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7月末日パート2。

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  何でもないように日々があって、過ぎている。 子どもの頃に感じていたような夏はやってこなく。 五年前、仕事を辞めたころのような、夏とも違う。 ただ、生活と。夏を送って暮らして。 朝、夕の蜩の声はとても涼しくて、 命が少し軽くなる気がする。その伴うことがら。 日々を感じることを、 思い。 イメージする。 今から、通る道を、 イメージする。 何をするかとか、そういうことではなく。 生きて、命の通り道を。 そんなに爽やかな詩は書けなかった。向こうに何か働きかけられて、とか自分の詩情が湧いたわけでもなく。書くうちに、ぱっと、森林の道路の通り道と自分が写真のようにイメージされて、この木陰を歩きたい、先が見えないけれど、と思ってそういう風に書いた。 楽しく生きたいな、せっかくなら。いちいち、落ち込んでいる場合ではない。ドライブと釣りと料理が行いやすい気分転換で。黙って、かき氷を食いにいくとか。 料理はできたものを食べるのが嬉しくて、最近は料理自体を楽しんでいない。暑いし。 夏のうちに綺麗な詩が一篇書きたいという漠然とした思いがある。

7月末日。

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  不安に捕まって、暫く考え込んでいると、 今は余裕があって、歩幅を少し、空ける。 なるようにしか、ならないことが多く、 なるように傷つくことがいつも恐い。 不安に思考を占領されて、 やるべき考えるべきことが、途切れて、 それって、結構普通のことなのではないだろうか。 日陰の猫は堂々としたものだ。写真を撮って近付いても逃げない。 この性分どうにかなりはしないだろうか。 どうにやこうにや、不安を考える。意味のないことなのだ。考えても物事は動いて行く。物書きとしては、うじうじとねぶるところが素質ありなのだと言える。明日もブログを書く気になったら書いて、あっさりしたような、気持ちがいいかな、と、そういう詩を書きたい。今日は結構気持ちいい日だったが、一人の時間になって、考えても意味のないことを考えだして、不安になってしまった。いいことありますように。 可燃ごみを出し忘れて、窓を開けていなかったら、なかなかの臭気だ。 今日の夕食は実家のなすを使って地三鮮(ディーサンシェン)だ。暮らしの手帖の料理特集号のに載っていた。甘辛系。 家族が幸せで、幸せが溢れて、こぼれて、流れて、河になって、よ~い、よ~い、と幸せ夏祭りフェスが開催されて、猫とか、犬とかもホワッツマイケルなみに踊り出して、あ、よ~いと言いながら、ロカビリー風に踊る人もいて、手に汗握る踊りが繰り広げられて、幸せがきたよー、とさらにやってくるくらい家族共々いいことがありますように。 コロナはどうか消えて欲しい。接種券が来ている。

開会式

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   オリンピックの開会式。素晴らしかったな。結局、最初から最後まで見てしまった。幡野さんも書いていたけれど、選手を見るだけで何だか、若いし気持ちがいい感じで、元気を私は貰えたのだな。旗を持ってぐるぐるしてはしゃいでいるのも、いいなあ、楽しいなあ、と思った。 個人的には大工から始まるところが、素晴らしいと見て良かった、と思った。後半のコメディータッチのところも可愛かったな。そういうところで、海老蔵さんから上原ひろみさんが出る。ここかー、と思った。びっくりしたな。それぞれに日本の一流がでるわけだ。 大坂なおみさんは最初だれだろう、と思った。すぐにわかったけれど。 色々、渦巻く今大会だけれど、個人的には開会式、見ておいて良かった。

