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コーヒー3杯目、飲み過ぎはやはり良くないかも。

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部屋の掃除をするはずが、まだしていない。しかも、夕食前にパイの実を食べている。しかも、冷蔵庫に入れていた、魚釣り用の撒き餌の袋に穴が開いていて、汁が垂れ、掃除をアルコールでしたのだが、最初はかっぱえびせんみたいな匂いだな、と思っていたが異臭になりつつある。どこが拭き切れていないのか。 だめだめの頃のように寝て、肌が荒れている。しかし、快感だった。贅沢な話だが。 いつまでもはこうはしていられない。格好をつけたようなことを言うだけではなくて、知りたい。誠実な人が思ったより、いたように、そんな風でありたい。私が半々だったことを忘れないように、気を付けて、そして知りたい。分からないことが分からないままであるように、でも何かをありたい。調べたい。 今は言うだけで自分に快感を得ているところがある。キリストにあってその強度がありますようにと祈ります。 瞑想の1部が書かれている本を読んだ時、受刑者が瞑想をこれは本物だ、と気付いたように、私はキリストに出会って本当に最近、本物だ、とよく頭で思っている。感謝をしないといけないことは沢山ある。

こんなことしか。

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街を抜けた小さな道にT字路があって私はその角で水筒に入れたコーヒーを飲んでいた。2匹の猫がいて、おぼつかないが友達になることができた。 1匹の名はまた八という。私はその気持ちを汲むことにした。 また八はタイムリープを経験していて、昭和60年にそれが起きている。 武智さんの家でお世話になっていて、せいくん、と一緒によくTVを観ていた。アニメとかウルトラセブンとか、スケバン刑事とかも。お母さんと再放送のドラマとかも観ている。 あの頃の人は情熱的で、でもそれをひたかくしにしていることが、男の人はかっこいい、とされているのだと思う、とまた八は言う。 それがタイムリープの手前、2,3年頃では傷つきやすくてせんさいで、それを見せたくなくてちいさな部屋で苦しんで泣くせいねんがみりょくてきな男として描かれていた、とまた八は言う。 ふんふん。 たいむりーぷ。 また八の言うことはわかった。 次に黒みがかったサビ猫のジャック・ムック・シャドーアイランドの話しを汲んでみよう。 ジャックは平成20年の産まれ。 理知的で哲学的なジャックは人間にとってモテルとは何か、魅力的な男の人とはについて、タイムリープをしてきたまた八に問われたため、興味を持ち、調べ考えたため、精神を1度崩壊している。 それだけ平成の時代は複雑でまた、様々な情報が行き来して乱雑である、とジャックは言う。 夜はハルちゃんの家でいつも泊らせてもらっていて、インターネッツというパソコンを使った画像をハルちゃんはよく観ていて、それはジャックにとって時間の線が入り乱れていて考えていると自分の複雑なもようとリンクしてきて、もようと時間がドッキングして産まれてまもない頃に観たアニメのドッキングちゃんともドッキングして、ついにドッキングしたのち、ばらばらにジャックは崩壊した、と言う。 ジャックは考えることをやめた、と言う。 ただ、ジャックが崩壊する直前にインターネッツから聞こえてきた、「ー愛する者とー」という人の声が忘れられない、という。 なぜか分からないが、印象的だった、と。 私は熱いコーヒーを飲み干して、どこか別次元にあるジャックの話を聞いていた。そして、ただ、どこか私に触れてくる、それはもしかしたら、昔から少しずつ心に与えられていたそれに似たような、そんなもののような気がしていた

