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8月, 2025の投稿を表示しています

親子丼と2つのおでんを選んで食べるようになった。好みのおでんの味。甘くない。自然なつゆの味。かならず1つ取るじゃこてんも甘くない。

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  今までの経験を感謝します、と祈っている。今の状態だから言えるのだろう。今も悪いところは引きずっているけれど、直していこうという余裕がある。大きなところでは、自分の立場があるからなんだよな、様々なことは。今、ここに仕事もせず教会も行かず、スマホやパソコンから何かを発していて。自分の嫌なところもあるけれど、嫌なことにも遭遇して、失敗をして。それでも、あの自分から少し変わることができた。随分だ。そして、経験を感謝します、と祈っている。これ以上はもういいぞ、と思っているけれど。 これからどうなるか、分からない。精神的体力もそんなにない。その中で、やはりそれでも将来役立つかもしれないのは、文章を伝える技術を蓄えておくことだ。少なくとも今できることはそれだ。 フィンランドだっけ、伝統工芸が盛んで進学コースと職人コースがあったか、記憶を掘り出してみると。絵画や写真や文章や工芸とかは高校からでも学ぶことはできる。自分も生活の基本は中学までで学んだことでやり繰りしている。しかし、この無職の期間で学ばせてもらったことも多くはあるが。本物に触れること、と子供さんについて言っていたことを憶えている。気づくのだよな、何かが確かに存在していることを。という方に話が来てしまった。 何とかしないと、と焦り始めていた。焦るとよくない。謎だ、謎過ぎる。あのぼやけて見えない、向こうに一つの幸せがあることを信じたい。 今日も昼食に食堂で親子丼を食した。ほんまに最高である、と心身ともに感じた。飽きないんだよな。

幸せの手紙

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  一人眠っている時に、炎が私を包んだ。夢を見て、私は炎を与えられて燃えていた。慈愛だと分かった。慈愛が私を包んでいた。愛している、と言っていた。深い暗闇のどこか向こうでそう言っていた。 ニュースを観ていた。酷い災害があって、青いビニールシートが張り巡らされていた。そこでカメラは一人の女性の声を捉えていた。 「お母さぁん。」と、叫んでいた。 愛している、と伝えたかった。 女性は、お母さんを見上げていた。お母さんは友達と、楽しそうに話していた。そして、女性に手を振っていた。 (お母さんは灰と骨になっていた。伝えたかった、ありがとうと。私は成人になって結婚して、あなたにもらった愛を受けて生きている。) 焼き尽くされていた。塵になって塵あくたになって。 愛している。 その身体、あの柔らかかった手。その手を振って、魂が行く。 愛していると告げていた。 ペンの握り方を教えた。ペンを握ることができると、文字を書いて人に伝えることができる、と私が言うと黙って頷いていた。私は私の子を愛していた。 ぼっとすると、ペンの握り方がどうだったか忘れることがある。私もまた、父親にペンの握り方を教えてもらっていた。父親が私に愛している、と言ったことはない。そういうものだ。 大人になるにつれて、痛みを知る。愛しているという言葉があまりにも強く本質的で、誰しも使うことにためらいがあるはずだ。しかし、伝えたい時がある。愛していると最後には。 深い意識の底のどこかが言っている。愛している。 愛している、という感覚。心の中心に響き震えるその言葉の形(かたち)。 この子が、それを思い出させてくれた。深い慈愛が存在していることを。 画像の向こうで、母親が離れ離れになっていた子供たちを抱き締めて、言っていた。 愛している、と。 痛みが沢山ある世に、愛している。 そう、私には聞こえた。 <作者あとがき> 原文からパソコンに打つ時に、人称が分かりづらいというか、違和感を感じて少し直しました。昔、大阪文学学校に通信で受講していた時に、人称のことが分かりづらいことを指摘されて意識するようになりました。そのあと、いつぐらいだったか年月が経って、人称がどんどん変わって成立する作品の存在があることを知りました。確か、ちゃんと読んでいないのでどのような作品内容かは分からないのですが、そういうテクニカルと言っていいのか...

