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10月, 2021の投稿を表示しています

変わらず、ぶつぶつと。

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  吐き出したい気持ちとかをそのまま拾われていたら、しんどいが。明るい人が明るいことを言っている場所を観ると、心が軽くなる。普通に言っていることを、普通に感じることができて、普通をコーヒーを飲みながら過ごすことができる。 さて、自分はどうしたいか、というと。どうしたいのだろうか。仕事をしていたときほど、苦しい思いでもない。今できる範囲で、と思うと。小説を初めての小説にくっつける小説を、書くこと。希望がある。来年から。 何でも結局だめだったら、がっくりだ。でも、やれる範囲で書く。震わす。 随分、えらそうな気持になっていて。もう、挑戦者の気持ちではない。だが、挑戦する。 自由な選択をしたいものだ。ちょっと、投げやりな気持ちになっている。自分を大切にしないではなくて、自由に自分が思ったことをしたい。ここまで来たし。結局、後悔しても。何かあほらしい、という気持ちや、正直憤りとか、あるんだけど。 嫌なことをまた書いたもんだ。

よく寝た。

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  よく寝た日だった。釣りに行って何も釣れず。KDPのこと、昔書いた小説に付け足してやってみようかな、と思っている。あとは決めておいた方が良いこと。何時までも、駄目なのかもしれないが、最初の経費が掛からないと言うなら、やってみてもいいよな。 ケアマネの資格がもう期限が切れている。随分、大変だった。介護士の方が楽だったな。おばさんたちには随分、親切にしてもらった。気持のよい人が多かったな。 今は何のためか、変なことされたりするのは何か。いちいち腹が立っている。見てろよ、と別に何もしないけれど、思っている。 自分が思うように暮らせたなら、と思うな。自分が思うように、道を選ぶこと。ここまで来てしまったしな。

ホバリングしている状態のトンボを撮りたかったができなかった。

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  心の奥にある感じていた方が良いことは。 昔から考えている人がいるようで、そこには 愛の性質を有した、生きた備えられたもの。 どんなに優れた才能があったとしても、 そこに愛の性質がないことを知ると、 くすんで色褪せる。 そういう、すでに言われていることを書きながら思っている。 愛、愛、でいようとは思わないけれど、人として最低限のところは保っていようとは思っている。もう、大分そういうことは嫌だ、とも思っているが。めんどくなってきた。 カメラはファインダーを覗いて写真を撮るようになった。ちゃんと撮れているか、再生ボタンを押して確認するのはどうしてもしてしまうが。幡野さんの話、最後まで観ていないが面白いな、と。10分ちょっとくらいで区切られているのが、しんどくなくて良いのだ。気軽に区切って観ることができる。写真は中途半端だな、と思うが以前よりは良くなっている。素人の範囲で。トンボはもうちょっとトンボをはっきりさせてクローズアップして、射貫きたい。公園からの写真は木の画像は綺麗なように観えるが、やはり素人くさい。くさいのはきらいだ。におうな、という感じ。部屋の換気は欠かせない。 マツタケとスペアリブの煮込みが作ってみたくて、多分実行するな。外国のマツタケもそれなりにするが、多分実行する。塩と生姜で煮込む。

違いたい。

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  母方のおじいちゃんは、休日になったら、宝塚を観に行って女みたいなところがある、と母親が言っていた。 母親は感情的な映画を私が観るのを嫌って、気分が沈下して戻ってこれないことでもあるというのだろうか。 この感情は、さよならができる。それくらいで。 部屋が汚いから掃除をして、久しぶりにまともな料理をつくる。 豚ひき肉とさつまいものトマトソースグラタン。 「新しいカメラを使うのだが、思ったような違いにならない。違いたい。」

良いときを、良い空間に。自分がそれを。

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  浮遊的な生き方をしようと、思うのだけれど。 根がまじめだから、すでにそうしていることに気付いていない。 気持ちだけ焦らしく。 もう、いいんだよ。 と、声を掛けることで。どう、どう。 気持ちを温めてみよう。冬が来ることだし。 心に灯りがあるから、それを。 そこにあるものを、温めて、生きることが。 そういうことを大切にして、また自分も無下にせず。 ときどき、声を聴いて。 耳を澄ますときを。この浮遊した静かな一時を呼び入れるために。 単純に音楽を今、聴いているのですね。daughter という女性がギターとボーカルを担当しているバンドで、LIVE の動画で。浮遊した音楽という。それを詩に浮遊と使うチープさは本来明かさない方が良いと思います。音楽好きだったなあ、と思い返して。パールジャムとかかも高校一年生のときに好きで聴いていた。メタルも、もちろん聴いていたけど。いつまでも、そんなに上手にならないけれど、ギターの憧れは、音楽への憧れはあるから、ギターは続けよう。そして、詩が詠めるくらいに。なるぞ。 ああいう世界に演奏込みで、浸りたいのだ。