たんぱく質卵2つを加える予定だ。

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歩きの出掛けの帰り、昼を抜いていたので急激にお腹が減った。16時頃のことだ。なので、たこ焼きを購入する。道後商店街を抜けたスペースで食しながら、佇む。すると、足の動きが不自然な猫が1匹やってきて、私と同じ様に距離を取って佇む。ん、と思って箸でたこ焼きの中のタコを取り出し、エビ、タコは猫にとって良くないらしいが少しなので、あげると思ったより反応がなく、食べないと悪いから、という感じで食べ始める。その後も私と距離を保ちながら佇む。私がたこ焼きを食べ終えて、ふんん、と暫く猫を見ていると、元気な子供2人がきゃあー、という感じでやってきたので、建物の下に逃げ込む。色んなことを思うが、やはり子供は元気であると良い。 子供が去って、私もふらふらと、歩きだそうとするとまた、側の植林の下でその猫が佇んでいる。ふんん。 まあ、いいか、とふらり、と歩きながら考えたのだが、安心感が得たかったのだろうか、と思った。貰ってもらうまで考えていなくても、側で安心感が欲しかったのではないか、と。猫は昔から人間との関係が深い。もしかしたら、その意識の中に安全な人間ならば側にいるだけで安心感を得ることができるのではないか。 そういえば、またケースが違うのだが半飼い猫のフランク・カッパも私はよく歩きながら、手を挙げて好意を示すことが多いのだが、ある時、ペロティを出して封を切って、ほら、と差し出すと少し舐めて、こういうことじゃ、ねえんだ、と私の足に何度も頭突きをして、私の顔を見上げて鳴いた。いらないのか、と私が歩きだすとずっと付いてきて鳴いてくれた。ほれ、なでろ、と身体も差し出してくれる。なるほど。 ちなみに、私は獣医になりたい、と思っていたことがあって、しかし、勉学が不足していたのでなれなかった。動物へのマインドが優しく、なりたい、と思う学生さんがいるならば、ぜひ、勉学に励み、長い眼で見たら一時苦しくても一生ものなので、挑戦してほしいものだ、と思う。私はその時大切なことを知らなかった。 歩きながら、ふらりとして私はうざいのは変わらない、と思ったりして母親が、私とお父さんの子だから、と言っていたのを思い出す。ああ、それでも今があっていつまでもこうしてふらりふらりとする時間があればいいのに、と思ってみたが、今書いていてその時間があることは大切でありがたいことだが、その場合ではないこともあるな

まだ、この寒さならオッケイ。

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遺産 アンカレッジで開かれたリペイトリエイション会議に出席した。 "帰還"を意味するリペイトリエイションとはーー。十九世紀から二十世紀にかけて、世界中の博物館が古代の遺跡や墓から美術品を収集した時代があり、その中には研究目的で無数の人骨も含まれていた。持ち去った先祖の埋葬品や骨を返してほしい、というエスキモーやインディアンの人々の願い、その至極当たり前な要求は、リペイトリエイションという大きな流れになってアメリカ中の博物館を静かに脅かしつつある。 その日の会議のパネリストには、それぞれの博物館から考古学者が出席し、その中にはたった一人、インディアンの古老がいた。 私たちは学問の名のもとに、古代の墓を次々と暴いてゆく。が、その時、その場所に秘められた古代の人々の祈りはどうなるのか。謎を解き明かすということは、それほど大切なことなのか。 私は以前、古いトーテムポールの残るハイダインディアンの廃村を訪れたことがあった。かつて博物館が歴史的遺産の保存のためにトーテムポールを持ち去ろうとした時、人々は朽ち果ててゆくままにしたいと拒絶したのだ。風雪と歳月にさらされたトーテムポールは、苔むし、ゆっくり自然に返ろうとしていた。私はそこで会った一人のインディアンの言葉が忘れられない。 「いつかトーテムポールは消え、森が押し寄せてくるだろう。それでいい。その時、ここはさらに霊的な土地になるからだ」 目に見える物に価値を置く社会、目には見えぬ心に価値を置く社会・・・。リペイトリエイションはその二つの世界のぶつかり合いだ。 会議では古代という定義は何なのか、いつまでさかのぼるものか、という議論が続いていた。ずっと黙っていたインディアンの古老が静かに語り始めた。 「あなたたちは、なぜーたましいーの話しをしない。それがとても不思議だ・・・」  会場は水を打ったように静まり返っていた。                           星野道夫  長い旅の途上より クリスチャンになって霊的な概念という物を意識、また人にそれが備わっていることを知るようになって、生きることに彩りが増した。また怒られるかもしれないが、間違っていない道、場所ならば、似た概念を意識しているのではないかと思う。つまりたましい、というところに触れているのではないのかな、

