ちょっとあせっていて。 ねこはたてもので、ひなたぼっこをしていた。 そうです。しかも、みけねこだ、とおもって。にほんぽい、とおもって。 ねこはかんじた。あつがつよい。いあつかん。 ひなたぼっこしていて、しかも、うしろあしで、くびをかいている。これはしゃしんにとりたい。あせりました。こんなねこのひに、みけねこを。しかも、きもちよさそうに、している。 ねこはかんじた、いあつかんだけでない、こうふんしている。ふぇーす、とぅー、ふぇーす。ねこは、にげる。 すみません。 でも、ねこはしゃしんのおとはすき。ねこはほめられたり、きょうみをもってくれたりするのがすき。だから、ねこのかいわのくうかんにはいる。 よかったです。あたたかいところをじゃましてしまいましたが、すみません。 ねこはきょうはとくにのうないげんしょうに、はいらない。こうふんしているかんじがするから。 ですよね。やはり、こういうときのねこのかいわも、つながってはいるけど、おたがいののうがりんくしない、というか。 ひとのかいわでもこういうことある。ねこのかいわもそういうことある、ということ。ねこのひ、とか、あせらずに、冷えたコーヒーをあたためなおして、のむ。そういうこと。きょうは、おいかけられたのも、いいおもいで。 すみません。 ゆっくりあるいてだから、ねこもべつにいい。きみをうれしくするのも、ねこだから、ねこもうれしい。それと、ねこどうしのてれぱすで、くるまのなかで、いぬもすき、とうたっている、といまじょうほうが、はいってきた。 いぬもすきです。ただ、しょうがくせいのときに、ゆびのあいだをつよく、かまれて、けがをしたことがあるので、ちょっとこわい。 ねこもかまれるのはこわい。でも、ときどきいぬとも、しゅうはすうをかえて、てれぱすしている。いぬれいでぃお、している、いぬがいておもしろい。とおぼえができなくて、ちょっと、ふまん、とか。 そういえば、さいきん、いぬのとおぼえ、きかな

お昼休みは。

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  美味しいということは嬉しくて、幸せで、大切なことだ。 コーヒーを飲んで、森永のチョコレートを食べて、 これが当たり前で普通であること。 腹の肉が、良かったけど、贅沢に脂肪を付けている。 アラスカでベリーの実る時期の熊の脂肪は甘いらしい。 私は結構ジャンクな味がすると思う。 食べられたくないが、書いていてちょっと恐くなった。 お天道様に感謝して、食事をする。 そういうこと、忘れたくないし、伝えてみたいと希望する。 のらりくらりのすごい感じで、やることを開始している。こういう、のろまな感じだった、と自分のことを感覚だけで感じるとそう思う。しかし、カメさんの感じでも進んでいるので、焦りがない。感じとしては悪い方に考えは向かっていない。正直あの感じしんどい。そうだな、こののらりくらりで暫く進めよう。そのうちエンジンがしかも水素エンジンがフォンフォン、と鳴ることを期待する。 子供のことをちょっと感じた時に、やっぱり私は慣れていないな、と思ったな。気遣いというか、身のことをちょっとアドバイスというか。お母さんが感じる子供へのマナーとか、私は結構マナーが不愉快でないにしろ、悪いし。と、ちょっと思ったな。 教会のことは、ごめんなさーい、という感じだな。ちょっとだけでも、えらそだな、と思ったりもしているだろうな。しかし、ここはカメのペースで行かせてもらう。 大したことしていないのだけど、楽しいなと思っている現在だな。大したことというのは、自分の身の周りとか身になることで、だけど。外界のことは、怖えな、と思いつつ別世界のことでもあり、間接的に自分への刺激にもなっている。だから、本当に心が動いたときに、嫌ではないことなら、その思うことを、何だろうな。自分はこう思う、ということを表に出したいということか。だいたい、激しくはないけれど衝動なのだけどな。怖いな、書きながら思うな。でも、良いことに転がったら、間接的だから抑え気味なのだけど、静まってもの凄い嬉しい。やっぱり、良い方に行く方がとても良いのだ。大たいの人がそう思うだろう、と思いますのですね。今は私は小説を書くという、目的というかやりがいが、始まり出しているので、それを楽しみたい。日々の楽しみがそうなるといい。こころから、ありがたい、シンシアリー。ブログも楽しみだし、身になることも少しはしたいし。これだけ時間があるのにな。と、思うけ