ショートネコステをライトなやつを、また描いてみたい。

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  夏休みは終わるのですが、文章のことを伝えることを考えていた時に考えてノートに書いた4コマ漫画のようなものを描くアイデアの出し方の1つです。今はシリアスモードなのに漢字を間違って直しているところが哀しいです。清書もしようと思ったのですが面倒でしませんでした。 考えを〇で囲んで矢印をつけて広げたり進ませていくやり方は、初めて見たのは前田裕二さんがやっていて、問題をそれで解決していて見ていて感動しました。最近、時々見ますよね。 1枚目の写真の考えを広げて行くところからは、この時点ではアイデアが出なかったので最初浮かんだ、犬と扉と氷をチョイスします。考えてみます。矢印で考えに流れをつけてもいいです。話の流れを作っても。 3コマ目の歌っているのは私の世代のWANDS というバンドの「時の扉」という曲の始まりの歌詞を意識しています。とっきの、とびら~たった~いいて~、でしたっけ。友達がCD ラジカセで聴いていました。気づく人はもしかして、と思ってくれます。お子さん向けなのに。知っている子は知っているかも。 劇的な笑いはないですが、お子さんとか結構好きだな、と思ってくれるかもしれません。 夏休みは終わるのに、こんな提案です。 アイデアが満ち溢れている場合は、そっちを優先しましょう。笑いはそこに起こるかもしれません。矢印で浮かんでいる話の流れはつけておくと、いいかもと思います。まずは言葉を書いて話の流れを矢印でつけていく。 気づくと、炭酸、も入っていました。

私の左手小指はかっくんなるタイプだ。猫でイメージするなら、かぎのしっぽ。

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  不思議だ。 色々なことをやってみたいこと。 いい欲だ、いいことなら。 やる気がなくなって、内に籠って。 ただ生きているだけだと心配だ。 その間にエネルギーを自然にこころがからだが、蓄えているならいいが。 命の力。生きる力。 色々なことに触れて、力を貰う。 熱や温かみが灯って。 身体にも体温があって、 確かめる。 今日はスーパーで久しぶりに、高井くんとこのおばちゃんのお好み焼きを作ろうと思って材料を知るために立ちながらスマホでスクショしたものを、ファイルから探していた。なかなか見つからずに、その間スクショしたものの中にあのよく情報が流れていた時に、すでに露光のことを言ってくれていたファイルがあった。当時はよく分かっていなかったが、今なら少しは実感も含めてそうだな、と感じ取ることができる。あの時期のことをもっと見直せば、得るものはかなりあるだろうが、見直していない。しかし、ここに書いておこう。週に2,3回は短い時間あの時のスクショしたファイルを見直す。紙に出したものもある、それから。 ぱんっと手を打って切り替えてそうすることにした。本当に1回手を打った。そして、夕食は高井くんとこのおばちゃんのお好み焼きだ。瓶のハートランドビールも買った。 今週は偉くて、ギターを1時間と英語を30分を週に4回実行することができた。時間あるのにそれだけかい、とも思われそうだし自分ももっと端から自分で見てもできそうなのに、週4回やると、いやー、よくやったなー、という気持ちになっている。慣れがあるというか、週4回の精度に少しずつ定めることができそうな、状態になりつつあって、それ以上やるとちょっとストレスが出てきそうな気がしている。それより前は、もっとできていなくて、週4回やることに本当に極最近意識しているというか。やるべきだな、という意識を持っている。嫌にならないようにが始めた時の思いで、それは大切にするべきだと思う。他のこともしているし、何かしていたらすぐに時間は過ぎていくのだな。周期的に鬱屈もするし。上手に自分の機嫌と付き合う。週4回出来て、ぱちぱちと拍手をする。やらなくなるよりは、ずっといい。 自分はそんなに器用ではないのだな、と思う。46年生きてきたから、それを認めて自分と付き合っていくしかない。対面で自分の好きではないところが出るところがあって、でもいいところもあるし。自...