秋が終わる頃の釣り。

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朝、20cmいかないくらいの小鯛とホンベラを釣る。真面目に釣りをしたが、釣果はこの2匹。夕飯に丁度良い量ではある。小鯛はなんちゃってのアクアパッツァをする予定だ。図書館で借りて来たレシピの1つで実行する。ホンベラは塩焼きだな。おでん屋、赤丹でホンベラの塩焼きを出しているのを見て、渋い、と思って、もともと味が良いのは知っていたが、ホンベラを見直すようになった。 欲を言えばでかい鯛が釣りたい。あと、秋の三津の一文字の堤防の良さを知っているので、秋だけでもいいから、渡船に乗せて欲しいものだ。 さて、夕飯は小鯛のアクアパッツァもどき。新鮮な鯛はやっぱり美味しいな、と思います。鯛の味がする。 ホンベラは真水でよくぬめりを取って、油を使っての塩焼き。ペーパーで水気を取って、塩をして薄く小麦粉をして、クッキングペーパーで落し蓋をしてフライパンで焼く。塩焼きとしては邪道かもしれないが、美味しいね。身が上品。魚の臭みが嫌な場合はぬめりと洗って水気をよく取ることですよね。料理をするようになって意識するようになりました。 締めは昨日のきのこたっぷりハヤシライスの残り。私はまだまだ料理ビギナーなので、ほぼ全く「今日の料理」のレシピの通りに作ります。しかし、昨日はその上で、ルーが出来たところでカレーの恩返しを大さじ1杯入れました。結果、ハヤシライスの味であるまま、宣伝文句の1部を借りると、華やかになりましたね。味が。成功です。 今日も夕飯はよく食べました。ちなみに今日も街まで歩きました。私の行動はおばちゃんみたいだな、と水筒に入れたコーヒーを飲みながら、お昼にパンも買ってベンチで食し、思いました。カッコいい街歩きを考えてみようかと思いましたが、だいたいお金を余分に使いそうなので、それにだいたい失敗するのでやめました。ご飯は発芽玄米を使用し始めています。

11月16日。

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またやって来た、寒くなってくる季節。こういう期間に長い小説を書くとどんなものが書けるのか。そうか、私はイメージ的にはチューニングを合わされた感じなのか、と思って今でもクリアに聞こえる時と雑音が混じる時がある。それが自分でも分からないから面白いところがある。ラジオを聞いていてここだ、という場所。クリアに聞こえるところ。 結果、何が待っているか、感謝はしないとな。知らない所でもひょっとしたら迷惑を掛けているかもしれないけれど。 得難い経験。どんな結果でも受け留めて、苦しむならよく苦しんで、しぶとく生きて行くしかないのだろう。もう十分だから、終わらせてもとか思うこともあるが、この感じはまだまだ生きたい感じだな。 おばあちゃんの行方不明の町内放送が続いているな。 昨日、風呂に入らずに今日、シャワーを浴びながら小さい頃、初めて観た風の谷のナウシカのことを思い出していた。母親が新聞のテレビ欄を見て、私に、風の谷のナウシカが今日、あるわよ、と言って。私はその頃、小学校に行っていないくらいの時で、鹿の物語があるのか、と思っていた。少し、期待していて何時もみんなで一緒に観ることが多かったが、姉は近くの友達の家にお泊りをしていて、何故か親も一緒にはテレビの前にはいなくて、その時間私だけがそこにいた。ん、鹿の物語ではないぞ、と分かり始めて、でも、こてっとそこで眠ることもなく最後まで観ていた。よくは分かっていなかったのだろうが、これは面白い、と思っていた。次の日、姉が戻って来て、観た、凄かったよね、と私とか近所の子たちも話し合っていた。ここからの記憶がないが、成長するたびにその凄さが分かって来ていた。今では全人類必見のとか、ナレーションで言われていて、いや、確かに、と思っている。 初期のエクソシストのことも同時期くらいに観ていて、それは母親、姉、私、で観ていた記憶がある。女の子が納豆みたいなの吐いた、とか思って恐かったが、姉もだったか、隠れたりしながら、観ていた。少し前の明け方に近い深夜、車の中のラジオでリメーク版のだろう、エクソシストの多分、サントラの音楽が流れていて凄く良かった。女の子の綺麗な声だった。映画からの音楽がよく流れていて、好きな選曲だった。 シャワーを浴びながら、浮かんでいたことを書いてみた。 こんなこと考えている時間がある。