夕方の風

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  花片も陽を見て、そこを向くのは。 求めるのは 多分、栄養だけではなくて、 今日の夜の、風が冷たく、それぞれの孤独。 一緒に仲間といるのだけれど、感情灯るその孤独を、 過ごすために。 その孤独のため。 灯りが必要で、 その夜が優しいときとなるために。 優しく枯れて、なくなる予感のそのために。

時間

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  果ての向こうに、思いを巡らしてもいいけれど、 寒空に太陽が照らす、今日に。 それだけの時間を今日に私にもあって、 季節が巡っている。 通り過ぎてゆく時間に、私は年を取り、 すべてのことが。認識できるだろう、 すべてのことは生きて、動いて、脈動があり、経るのだ。 私や私たちは生きて、 今のところ、世界が変わり、 命が動いて、向かってゆくのは、 その先をまた考えるなら、美しく慈しみ深いところなら、どれだけ良いのだろうか。 年を取ると、そうも考えると近づくからなのか、思うときがある。

コーヒーの香りがしている。

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  どうするか、とくに考えていなくて、 生活を続けて、気分が悪かったのは、自分の病のせいだと、 長い休暇でやっと気付く鈍感さ。 美味しいコーヒーは、本当に美味しくて。 特別な気持ちのときを、そのあいだ(香りを、)過ごしている。 心が透き通って行くのだろうその旋律の、音楽のことを思い出して。 心が静かな喜びを得ている。奥深くにほこりを被っていると、もうそのままだと。 コーヒーの匂いが、部屋をまた満たして。 生活は続けるけれど、清潔な気持ちにその欲求にしたがって行こうと思っている。 前の教会のコーラス集の楽譜を見て、ちょっとだけギターを弾いてみたら良い時間のことを過ごせていたときのことを思い出したのか、それともその曲の良さを思い出したのか、何かが思いとして甦ったという気持ちになった。 ここまで来ると、どうでもええです、という気持ちだ。私が思うように生きます。お金もそんなにはないから、生活を続けます。その間の楽しみは写真を撮ること、下手だけれどギターを弾いて、詩を書いて詠ってみます。コーヒーを美味しいのを買って飲んで詩を書きます。エモーショナルになったら、掌編小説を書いてみます。でも、精神状態が今はそこまで良くないから、考えてみたらぷらぷら今よりもっとします。セブンイレブンのスイーツ、一六のスイーツ。花川堂の和菓子にも遠いけれど手を伸ばします。取っておいた、ほぼ日のお茶を開封します。そーなんです、結構やっているんです。おかーさんのおかげです。それでも、大切に使おうと思っています。 今はいい写真を撮りたいのと、自分を満たすエモーショナルな唄。唄はインターネットの動画を観ての影響です。 何をどうしようとか思っていなくて、感情にしたがって気持ちいい感情にしたがって、しばらく生きようと思っているのです。

味覚

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  コーヒーの香りを、息を吐いて。 様々なことが近くでも起こっているはずだと思うが、 私は気分の悪さを、コーヒーの匂いで癒している。 食べる癖は続いているが、美味しいとは思はずただ食べている。 一時のことなのだと思い。 そんなことはない、と思い直す。 KENTのサンドウィッチ美味しかったと思い出し、牛乳も美味しかった。 最近、揚げ物ばかり食べている、と気付き、 そりゃそうだと思う。 味覚は年を取った味覚になり始めて、と予てより感じている。 昨日が兎に角気分が悪く、今日はましだが、自宅で少し気分が悪くなっていた。コーヒーを飲むとアロマ効果というか、穏やかな気分になってきた。やはり疾患持ちなのだな、というのを感じる。ましな方なのはありがたいが。昨日は早めに薬を飲んで、早めに寝ると大分楽になったな。今日はお酒を飲んでいい日なのだが、どうしようか。多分、飲むのだろうな。ほんとは、薬早めに飲んで、また早めに寝た方がいいのだろうけれど。 探しワンちゃんの貼り紙があったのだけれど、大分前のもの凄いスピードで走り抜けたワンちゃんとは、また違うのかな。 まず、自分のことだな。この生活は暫く続くだろうし、少し考えて色々決めておいたり、結局今までそうしてきたように、自分が判断もして生活のことを続けないといけない。何が正解、とか考えずによく考えて。結局、自分の人生だ。ここまで来てしまったんだから、自分に自分の人生の責任がのしかかっていても、生きてそして苦しさをやり繰り、つまりできる限り回避すべきだろう。そういう世界が頭を小突くことがあっても。悔しいけどな。 大分、弱い軟弱な所はましにはなっている。 今、調子が悪いからなのか、半年くらい休みたいのだよな。それから、その間に考えるのだ。色々なことを。