楽には生きているが、変わったこともあるな。やはり、本をよく読んだな、と思う。

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  息をしている。 私は生きていると確認する。 私にとってをこの世に期待もする。 だから、未練がある。 生きていたい。 年を取るのは少し恐い。 老いて行くことで、置いて行かれること。 そう思い始めてでも、その間に私はどこかが変化した。 卑怯な私を省みて変化したかった。 でも、それはそれでいて。 よく語るが気を付けておこう、と。 心がけている。 自分、本格的ではないが卑怯だなと感じることを、よく経験していた。それで、今のところの私の思いは、卑怯という本質があって、あまりそういうことが気持ち良くないし、気を付けようというそれありきでの思いなのである。そこに強さがないので、経験したしそういことはばれるし、後悔しか残らないのでそこ、頑張ろうという思いだ。それでもやってしまうだろうし、そこありきで乗り越えよう、または付き合おうと思っている。これは経験の結果なのだよな。 若かりし少年や、高校生の時に父親のひねくれた性質に触れておいたことは良かったな、と思っている。今は年もあって、あのひねくれたところを触れて感じることはほぼないが、穿(うが)った見方、というのは本来は本質をついた見方という意味で、最近ではひねくれた、疑った見方というニュアンスもあるようで。あの頃の父親の意地悪い感覚を経験したのは、さらに自分の実際の今までの経験に照らし合わされて、なんて言ったらいいのか。正だけではなく、負も現実にはあるというか。でも、そこをいい方でいたほうが、いいのにな、とも望むというか。嫌なことというのは、味わうと嫌だから。同じようなこと、ずっと言ってるかもな。 昨日の夜は眠れなくて、2、3時間眠れたくらいで。午前は父親の通院があって、午後に眠れたら日が暮れるくらいに釣りに行こうと思っていたが、眠れずに今ブログを書いている。眠ろうとお酒を1杯ひっかけてそして、眠れず。さらに、もう夜は飲みに行こうとまでに、考えが行き着き。アルコールが入っているから、歩いて飲み屋さんまで。釣りに行こうと思っても、なかなか行かない。行ったら行ったで楽しむのだが。行く曜日を決めておこうかまで思っている。習慣にしてしまう。私の楽しみは釣ったらその魚をどのように料理するかなのである。 そろそろ9月がやって来る。旅がしたいね。8月中に掌編小説が書けたら。自分での思いだけで、そうしようと思うだけであるが。

愛している。(昔、飼っていた猫へ。)

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  ボールペンを持って、 詩を書くことが当たり前に。 正直に、まるで想像しなかった 写真を撮って、詩を書き込む 仕事のない日常。 良い時もあれば、苦しむ時もある。 今これらが、現実に進行している。 ボールペンはジュースアップが今はやはり好きだ。小学校の先生から頂いた、ちゃんとしたボールペンは机の右脇においてあるボールペン入れの中にある。ボールペン入れのいいやつ買ってみようかな、とも思うな。頂いたボールペンは長い小説の時に使うと決めている。無職の期間中に書いた二つの、自分としては少し長めの小説はそのちゃんとしたボールペンで書いてある。芯は何回か替えてある。先生には、不愉快な思いをさせたことがあると感じている。でも、それが自分がよくやる自分のことなのだ。 短い小説を書く準備を始めている。要するにアイデアを出している段階だ。私は詩よりも小説の方がやってきた経験、期間が長い。短い小説はその方法に全部頼るとつまらないだろうとは思っているが、やり方が自分なりにある。要するに自分なりのプロットの立て方だ。アイデアを出して想像して、組み合わせていくうちに流れができてくる。というのが、今のところの自分の今までのいくつかの小説の経験で。勇気を出して、そこから離れて小説を書くのもまた、よいだろうと考えている。今までがあったから、少し自信のようなものもある。ただ、こういうことを世間様にさらしたあとに、失敗する経験もよくしているので、しかしでもそれでもそれを敢えてさらしても、やってみようという冒険の心がある。やはり、不安にもなるものの自信がついてきているのだ。文章を書くことについては、私の負のジンクスにも打ち勝つのではないだろうか、と。希望を。などと書いてみる。 腹が出ているのがましになっている、とメモ帳に書くと作ったカレーを1日にして平らげるなどという蛮行を行う。無意識があまのじゃくであるのを前々から感じている。思春期の不安定な時に暗示のようにあることをしていたからではないか、と思い起こす時がある。無意識がそのように出来上がってしまったのではないか、と。どうであろうか。 思春期って、全然そんなことないよ、ていうおしゃれな大げさな見方で言えば達観している人も結構いるが、自分でも気づかない心の変化を伴っている。蝶になる前に、さなぎの中はどろどろに体が溶けて変化しようとしている。命の力強...