アップルタイザーが飲みたい。

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福島市内で食べた天ぷらそば。定食屋みたいなところで食べたのだけれど、濃い口醤油に出汁と砂糖を少々、という味わい。関西風の薄口醤油に昆布と鰹の出汁が結構に好きだが、これはこれで違う土地に来たな、と思う。新幹線で東京から来てみるとかなり、東京に近いのだな、と感じた。関東風に近い出汁ということかな。出汁を食べるという感覚になった。専門のそば屋で食べてみても良かったか。行きの列車で1冊、出汁についての本を読んでいた。かなり、面白かったが、内容をはっきり言えるくらいには憶えていない。関西の昆布好き、関東の鰹好き、だったかな。アプリで言っていた、1番だしと2番だしの理由も分かった。フランス料理ではそのアクが美味しいんだ、とシェフが言っていて、実際に煮もので出汁とかのアクを取らずに作った物の方が美味しかったそうな。しかし、日本料理の職人は引き算が日本料理とのことでその料理法は採用しなかった、と。1番だしはお吸い物、2番だし(ここでは昆布を沸騰しても除かないという意味で。本当の2番だしは1番だしでの昆布をもう1度使うとか、ということ。そこに新しい鰹節を入れるのが追い鰹。勉強になるなあ。全然、知らなんだ)は味噌汁とか。繊細なお吸い物はアクがあってはいけない。味噌汁はアクがあった方が美味しい。そうだったのか。 今日は図書館で借りている水野仁輔さんのカレーの本でキーマカレーを作る。そろそろ、コピーをしておかないといけない。歩いた方が良いな、と思って今日も街まで歩いた。カレーで米を食うからな、と思ったから。帰りにコープで材料を買う。食べ過ぎないよう明日に残せますように。 信仰、ということで今はぐるっと1周したのだ、と思うことにしている。0ではないがサラのような気持ちでまた新鮮に触れて行きたい。聖書をゆっくり読まないとな。

5日目、岡山から松山へ。

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仙台を出て、そのまま岡山で1泊。カプセルホテルが暑くて身体が痒くなった。最終的にすべてを脱ぎ散らかす。 岡山の朝。 何を待っているかというと。 らーめん。よく味わって、松山へ。 レンタル自転車が。 松山到着。疲れた。でも、楽しかった。その土地、その土地のことしか思ってなくて、日常をすっかり忘れていた。これが、旅の醍醐味か。

仙台4日目。

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暗くなってから、福島を出て仙台に。1泊。 だいせんの朝。福島もそうだけれど、意識的に歩く。カロリー消費を意識して。迷った理由もある。だいたい、ホテルを探すのに迷っている。 スターバックスでホットコーヒーを1杯。 眼の前は若干のヤンキー自転車。 仙台も黄葉。暫く歩いてみる。 踏んだことのない場所。 ホテルで調べた比較的近い、杜の市場。 私には新鮮に映る。 考えればカキも食べてみれば良かった。 海鮮丼なんかどこも同じだろ、とっくに思っていたが、せっかくなので食べようと、これが目的で来た。混み合っている店で少し待って、食べてみると、私としてはもの凄く美味い。新鮮で、酢飯の感じも丁度良い。くう、うめい、と思ってばばっと食べてしまう。東京のもとあった築地とかでもこれくらいの感じは味わえるかもしれないが、私としては来た価値があった、と思った。来たからには食う。 地下鉄に乗って、JR仙台駅へ。これまで、重い荷物を持って、随分歩いたと思っていて、米や炭水化物を通常よりかなり食べていたのだが、体重がそんなに増えていない。普段が動いていないのだな。 私の感じるその人個人は誠実な人に映る。たまに、邪念が出て歪むが。随分、迷惑もかけたが、そのままでいるのも危うかったかもしれない。変わったな、と思って、それも時の流れとしてどういうことが、私を待っているのか。私の心に触れずに、私の悪い部分で思うと、なかなか、おもしろい、と思っている。貴重な体験だ。冷静になると本当に自分勝手だ。