dabos with ks

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  ちょいとの釣りに行ってきた。5時の起床予定だったが、9時に。目覚ましなったのか。最近思うが、鳴っていない時があると思うのだな。よく、歩く時に足蹴りをしてしまっていて、えらいなあ、もつなあ、と思っていたのだが。とりあえずは、電池をかえてみよう。 そして、ちょいとの釣りだから、と行きに色々寄っていたら、釣りの開始は真昼間。場所も少し遠出に出かけたので時間がかかった。300円の日本ゴカイがエサ。キスが来ないかあ、と釣っていたのだが、ダボハゼがよく釣れる。キスが釣れなかったら、と思って暫くキープ。今日はキスと夏野菜の天丼にする予定だからだ。ダボハゼも天ぷらにすると、美味しい筈だ。どうせなら、トラハゼが良かったけれど。 結局、キスは2匹、ダボハゼが5,6匹か。小さいホゴとかダボハゼも途中からはリリース。天丼にするにはちょうど良いか。天つゆは作るのは面倒だから、めんつゆにする。のんびりした釣りだった。ちょこちょこ、引くし結構面白かった。途中、太陽が出だして、暑いから帰りたくなってきたけれど、日本ゴカイが300円でも数がいて、もったいないから続けたな。約2時間半くらいの釣りか。実家におすそ分けするくらいにはいかなかった。

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  鳶が鳴いていた。 気持ちの良い声だ。 カメラを向けると、いなくなるのだが。 暫く、また気持ちがよかろう。 鳴いて姿を現し戯れているのか。 風を高く受けて、 飛んでいるのだ。 高く。 羽を広げて、 翼を煽って。 彼らにここには仲間がいるようだ。 だから、こうやって私は天を仰ぐ。 彼らを見ている。 気持ちの良さそうな声だ、と思いましたね。海も近いし、鳶にとって住みやすい場所なのでしょうか。 楽しかったですね。宇和島。街並みを見るのが好きで、結構それが私にとって旅の醍醐味なのですね。宇和島の伊予銀、こんなところに駐車場があるのか、とか。 私の持っている疾患は、よく自覚してからは、めんどくさいところがあるのですよ。やばい、元気がなくなっている、と思って心配されたら急に元気になったり。色々、が混ざっているな、と思いますね。そういうものを持っているのです。 やってみるかな、と思ったくらいですね。のんびり感じて、考えてみたり。私には余裕があったほうがいいな、と今回思いました。やれることをやって、頑張れるときは頑張れるように。私には条件が付きますけど。(いい人は)みんな幸せになったらいいのに。ここまで来て、明確になりましたね。悪い人間もいる。だいたい、皆隠し持ったカードくらい持っている。中くらいなら、どうなりまんねんやろ。

宇和島市街

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  初めての宇和島の街は、車を降りて歩いていると、 前を歩いていた、女性と子ども。 託児所の扉が開いて、随分趣きのある建物だ。 すぐ近くの小児科も古くて感じがよい。 何というか。風情がある。 わたしの初めての宇和島の印象。 レモン水の香り。 小さなグラス。 ひかりが反射。 わたしの匂い。 綺麗なスプーン。 アコースティックピアノ。 赤い椅子。

宇和島

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  気分の悪くなった後は、ドライブというケアマネ時代から始まったような、慣習のような、で。56号線に乗って、そのまま宇和島に。初めての宇和島だ。釣りをするので、海辺に着くと、気になったところで、何度も降りて辺りの様子を見る。いそうだなあ、と思う。前の宇和島近くでは、小さな川の河口に壁沿いに良い型のちぬがいたのを見たな。今日は竿を車に置いているので、やってみても良かったけれど真昼だったので、今度にしよう、と思った。そう、多分また来ると思う。雰囲気が気に入った。

見える範囲で見てきたこと。

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  今年一番の蜩の声が抜けて去って行った。 夏が来ていて、鳩の羽音がする。 いつか、このことを。 自分のことを。 もう少し、踏ん張って。 今を経験しているのだ。 思い返せたら。 希望のおとを。 ここまで経験した。 人のおとを。 ときどき、静かなこころで。 あのやさしさを。 しずかな眼でみて。 旅をしている。そしてまた続ける。

