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呼吸をして。

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  自分でも情けない、という状態になってしゃんとしたい、と思っている。情けない感じをだらだらとそこに流れにまかせて気持ち悪い感じになっている。情けない。頑張ろう、頑張れそうだ。 今でもやっぱり恥ずかしいが、まともに女性の気持ちを知る経験が極端に少ない。というか、殆どない。気持で突っ走って、何かを伝える、宣言するみたいなことでしか、何かを伝えられない。ことが殆どだ。 どんな人だったかは未だに頭のどこかでイメージできる。今さら、だがあの人となら私のような不備のある人間でも幸せになることができるのではないか、と。それが、今の私の気持ちだ。少し、色々考えてその気持ちだ。本当に恥ずかしいし、情けないが、あっちやこっちを見ていたのだな。ありがたいことにそういうことも、ましになってきている。どういう風に幸せになってもらえるか。それは、どうしたら良いのか、これからも私も経験して成長して、教えてもらいながら共に歩むことをできたら。そういう風に願っている。随分、時間が経ったけれど。心を分かっていない、とは思う。その時、その時。

春の曲(うてや鼓) 島崎藤村詩集より

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  うてや鼓の(つづみ)の春の音 雪にうもるる冬の日の かなしき夢はとざされて 世は春の日とかはりけり ひけばこぞめの春霞(はるがすみ) かすみの幕をひきとぢて 花と花とをぬふ糸は けさもえいでしあをやなぎ 霞のまくをひきあけて 春をうかがふことなかれ はなさきにほふ陰をこそ 春の台(うてな)といふべけれ 小蝶よ花にたはぶれて 優しき夢をみては舞ひ 酔うて羽袖もひらひらと はるの姿をまひねかし 緑のはねのうぐひすよ 梅の花笠(はながさ)ぬひそへて ゆめ静かなる春の日の しらべを高く歌へかし                島崎藤村 (さてと。また頑張ろう。頑張らずにも、ときどき逃げたりしながら、いけるとき頑張ろう。そういうことある。辻仁成さんのTwitter観て逃げれた気持ちになった。レシピもスクショした。サーモンのテリーヌの動画をまたどうやって観るか調べよう。言い訳もよくするけれど、人間的なところが少し弱いのだな。まあ、こんなものか、と自分を認めている。今日は料理頑張るぜ。白身魚のセモリナ粉ハーブソース、魚はイトヨリだぜ。切り身が40%offじゃなくても良かったけど、offで、セモリナ粉を小麦粉と片栗粉で代用、結構簡単なんです。イトヨリは好きな魚で最近ずっと買っていないけれど、塩焼きにするのが一番すきかな。だぜ。)                      