重要な秘密

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  ひと時、意識していないと、 人のことを酷く蔑む、 文章を書いている時期があった。 それに気づいて、意識するように。 そのようなことがないように。 時が経って、 ぼーっとしていたこともよくあるが。 ただ、ぼーっとだけしていた、ということもない。 時間は無駄には使っただろうが、 それも、それで良かったこともあるだろう。 あと、二月ほどしたら、齢のこと四十七歳になる。 しっかりせな、あきまへんで。 今、ジュースアップのボールペンでA4 用紙にまず詩の下書きを(未だにこういう時のこういう場合の文章を詩と言っていいのかと迷うが気持ちを押し切る。)書いたのだが、ちょっと味のあるいつもより上手い目の字のように見える。ジュースアップで書くと、きちゃない、私の字が少し他のボールペンより上手に書けたかのように見えるのが好きで、使っているのだが、今回の字は眠れず起き上がってすぐに書いた字だからなのか、イメージとしては石川啄木の文章のような、字を文章で表すならそのような字に見える。(石川啄木の文章の私の受け取りイメージはさらさらしている。)別にどうってことはない、何かそう思った字の出来事であった。 目の前に見える読んでいない本。霊性の人間学 金子晴勇著、新装版 文化のなかの野生 芸術人類学講義 中島智著、 枕草子 下 角川ソフィア文庫、心の疲れをとる技術 下園壮太著、「春秋」うちあけ話 大島三緒著、市民的抵抗 エリカ・チェノウェス著 小林綾子訳、歴史で読み解く! 世界情勢のきほん 中東編 池上彰著。くらいか。目の前にない本もある。読みかけで進んでいない本もいくらもある。再読もした方が宜しい本もある。こど看さんが紹介していた本は、段ボールの中にいくらもある。うむ。時間を使う。 頭に記憶していたことと相違があることを、いくつも経験している。どこで捻じ曲げられたのか。うむむ。 ひみつのたっこちゃん。えごま油、アマニ油を長く使っていたら、体重は良く食べているからそのままだが、お腹の脂肪が今も腹は出ているが以前よりはましな気がする。ひみつにしておきたかったが、夜中なので。ためしてガッテンでは、医者も推奨していたが、実感できるとは思わなかった。 しかしまったく眠くならない。眠剤を飲んだらいいことに気づくが、この感じは飲んでも眠れない。経験上。 かなり久しぶりに高島屋の地下のひぎり焼きが食べ...

明るく。

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  色んな人がいて、時々色んな思いの一端を受ける。 良いことも、そうではないことも。 良いことを沢山受けて、当たり前のように。もちろん喜んでいて。 そうではないことには、少しだけ傷ついて。 生きていて、 生きていると味わう。 人の幸せなことを想像して。 今日は昨日さぼった英語を30分だけする日で、それ以外は好きにする日だ。何度も思うことだが、今日常でやっているようにノルマを課すことはいいことなのだろうか、という疑問が浮かぶ。何かに取り組むことはいいことなのだが、この無職の生活が始まってから初期と中盤は遊びの余白がかなりあって、ぶらぶらしていると時に心捕まれる光景に出会うことがあった。慣れの問題なのであろうか、フリーランスの人は自分にノルマを課して生活をしているだろう。そして、確かに取り組んでいる課題について、能力が伸びていることも体感として事実だ。 齋藤陽道さんの「つながりのことば学」を読む。言葉は様々な性質を持っている。また、言葉になる前の何か、という感覚も意識するようになった。 昔、小学校の時だったかな、担任の先生が言葉は暴力にもなる、と言っていて。それは、成長すると皆当たり前に感じることではあるのだが、小学校のその時言っていたことが印象深く、記憶に残っている。このSNS の時代、言葉による暴力が実際に人を傷つけて何食わぬ顔で生きている人もいる。 上段にも通じるが、本を読む時ももっと余裕を持って読みたいものだと、この齋藤さんの本を読んで思った。何か、しゃかりきになっている気がする。それでもいい場合もあるだろうけれど。 文章について、伝える技術を身に着けるという目標。優先順位は下位に設定しているが、それについて新しい本を買ったり、昔読んでいたよなという本を思い出したり気持ちは上がっている。いい加減にすることが多い自分ではあるが、取り組む時はがち、でやろう。あとは本を読んでいて、出てきているひとはがち、でやっているのだと確認する。 マイペースを心がけて。