さまざま、の人。

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  色々あると、 大分、自分も変化をしていて。 哀しい、と思うことは いつでもあるのだけれど。 ときどき、優しいできごとがあるから。 いつでも、どんな風にでも、 変わるのだ。 驚くくらいに。私の感情。 懐かしいことに、眼を瞑るけれど、 優しいことは、この世の中に沢山あって、 まだ、賢いこころが、不足しているけれど。 そういうことを選ぶことを、信じることに、 夢をみている。 (いつも傷ついていることが、小さな障害のようにあるけれど、随分、大分、丈夫になった、と思っている。) (なにがここまで、自分を引き留めるのか、と考えるけれど。組織の先回りとか、組織の助けとか、シグナル、とか。間違った方向に行ったのかもしれないけれど、その先では本当には間違っていない。私はそこまで賢い人間ではなかった。経験もあった。色々なことがあった。正直なところ、綱渡りで。心が、下流の石のように研磨されて行った。今でも、全部ひっくり返して、中指を立てたい、と思うことがあるが。忍耐が、というよりやり返すことが、できない性質が、ここまでの忍耐になった、と言える。別に本当はやり返すこともするだろうけれど。結果、忍耐になって、今の経験になっている。なぜ、やり返せないのだろう。と、ちょっと、悔しい思いはある。そんなに立派な人間ではなくていいから、やり返すことはやり返したい、と思っている。何でこんなに情けないのだろう。そんな中で、だから、いいこともある時があって、そういう優しい時間を経験するのだ。だからこそ、といつでも思っている。) 今日は焼き肉だ。

ジェリコ元祖

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  一つ思う。夏の景色がはじまろうと。そういうとき。 と、思った段階で、ジェリコ元祖、というのが 注文通りにくる。きょうは、いつものApeではなく コメダ珈琲にきて。そのジェリコにホイップが思いのほかのっていて ストローですすると、多量にグラスの中にコーヒーゼリーがあることをしる。 いつもより、きぶんをかえようと。この店にきて。 思った以上の手ごたえに、衝撃をうけている。 まじめな詩をかく予定であったのだが、この衝撃を抑え込んで、 表わさないことには、そうはできなかった。 こうやっているから、 夏がやってこようとする。このとき。 想像力をもって、時間を経たいとおもっていて、 そうやって、そうおもって。 あのひとは、もんだいもあったのかもしれないが、 わたしにとって、まちがったことは、すくなくとも、そのとき 憤ったことは、本当にいってくれたことは、ほんとうのことなのだと、 感じて、そう肌身に。ほんとうにないたこと。あれは、うそではない。 噓泣きはすきではなく、むかし、わたし自身もそんなことをしたきおくがあって、 だから、すきではない。 しばらく、おだやかに生きて、ときどき、またはよく、詩を書いている。 (だれかを攻撃しているように、言っているのではないです。まず、ありえない。わたしの言ったことに、純粋に泣いたひとがいて。そのあと、気分を害したことがあったのは確かですが。でも、純粋だったと、思っています。憤ったことも、今ならよく分かります。そして、時間が経っている。そうして、わたしは生活を続けている。生きたいからだな。何やかんや、言っているけれど。楽しく詩を終わらすつもりだったけれど。楽しくなくなった。ジェリコ元祖は今日のわたしにとって、本当に衝撃でした。)

月曜日のねこのかいわ。

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  ちみ、ちみ。 はっ、ねこのかいわですね。もうしわけなさそうに、しゃしんをとってしまいました。 ちみが、それをえらんだのよね。 はっ、そのとおりです。 そういうことも、ふくめて、ちみがさいきん、あたまのなかで、おもっている、ことがあるね。 はっ、とくによくおもっていることがあります。 言って、ごらんなさい。 そうですね、かこをふりかえり、くりすちゃんのわたしがいうのもなんですが、かみたいみんぐで、ひとのぷらいどをしげきすることがあります。 ほんらいなら、しんこくなはなしね。 そうですね。おおきいのもちいさいのも。おもいかえすと、わざとか、くらいにやっているな、と。 どうしてだとおもう? われが、つよいのかな、と。そういうのがむいしきてきに、おしだされているのではと。 ねこのかいわにならないようなはなしになるね。 おもいかえすと、わらってしまうくらいに、わざとではなく、でもやってしまっている。 どうしたら、いいとおもう? わかりません。 いっしゅんのことはいがいと、くさびをふかく、うつね。でも、そうさいきんおもっているくらいでいいんじゃない。ねこのかんさつでみると、しごとをやめてから、かんきょうがかわっているのか、あなたもすこしかわっているよ。 うれしいです。 きょうはまじめなねこのかいわになったね。 そうなってしまいました。 たのしくね。 そう、ありたいです。 よう。 また、ねこのかいわなのですね。 そういうこと。 なんでしょうか。 いんたーねっつ、についてだけど。 ああ、はい。 あんた、おれたちをよくつかっている。 そうですね、あるけば、けっこうねこにあたるので。そういえば、2,3ねんまえにおはなやさんの花のかげにかくれている、ねこさんのすがたが、かわいくていまでもあのときを、とりたかった、とおもいかえします。まちにでたときです。 じつをいうと、ねこのてれぱす、でぜんこくてきに、みんなにつながるのだけど。おれたちのかぶがすこし、あがっている。 わたしの、いんたーねっつが、かんけいしているでしょうか。 それは、わからねえ。ただ、のらねこをしてるが、ねこもわるくねえ、とさいきんおもう。 わたしははじめて、いえにねこをむかえたけいけんが、いまでものこって、ねこがすきです。いぬをむかえていたら、たぶん、いぬいぬしていたとおもいます。 そうか。まったく、うんやたいみんぐっ