スパイスのぐっとくる感じ。どのスパイスであれがきているんだろう。スパイスのくせ、というか。

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  焦って大事な小さなことを見逃していること。もう見えなくなるそういう状態。 自分に通り過ぎて見えるはずの機会。 大切なことがあったり、そうでもないけれど、こころが嬉しくなること。 自分にとってのということであるけど。 そういうこころを通過する数々。 それが時に日々を穏やかに、少しうれしく するのだから。 焦った気持ちで書き始めた今も。 そうだよな、と思って、確かめて。 全部が全部ではないけれど。 そう思って書いていたら、気持ちが鎮まり始めている。 焦るの良くない。 君ののうないげんしょうでかんじたのだけれど。あせっているのはすぱいすかれーをつくるのに、ぶろぐがしたくて、ゆうごはんがおそくなりそうだ、とおもいはじめてあせりはじめたのだね。 じつは、そうです。しょーもないかもしれないけれど、それがあせりのげんいんです。ちょっとあるいて、しゃしんがとりたい。きぶんかわるし。そして、ならぶろぐしたい、きけんもあるけど、ひとがみてくれる。ただひとりでいるだけではない、さびしさというか、なにかうれしさもあるか。そういうことが、おこって、やはりさびしさがまぎれる。 こういうとき、すこしねこのかいわもたのしさが、かたい、というか、たのしみがげんしょうしているね。 そうかもしれません。 ねこのかいわは、りらっくすして、たのしいときにするのだよ。でもじゃあ、こんかいのほんだいにいこうか。ちょうしにのりたいについて。 ああ、そうですね。いじげんにいって、うひゃひゃーとわらいたい、というか。ひょう、とかいいながら、おどりたい、というか。 まさか、はるがちかづいたからではないだろうね。 うーん、なんていうんですかね。それをかんがえたら、すきなばんどのらいぶで、うおお、とかなりながら、うしろをふりむいたら、ひとがなみみたいにゆれていて、すげえ、とかおもって。そして、みんなおんがくがすき、というか。 ねこにはちょっと、あつくるしいけど、とおでにでかけたときに、らいぶはうすのおにいさんが、かりかりのおいしいのくれたね。 あとは、すげえだろ、とかいいながら。みんな、すげえっす、とかいってくれて、うっひゃひゃ、とわらってもみたい。でも、これはげんじつにはなくて、よくて、いじげんのせかいなら、いいかな。 ねこはそのげんいん、そのきもちがのうないげんしょうにつたわっているよ。かこにものほんでちょうしにの

雪の知らせ。(雪がちゃんと撮れなかった。)(S にして連写がいまのところ。)

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  私のこころは春のために、準備を整えて待つ。 雪が降った。 軽くて優しい雪だ。 私は予感して。 これは春になるための雪だ。 母親が亡くなった次の年、東北の大震災が起こった。 その年、確か三月が冷たく。雪が松山でも降った。 でも、それでも。 春は待っているのだ。 逃げることはない。春は逃げないだろう。 冷たい春も、暖かい春も、 命が命を待って、迎えている。 (パソコンの操作を切り替えて、インターネットが出たとき、ニュースを観ました。殆ど観ていないのですが、テレビのニュースの切れ端にその演技の風格というか、女性なのに王者の滑りだ、と勝手に思いました。まだ、若い少女が翻弄されることに、才能を持った少女が、心を一つしか持っていない少女がどのようにこれを乗り越えることができるのだろうか、と思い。少しだけですけれど、今祈りました。若い子はそのあとの未来が助けのある温かい人の温もりのあるものだと良い、と思いました。私は甘ちゃんに育っているので。でも基本はそういう感じではないかと思うのです。人の本当の自然な温かさです。)