今のところ、いいことを思い出すほうが多い。

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調子良く行っている、と口にするといつもようにがたーんと、こけた。マクドナルドに行ってぶつぶつ書いて解消する。口にするとよくこける。 どういう。 声が、薔薇の花束を持って行ったら、と言う。(実際やると本気で終わる。でも聞こえた) 哀しみではなく苛立ちで、年齢ばかり重ねている。 マクドナルドでいつも余らせるグラニュー糖は、 台湾料理の本に使う用途があって、いつまでも使っていない。 生活をまた始めるために、負けたら悔しいという思いが 立ち上って。 皆、もっと大変な頃合いの年齢だと分かっている。 介護士の時はやりがいがあった、と思うが、アトピーが大変だった。 体力も使って、身体も疲れていた。考えるとそうだ。 いつか、この頃が良かったと、思い返すときがくるのだろうか。 そう、確かに皆大変なのだ。 愚痴を呟いていたら、だんだんまたやる気になってきた。 会話がしたい。とりとめのない優しい会話が。 世間に広まるとか気にしなくていい会話。 楽しいことを暫く考えて、楽しいことをしよう。何があるだろうか。 レンタル犬。1か月くらい一緒にいる。レンタル猫は難しい。これらが商売になったら、あまり良くない。 旅はいいな。あの感じ。 釣り。結構じゃまがはいる。 そう言えば、暗くなって家に帰ろうとしていたら、もの凄い速さで大きい猫か、と思ったら犬が駆け抜けていってあとから、お父さんと娘さんたちが多分それを追いかけていたと思うのだが、あれはどうなったのだろうか。コーギーなのかなあの大きさは。 詩を書いて、コードをつけて、ギターを弾いて詠む。ギターギターというが、何度も恥をかいて、下手で、しかし、少し上達している。弾けていたコードが上手く弾けなくて、頭でイメージしたら指が付いて行った。暖かい日に誰もいない、海とかで弾いて詠うことをしてみたい。練習もそこでするので誰もいないのがいい。結構本気でやってみたい。下手こその憧れ。 面白いこと探し。歩いて探すのが一番だが。なかなか見つからない。メモの魔力的に面白いことを見付けて、メモ。そして、抽象化、そしてアイデアや詩、小説のネタへと材料へと発展させる。なかなか面白そうだ。 水墨画。道具はある。しかし、これは黙ってやってみて、こんなものかくらいに。まあ、ちょこざいな。時間はある。やってみてもいいか。やるなら、ネットで調べる。やっぱり、多分やらないだろうな。 楽し

気持ち的なところが、健康的なわたしではないので。

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  教会を休んだのは朝、気分が悪くなったのはそうだな。別に無理はしなくていい、と思った。奏楽のギターは、ギターには弾きやすい曲だったのでやってみたい、とは思った。色々いらん音下手だけど出してみようか、と思っていた。シンプルな曲だったので。休むのはそこが気になったな。若い子と合わせるのも嬉しいし。心からエロなしで。何か嬉しいのだよな。ちゃんと合ったら嬉しい。(当てつけみたいだな。それぞれが上手く出来たら、合えば気持ちいい。ただ、この前1曲気持ち良かったのだな。)若い子二人がトーンチャイムとピアノを何時だったか、やっていた時も良かった。二人とも多分緊張感を持ってやっていたのだろうな。その時にしか味わえない空気を感じさせてもらった。その頃の空気を感じさせてもらった。 いつも休日な私だが、何やっている、と言われても、いつも休日だからこそ、やってくる今回大波ではなかったが、波がやってきて。3か月に1回、若しくは半年に1回、若しくは1年に1回はこれがないと、細かいのは沢山あるが。また、やって行こうと思う気力がわき返さない。ぐわっと気分が悪くなって、まあ、休むかくらいなのだが。今回は。 二日風呂に入らなかったら、アトピーがかなり悪化した。日曜日は、前の日に作った味噌汁に卵を落として、夕食にその一食だけだった。体重が1kg減っていて、減ったのは嬉しかったが、1kgだけか、と思った。 今日はポテトチップを買って、今食べた。イオンで弁当を多めに買って沢山食べる予定だ。料理はまた作るようにして、食べて生活をしようと思う。 休む、という悪いことも快感なのだよな。あとから考えると。