コーヒーはインスタントをお湯で溶かして、氷を入れたコップに注いでいる。そろそろ豆を買いたい。Apeでコーヒーを飲むので飲み過ぎになる。

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  今日は月と日を逆にすると私の誕生日になる。 いらんことかもと思いながら、台所の開きから缶詰の黄桃を出して、SPUMの缶が2つもあることを知っているが確認する。SPUMおにぎりにしてみたい、と思っていたがスマホで検索してみるとカロリーがかなり高いことを知って、躊躇している。別に時々ならいいのに、もじもじしている。 メグミルクの写真の男の方は城島茂さんだ。 あとは愛媛にいて柑橘にそれほどの興味がなかった私だが、最近は色々な料理に使用してみたい、と思うようになっている。夏蜜柑とかだったら、砂糖につけて夏蜜柑スカッシュにとか、サラダにとか。フレンチ的な柑橘を使用した料理とか。まだ、妄想の段階に留まっている。薄皮を剥くのが面倒なのよね。手にべちゃべちゃつくし。さっと水で洗って手を拭けばいいことなのだけど。何か、あの、柑橘独特の香りというか、味酸味とか、活かしてみたいと思うようになっている。思うだけになるかもだな、これは。 今日の夕飯はたこ焼きの予定だ。たこはなるべくなら、地元のものがあれば、それを買うつもりだ。少なくとも日本で獲れたものを。一人でつつきながら丸める。 英語はよく使われる単語を使った会話なら、教科書的な発音であるなら、単語単語を区別して聞き取れるようになり始めている。ネイティブの若者のようなしゃらしゃら、とした会話になると、難しいな。2017年の秋くらいからだっけか、30分の英語の勉強を始めたのは。今年の秋で4年になるか。その間、まったくやっていない期間もあったが、何とか続けて、今、少しの変化を自分としては感じている。基本とろいが遅れて力が付いて来る。これは他のことでも感じたことがあって、それらのことはやめてしまって、もったいないけれど終わりか、と思っていた。もう大人だから違うかもだが、一人でいることは続ける要因にもなっているのかも。 ちなみに私にとっての聞く、と聴くの使い分けは本当の昔は、聞くは普段耳にしていたことなど、日常のこと。聴くは音楽を聴く時。そして、クリスチャンになってからは、クリスチャン冊子を見て、神様の言葉を聴く時の表現として聴くを使っているのを見て、何か敬意を持った時に聴くを使用をし始めていたが。最近はわざとらしくもあるかな、と聞く、と聴くを感覚的にその場で使用を決めている。聞く、が敬意を持っていたりする時もある。その場その場。見る、観るも

紙ナプキン

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  旅に出た。間違った旅なのか。勢いがあった。 旅先では出会いがあって、様々な人がいた。 旅を続けて行くうちに、 私は変わって行く人の様に、時々、 紙に詩を書いていた。 純粋な私にも出会って、きみに会えて良かった、と思って。 私にそんな人がまだいた。発見だ。 しかし、時間は経って。 それは気付かないが、とても重要な大切で、そういう時間だったかもしれない。 だが、私は旅に出ていて、様々に人に出会っていた。 失った時間。 経た時間。 そういう経験の途中、私は人生を塗り重ね。 それならば、わたしは昔見た、大人のようになりたい、そう思い始めていた。 いつでも自然に笑って、自然に記憶に残っている。 あんな風。