今年の夏の日々を。

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  坂口さんのガラスの作品のその質感を写真では表せなかった。どうやって、思った通りというかこれを表したいと感じるその写真が撮れるものか。写真への情熱も、以前より下火でこれくらい撮れたからいっか、との思いで近日を過ごしている。実際、以前よりは撮れていることもあるのだが、何か健やかではない写真だな、と思う写真もある。ここぞ、という時に撮れていないという。うむ。 生活を結構まじめに過ごしていて、今日は休みの日とか決めているのだが何か夏の余白の懐かしさ、みたいなものを感じられていないのではないか、という思いがある。のんびりした生活だからこそ、そののんびりの時に感じる生活感。うむ、それはどういうことか。 しかし、まじめに過ごしていると若干だが、レベルアップしていることもある。二重作さんがいつかのえっくすに、なんだっけな、できないからこそではどうしたら、いいのか。その方法を手段を見つけたい、というか、そっち側から攻めてみたいというか。そういうことを言っていて。最初からすげえ、できる人は、なぜ分からないのかが分からない、できないかが分からない、という人が多いはずで。兎に角できなかった私は、できないことについて少しは理解がある。でも、本当はいい感覚を持っていたのだろうけれど。一時期のインターネット上のアドバイスというかコメントというか。すごかったな。うむ。 読みかけで置いてある本がいくつかある。いい本なんだけれど、しんどくなることがあって。再読の大切さ。忘れていくことを思い出したいこともある。そういう時に、付箋の効力を感じる。聖書も2冊持っている小さい聖書の1つは、付箋をつけるようにしている。聖書については最近のことだ。 穏やかな日々だ。しかし、明るい知らせ、出来事に焦がれてもいる。インターネット上の繋がりもあるからか孤独はほぼ感じないことが多い。こういうこと書いたら、すごい孤独を感じ始めるとかいうパターンもあるが。 こころが強くなったこともあるが、逆に恐れとかに弱くなったこともある。なんやねん。昔、あれだけ中途半端でいい加減だった自分ではいけない、と思い手離してはいけないと思うこともある。高校生の時に、勉強をしなさすぎて親にキレられて部活を辞めさせられて、そういうまじめな家庭であることを友達に知られるのが恥ずかしかった。しかし、部活を辞めて出会ったのが、ギターだ。これもえ...

岡山県津山市

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朔に坂口恭平さんの個展を見に行った。 私が朔に訪れた時間帯は、鑑賞者は私一人で、そして冷たいお茶を頂いた。去年と同じく坂口さんが書いた、絵の題名とその位置が描かれている紙がある。題名を見るのは結構好きだ。 2階は窓が開かれていて、風が通る。扇風機が置いてあった。1階はしっかり冷房が効いていた。2階に置いてある本の中で、文芸雑誌アルテリを1冊購入。猫ちゃんの写真が多めに載っているやつ。 美味しそうな、家族で食べるご飯。やさしい、まだ若さがある父としての。学年は私と同じなんだっけ。私よりかっこいい人なんだけれど、こういう家族のやさしさを大切にしている食卓風景に親しみを持つ。私の記憶として。 朔の方によると、坂口さんの調子はそんなに良くないのだそう。私もえっくす、ツイッターでの様子を観るのが楽しみだったが、それはしょうがないか。無理はせずに。養分を蓄えて。やさしい、繊細な絵だった。おもしろい絵もあったな。子どもというか。そうだ、音楽を聴きながら絵を見るの、心地よかった。