エロもかろやかになればいい。

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  最近、昼食をしっかり食べるようになって、とても、ではないが太ってきている。体重自体は変わらないのだが、さらにぷっくらしている感じ。定期的にジムに通っていたときは、体重はこれも変わっていないが、少し痩せた顔つきになっていた。そして、いまぷくりと。 そんな中、昼食をまた少なくしようと思っていたが、食欲に負けて、チェーン店に入った。気合の入った女子がかなり忙しい店内を切り盛りしていて、おお、日本人やはりえらいな、と思っていて、私の席に注文を聞きに来た別の女子が低姿勢で顔を見ずに中々好みだ、と思った。忙しそうにしているが、低姿勢でそれでも速く動いている。食事を持ってきたとき、ちらりと顔を見て、眼鏡女子だった。そして低姿勢だった。真面目な女子風で、最近私はああいう、真面目な女子が好きだ。結婚して欲しい、と思った。スーパーにも眼鏡の真面目で話が合いそうな女子がいる。結婚して欲しいと思っている。大体はお付き合いすると思った人と違った、ということになる。だから、心の中だけで結婚してください、と思っている。その先は、お付き合いとか、夫婦とか大変そうだな、と思っているので想像はしていない。 そうである。考えてみれば、私は未だにそうなのである。ああ、若い少年や少女に馬鹿にされることは恐れるが、それが当たり前になっていて。まあ、いいか、というくらいのことがらになり始めているのだ。しかし、思い返すと自分で気付かない渇きになっているだろうなので、落ち着きたいとは思うな、と思うのである。未来に出会う子どもがいたとしたら、万全の態勢で心から子どもに接してみたい、と思うのである。自分も実際に関わり合いたい、と思っている。思う様なことができているか、を知るためにも。10分の1くらいが、どこか現実性のない妄想に辿り着いていて、それが楽だ、と思い始めている。昆布締めで言うと、時間が経って昆布が浸かり過ぎているのだ。だが、まだ目を覚ます余力は10分の8くらいはあると思っている。目を覚ましたらやりがいを感じたいと思う。そもそも、どうやって、どこまでお金が稼げるかも疑問だ。現実はまあ、これくらいか、になるのかな。と。本気のだがプラスαで子供が自分を傷つけない心になれたら、愛を溜めこんだら、可能性を導くプロジェクトができたら、と思っている。本当の親でもそうは難しい問題だが、何か上手くできたらなあ、と思っている

コーヒー豆の詩

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  光が街に照らす光景、その姿に。 一曲の詩を口ずさむ、少女がサッカーボールを蹴っている。 心を溶かして、浮き立つような旋律が、 髪を一つ束ねた母親に その旋律(それ)を預けて 浮遊しようとしている。 旋律自体が、その意思にもなく 漂っている。(漂っている。ここはなし、が良い。) 母親は特に哀しみを愛してはいないが、 もう一度その詩を詠うようにと少女に伝えて。

野咲で食事をしたわけでは、ありません。でもいい匂いがしていた。いつか行ってみよう。

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  街を歩いていると、保育園かな、 お母さんが迎えに来ていて、小さな女の子はお母さんの手が冷たい、と笑っている。 洗い物をしてきたからね、お母さんは言う。 女の子は手を繋いでとても嬉しそうだ。 大好きなお母さんだから。 そんなときを見ていて、私は何処か違う世界に生きていて、 世界の四次元目、その狭間で生きているような、そんな気がする。 生きる力が思ったよりあるから、未来の音があるなら、どうかそれを掴んで、 辿って引き寄せるのだ。自分が元気ならそれができそうな気がする。 (ソースの食べ物が食べたいと思って、焼きそばかな、と思ったけれど夕食はお好み焼きだな)

ひとり事。

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  2月が1番寒いという私の経験というか体感なのだが、散歩をすると春めいているな。 色々あったな、と思い返す。信仰は弱くなったり、励まされたり。まだ、持っているかな。だから、積極的になろう、とまでは思わないのが自分だ。ましてや、牧師になろう、とも思わない。牧師は自分の思っていることより、制限される、と思っている。思っていないことを思わないといけない、という表現かな。 色々あったのは自分の立場が大きいのだろうな。もし、まだそういうことなのなら、自分にはもったいない人だなと思っている。色々な人間がいて、まあ考えてみたらそう悪いことでもないかも知れないが(今までの人がね。危険な人もいた。)、私みたいな人間にもったいない、と思う。確かに私も変わってきた。それが、いいことなのか、悪いことなのかはわからない。もう終わっているのか、はっきりしたい、と思ったが。実際的なところ、はっきりしているのだよな。そこをそう思わない自分はそういうことに酔っぱらっているということなのだろうか。 信仰生活をやめることはないが、立場からか性質なのか、経験なのか、集団向きではない、と自分のことを感じている。しかも、それでいいと思っている。 好きにやりたい、と漠然と思っている。そんな変なことはしないし。 自分のやりたいことは、これも好きにやりたい。どんなことになるのかな。できると信じている。色々な場所でどんな取り組みをしているか、話を聞くこと、参考にすること、とか。今は本を読むくらいか。ネットにも転がっているのだけれど、のらして見ていないのだよな。 キューライスさんのサクセスご飯をジュンク堂に予約しているので、明日歩いて取りに行こう。今の現実はこれだ。楽しみだし。