美味しいサンドウィッチにコーヒーを伴いたい。自分で作ってみるのもいい。

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  祈りをすることで、気持ちが進み始めている。何にかにいらいらして、Apeでの作業もしっかりと身に入っていなかった。もっと、祈ればいいのに、と思うが、その通りだと思う。そういうところで何やかんや、やりだしたら、またがっくりくじけてはいけない。ただ、坊ちゃんスタジアムのジムには週に2回は行った方がいいと思い始めていて。体力がかなり落ちている。柔軟とかもしたほうがいい。めったにならなかった、右肩がこり始めている。坊ちゃんスタジアムのジムは1回300円くらいで使用できる。生活の中にこの運動を取り入れたい。お腹もたぷたぷだ。確か、コロナのことでジムは時間制限がある。 思っていない感情が出ることは、統合失調症とはよく言ったもので、気持ちが統合されていないのだ。メインの自分は真ん中にいて、他の感情たちがその周りや表面にいる。何かがある時期、近日でもそれを経験する。そして、それがなくなっても癖のようにそれがあるときがある。しかし、慣れてくると、あ、ない、と気付く。 恩師が初めてあったときに、恩師も私と漢字も同じ下の名前。そして、もう一人私と同じ名前の人物が私を応援している、と言った。心あたりがあるのは、やはりもう一人の私。周りはとっくにそれを知っているのだろうか。それとも、周りも知らないもう一人のプログラムとしての私なのか。あの急に電池が切れたような経験は何だろうか。苦しくて悔しいのだが、しかし、もうそれは委ねることしかできない。勝ち目がないのだ。 昔、世界の食糧危機を救いたい、とノートに夢を書いたとき、夢が大きいんじゃ、と声掛けに注意のように言われたことがある。今の夢は困難は多少あるかもしれないが、そんなに人生は悪くない、とできる範囲で、これだけのことをしてもらったのだから、形だけではなく思ってもらいたい。なるべく、本当にそう思ってもらいたい。そう思ってもらうことが、私の夢だ。最初はしがない夢だっただろうが、だんだん思い続けることで、そしてこの経験でいつまでも、その人に本当にそう思ってもらいたい、と思っている。そろそろエンジンを点火して、生活にそれを考える時間を作ろうと思う。そこには祈りが伴った方が良いだろう。マザー・テレサは祈りは私にとってガソリンなのだ、と言って本にそう書いていた。30分だけでもいい、少しずつ進めて行くのはどうか、私くん。昔はこの夢がある、だから責めないでく

人生に光をくべて。

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  賢い人の声、 私にはそういう風には、 いつまでもできないのだろうか。 できないことで、 あなたはわたしににている。 苦労をする。そう思っている。 結末は、もう。 委ねることで、死をむかえた そのときに。 幸せでいよう。 特別に美味しいハムを切り取って、 野菜を口にする。 何て幸せなんだろう。 心から喜んでいる。 母親が自宅療養中デパートで買った西予市城川町のハムを切ってサラダと出したら、帝国ホテルの朝食です、と喜んでいたのを憶えている。私はたいして、できることがなかったが、それが印象深く残っている。 色々なことが嚙み合わず、上手く行かない。もうもとに戻ることはないこともあるだろう。リセットボタンを押すことはよく経験していて、そうして生きている。自分勝手に生きてきたときもあるが、今はそれだけではない。確かに0か100なのかもしれない。中庸に見れない。そうでもねえな。いや、そうか。いや、そんなことない。そんなに我慢することなのかな、と思うから、ある意味勇気があって、リセットボタンを押すのだ。本質的には人はそこまで他人に興味がないことも分かっている。冷静に生きている。だから、今まで結構流れて生きてきたのだな。結構自由に。それが自分の本質かなあ、とその経験があるから今、ちょっと思ったな。どこでも上手くやれるわけではなくて、どこででもつまずいて、傷もついている。よく経験する。馬鹿正直だ、とまじめに注意されたときがあって、ブログにもそうやって書くから人にも言ったりするから、問題が生じるのだ。 昔からの友人というのはいなくて、それは自分がそうやって生きたからで、今でも時々メールする新しい友人がいるくらいで十分だな、と思う。あいつ、ああいう奴だから、という感じでいたい。楽だな、その方が。independentでいたいのよね。 それでも明るめに、楽しい感じも忘れずに生きたいものだ思うな。