灯りを船に浮かべて。

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 家を出かけるときに、若いこと SEX するテンション、と思って 出かけたときが何時かにあった。 わくわくして楽しかった。 母親が時々観ていたあけすけに物を言う 外国の女性の映画の影響だと思う。 少しずつ大人になって行くのは悪くもないもので。 心が静かになる時間があることも こうやって、詩を書いて 心の内を水に浮かべて流すことも。 現像が難しいことと、撮っているときも絞りのことを考えたりした方がいいと気をつけることとか、でも面白い。2枚目の写真は後ろがぼやけ過ぎたので、縦幅を結構狭くした。ナロー、ね。ごまかした。それと花の周りが何かぼんやり明るい。 観る、映像、画面のをみるとき、見る、は実際の物をみるとき、だな。急に思ったが失礼だからな。 詩を読んだり、本を読んだりしながら、はまり始めているその時間が好きだ。上質に流れる時間。ちょっとしんどいときは読めなかったけれど。そして、私にはその時間はそんなに長くはない。その少しの時間が好きなのだ。頑張って読むときもあるけれど。 手離すこと、大人になること、優しい人、好きになること。 その他の人やことも、かなり嫌われているだろうけれど、許してほしいな。

ブラッドオレンジの世界

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  ブラッドオレンジの種が入ったタロッコという柑橘を二個絞る。 蜂蜜を溶いて、炭酸で割って。 まだ、紅い色に染まっていない一個。 紅く染まり始めている一個。 ぎゅっぎゅっと。 美味しいものとはこういうことか、とまた思っている。 世界がその一時だけに現れるような。 多分、その最後にまでは行き着かないけれど、その世界。 楽しい音楽を演奏していて、人に見られないなら、私は踊る。 そこで皆踊っている。 そこでぶりぶりと尻を振って、皆さんと一緒に踊るのだ。 今日は気にしないね、お尻を振ろう。 楽しく、自由に。 ぺーぺー。ぱっぱー。 おならの音が聞こえたけど、みんなそんなことより、楽しい音楽があるから。 オレはけつを振りながら涙しているんだぜ。 楽しくて、嬉しいから。

写真がちょっと暗かったか。ブランケット・ド・ヴォ―美味しかった。美味しいクリームシチューという感じ。パリの食べるスープより。

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  よく寝た。眠り過ぎにいつもなら、後悔をしているのだが、気分がとてもすっきりしている。私の寝過ぎは仮死状態、といってもいいくらいのその過程で。薬が少しだけ増えたからか、その寝過ぎに気持ちや身体が肯定的だ。体重が少し減っていたり。筋肉が落ちているのだろうな。さて、焦らないことだな。焦っていないけれど。本もまた読めるようになってきて、少しずつ、齋藤陽道さんの本、遠藤周作氏、沈黙、宮沢賢治詩集を読み始めている。齋藤陽道さんの本は、齋藤陽道さんなんだよな。人の息遣い、というのを他の人でも感じることがあるのだけれど、その息遣いが齋藤さんなのだな。さらさらとして、臨場感があって。そして、齋藤陽道さんだな、と。深くそこを掘って分析しなければ、そういう感じかな。沈黙は重厚でしんどいかなあ、と思っていたのだけど、小説モードで読むと、読みやすい。よく使う表現かもだが、読みよい。先にちょっと前の映画を観ていたからだろうけれど、あの場面か、と思い出すこともできる。それも、読みよい理由になっている。それと、かしこに綺麗な表現をちりばめているな、と物書き側からの読み取り、受け取り。宮沢賢治詩集は勉強になります、という感じだな。読み続けていると、はまってく。物書きとしての、気持ちとして。私、いつかは経験すべきだな。そういうのめんどくせえ、と今は思っているのだけど。まあ、自分が悪いんだけど、年相応ってなんだ、とも思うけれど、年相応の幸せに浸かってみたいものだ、と思うのだが。取り返しのつかないことをしたのだとしたら、そうやってそれを背負って生きるのかな。幸せに生きるつもりだけどな。色々あるものだ。人生を生きている。取り返したいものだ、幸せを。 様々を休止して、人と会わない生活でさらに寝過ぎると、ずどーん、と落ち込んだ気持ちになるかな、と思ったのだが、今はだけど、リフレッシュというか、気持ちが霧の晴れたという自分を感じる気持ちだな。多分、薬のおかげなんだよな。負の方に気持ちが向かっている時は本当にしんどかった。ゆっくり、生活をしていく。旅も日帰りの宇和島に行くくらいかな。