いいことが、あるといい。

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  遅れているかもしれないが、世にaudiobookなるのものが、ある。聴く読書というネットを見た時の触れ込みで、興味はある。私は人の話を聞く時に、集中している、またはそれを意識している時は、ないのだが、突然ぼーっとしてしまって、大事な所を聞き逃す時が結構ある。言ったよね、と言われるくらい。まあ、考えれば本での読書の時も、集中を切らしてあれ? 今まで何て書いていたのだっけということもやっぱり、よくあるが、本の場合すぐに遡って見直すことができる。audiobookだけでなくともなのだが、知識を吸収する場合、聴く読書もありだな、と思っている。読む読書よりも、気軽に聴けると思うし流しておいて、自分が反応したことをその一部が印象に残っているかも知れない。多分、audiobookも戻って聴き直すこともできるだろうし。 詩や小説の場合、読み手によるかな、と今の時点は思う。 結局、読む読書のままになりそうだが、理想は両方だな。気軽に、が聴く方で。 はてな、マークなのだが、なぜ、自分はここまで弱いのだろう、と読書をしていて思った。そこまで恐がることはないのに、と腹が立ってきた。自分を傷つけた時の経験を思い出して、あるのだよな、そういう性質が。ただ、少しずつ肝に溜まっている何かはあるのだな。それを活かしたいものだ、とイメージでは思っている。身体に馴染んでくれ、と。何か、むかつくし。

試験的

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  足を伸びたい。 試験的に書く。ブログは書けそうだが、充電ができずアダプタに繋いだまま。アダプタに繋いだままにしても消えていたが、それにデジカメを繋いだまま消えるのが恐ろしかったので、やめていたが、今はまだ画面は消えていない。単なる故障ではなくて、操作せずに画面に勝手に出てくる知らせというか、そういうのを見て、経験的に思えば組織の何かなのだよなー。でも、ブログはしてもいいということなのか。ちょっと意地悪したけれど。と。 文章は気を付けていないと、プロの人からしたらダメじゃん、という文になる。ブログが特にそうなると思っている。思い付くままに書くことが多いし、整っていないことがそれなりに多いかな。気を付けていればそれには気付く。気を付けていないと、だから長い文章を、小説を書くのが今のところ苦手なのだろうか。苦手というか長く続けられない。でも、長く書いてみたいものだ、内容のあるものを。 小説を書いている、と人に言うことが仕事をしているときによくあって、書いていることには特別な気持ちがあって、だからよく人にそう言っていた。その時から言っていたことは、頭の良い文章は書けない、と言っていて。自分で思っていたのは、感情、気持ち、心についてのエモーショナルな場所では書けるな、と思っていた。自分で素直にそう感じていた。坂の上の雲をやっと、1月に読み終わって、司馬遼太郎先輩の膨大な資料からの小説への構築。やはり、司馬遼太郎さんほどではなくとも、その麓でも、それでも私は頭の良い小説は書けない、と思った。司馬さんのことは、頭の良いという表現では正確には違うなと思ったが。しかも、司馬さんの作品は坂の上の雲しか小説では見たことがないという。ちょこざいな、な私であるが少しずつ積み上げてゆくのだ。詩はたまに書くにしようかな。気持が入ったときに。自覚のない詩が多くになってきていたし。