福島3日目、後半。

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詳しいことがわからないので海側はどうなっているのだろう、と思っていた。 そうか、こういうところがあるのか。 海側に近づくとソーラーパネルが一面に。 この場所から、変化が起こるのだろうか、と車の中で思った。 もっと、ここら辺から護岸に近づきたかったが、怒られそうだな、と思ってやめた。 でも海が見たいな、と思って看板にしたがって移動すると、南相馬の海。 来てよかったな、と思った。1度見たかった。説明してもらえばもっと、詳しく知れただろうけれど、私らしい旅だ。

福島3日目、中盤。

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帰りの道で、教会があることに気付く。灯りがついていた。考えてみればクリスチャンなんだから行ってみても良かったのか。 もともと、NPO法人の人が車に乗ってガイドしてくれるのをサイトで見付けていたが、予約で埋められていて私が行きたい日取りでは無理だった。 花壇が綺麗にされている。気温は松山とそんなに変わらない体感。 なにかふつふつと感情がしずかに沸く。その時の自然な気持ち。 行きに気になっていた食堂。旅でこういうのに行かないとあとで後悔する、と思っているのでゆく。 そらまあ、ほっきめしだろ、と思って頼むともの凄いご飯の量とほっきの量。 しかし、ぺろりんちょ、だった。しかも、食べる時間が早い。醤油めしでうまい。私の本来の食事モードにするとこんな感じなのだな、と思った。

福島3日目、前半。

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東京を出てその日は福島市内で1泊。しかし、ブッキング、ドッつコムは優秀だ。私はホテルを予約するのがその日では間に合わなかったらどうするのか、と思ってしまうが、行きの電車の中でセールになっているホテルを予約できるので安心。 3日目、福島市内でレンタカーを使用。 見付けたお店でソフトクリームを。私が買わないはずがない。ミルク感がよい。 お店はおじちゃんとかおばちゃんとかで賑わっていた。いや、おじいちゃんとかおばあちゃん、とかくらいだな。 来てみたかった、相馬へ。 行きの山道が黄葉で気持ちが良かった。はらはら落ちる葉っぱを写したかったが、タイミングが合わない。それと、私のカメラではその感じが撮れないかな。方法はあるかもしれないが。車が少なく途中で止まって、写真が写せた。黄葉と落ちる葉っぱで詩を書こうと妄想したが、思ったよりそんな気分にもならず。しかし、山道は本当に綺麗だった。 私としては珍しい、自転車も止まれ。 南相馬の道の駅。 ここもおじいちゃんとか、おばあちゃんとかのおしゃべりの場になっている様だった。基本的におしゃべりはおばあちゃんが、よくするものだ。 もともと、荷物が重い旅だが、できればでっかい菜種油が買いたかった。3本くらい。 歴史的な災害と事故があったこの場所に1度来てみたかった。ただ、見てみたかった。写真は車が止まったときに撮っています。 途中、寄ったコンビニで子供たちが集まって商品を見ている様子だった。なにか、いい風景に私には見えたので写真を撮りたかったが、人の写真はなるべく撮らないようにした方がよい、と思っている。一昨年のお祭りでお姉さん2人にはさまれた女の子が2人に段差で手で引き上げられた様子がよく、カメラを持っていたので撮りたかったが、やめておいた。3人とも浴衣で後ろ向きだったから撮れば良かったか、とたまに思い出すが。 たまに車を降りて撮ったりもする。牛にぶつかるので危険、とかの看板もあった。 国道6号を進んでいるとあっさり、その場所に差し掛かる。 車を降りる。あの場所が。 どきどきした。そう書くと怒る人もいるかもしれないが。 道沿いに桜の木が植えられている。1本1本メッセージと贈った人が違う。