そういう、ぶつぶつと弱いのも物書きっぽい、と言えば物書きっぽい。強気になりたい、と。

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  そっと、側の草むらに 雀の亡骸を、寝かせてあげれば良かった その行いを。 日々が過ぎ、 記憶を後に残して去り。 随分、感傷的だ。 優しさは良いのだけれど、弱い。 なら、弱さを糧にすることで、 それこそ、自分を信じてあげたい、と思う。

朝風呂

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  朝、セブンイレブンのレーズンサンドを一つとゆで卵を食べた。レーズンサンドだけではお腹が満たされなかったが、ゆで卵を食べると随分落ち着く。自由時間があるに関わらず、さらに自由時間を作った。さて、何をしよう、と思うが。まずは生活を整えよう、と。自分で料理をしなくなっていたが、特に野菜に関して食べるには自分で料理をしなければ量を食べることが少なくなる。その意味で青空食堂の野菜やバラエティーの多さはなかなか良い。しかし、そろそろ自分で料理をするべきだ。野菜を様々に料理して美味しく食べたい。太ねぎ食べたい。台所がわやく茶になっている。取り戻せ、生活を。 危ないな、という感じになっていたが、少しもとに戻っている。周りから見たら、かってに一人で何か言っているな、と思うかもだが、そういうのが私なのだと思う。大丈夫そうで、大丈夫でない。慣れている人が見たら、私の疾患に言わなくても気付くだろう。多分だけど。 掃除を何日かに分けて、少しずつして、野菜多めの食事を作って。音楽を聴いて、乗って、踊って。写真撮りたい。元気になってくると写真が熱い。今回のブログの写真はそんなだし、これからもそうであるのが多いけど、でも写真が今熱い。 元気になっているけど、何て言うのか、一部を引いてのけると、運が悪ければどんがらがっしゃーん、となるゲーム。ああいう感じだと思う。 イメージでは温かいお茶を手に持って、安心して暮らす感じだな。 自分の中心はあるけれど、その周りの私の感じが危険になっていた今思うイメージ。時どき、ブログを書いてるうちに、明るいブログ内容になって行くと良いものだ。 攻撃的な気持ちではなくて、A型就労とか経験したり生きていてそういうので馬鹿にされるのって悔しいな、と思う。いや、もともとの私のこととか、持っているもので馬鹿にされるのは悔しいことだ。たった一つ良かったことは、その悔しさが少しは分かったことで。さらに言うと、私はもっと調子のいい人間だった。普通に生きているとそうした方が良いことも多いが、今の状況になってそうしなくてもいいことは楽というか、何て言えば良いのだろうか。そして、もうそうしない方が良いことを感じて、なるべくだけどそうしないように生きてみたい。人間社会は複雑だから、複雑なことが多い。今はだけど、そこから逸脱している。だから、多分そう思える。急に思い出したけど、昔思った、仙