ウオーク・ディス・ウェイ

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  母親がよく観ていたような映画。 私も一部観たり、すべて一緒に観たり。 私が観るような映画は、 爆発音、ういー、という声、とか。 そんな映画ばかりで、 でも、大学生の時に、深夜に流れていた映画は、 私には不思議なもので。 その不思議な気持ちを、そんなことを感じていた。 美術館に行くようになったのは、 ただ単に、 そういう世界っていいよね、そういうことを感じたかったからだ。 写真を撮るようになったのも、ブログのこともあるが、 そういうことって、いいよね。そう、思ったからだ。 リルケの詩を見て、青年期の毒や、年を取ることで、 感じる哀しみ、哀愁。 それを、リルケが現わすことで、伝わっていること。 そういうこと。 そこに存在する、 それは、私が学生時代に感じていた不思議のことでも あるのだろう、と今、書きながら思っている。 「街まで歩いた帰り、陽が暖色になっていて、三輪車に乗っている子供がなにか沢山話している。 父親はポケットに手を入れて、笑っている。 縄跳びをする子供を、あまり見るのはよくないので見ていないが、母親かとにかく女性が見守っていた。 平和なのだ。この辺りは。 私はそのことにとても感謝をしている。」

猫格

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  きみはじんせいのはかなさについて、かんがえている。 さいきんのねこのかいわ、しりあすなかいわがおおくなっています。 そういうときなのだとねこはおもっている。 そういうとき。そうですね、じんせいのはかなさについては、いまはとくにかんじないのですが。がくせいじだい、それにひきよせられる、というか。どこかでそれにきょうめいする、というか。 し、となづけられている、そのじじつ。そのじじつになまえがつけられて、みながそこにむかうことをなまえによって、だいたいはっきりといめーじすることができる。そのほうこうにかんがえがむかうことをしやすくさせる。 あ、ええ。 きみの、し、のいめーじは。 死、のほうですね。そうですね。このよにかんしては、しんでしまったら、すべておわり。もとのじんかくではやりなおしも、きかない。れいが、のこるとしたら、すべてがおわりではないけれど、いまのところ、れいにのこるほどこのよにみれんはない。こどものころほど、しはこわくない。ただ、そのかていはこわい。そして、いきているのならこのよにまだみれんがある。し、はがくせいじだいひきよせられもしたが、いまはどちらかというと、しにむかうとまけだ、というくやしさ。いまのところ、みょうなみりょくはあせている。 このよのみりょくは。 まず、おもうことは、てきどなしげきがひつよう。いきていくために、まいにちのごはんのように。じっさいおいしいごはんもいい。ときどき、ひとにうけいれられていることをしる、かいわ。もっといくと、ひとのせいじつなちえ。ふとらないていどに、あまいものをたべる。たかくても、じぶんがひつようだと、じっさいにしようするためのものを買えるおかね。いいものをかったら、じっさいいそれをつかいたおしたい、とおもうやるき。ひとがいっていたことに、じっさいにいきていてきづくこと。じぶんというからだに、つづけていることがみにつくこと。おかねはあらゆることをするためにひつようで。それはきほんてきにじぶんをらくにさせるために、ひつよう。よくぼうにいきても、とそうぞうしたが、もう、わたしはちがう。じゃっかんのみりょくをしってしまった。ひつようないいものはかう。たびもするか。たびさきでじもとのおいしいものもたべる。ああ、かんがえると、よくぼうのふかみにははまっていないが、じぶんをみたしている。そして、それができるのなら、それでい

思春期に入ってやる気ないモードに入った気がするな。そこを回避するにはどうしたら良いのか。

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  喜びの総体があるとして、その喜びの類は、 風が吹くとき懐かしく その風で思い出す、 人の跡形(あとかた)。 自分の足跡があって、その他命が溢れている足跡が、 あること。 子どもでないのに、それら足の音が、跡が、 楽しい子どものように感じられて、 元気だなー、と。 少しだけ何だけれど、いいなー、と口を開けて、 そんなことを思って馳せるのだ。 わたしにある、わたしの中にあるその命あるときどきの、感じたちに。 写真が難しい。画像が綺麗でこわい。それと取り扱うのがこわい。早速、私の皮膚の粉がレンズについている。冗談じゃない。 嬉しい。良い写真が撮れたなら幸せ。取扱いに慣れてきたら、いったろやないかい。知っている人の写真についての本が出版されれば、早速買おうやないかい。だとしたら、とんでもなく本気になる。 自分にお弁当を作りたい、と思ったことがあるが、めんどくさいと思って作っていない。出汁巻き卵焼いて、梅酢の唐揚げ揚げて、ふんふんふん、と思っていたが面倒だ。ただ、お弁当箱を開けて、ぺかー、と明るくなる気持ちは未だ体験したい、と思っている。だが、やはり面倒だ。自分のためのお弁当。野菜とかで彩られている。 私の母親は料理をちゃんと作る。そのためなのか、お弁当はちゃんとしたものが入っているが、かなり茶色いお弁当だ。中学一年の時のことだが、お弁当を持って行かないといけない日があった。私は若干憂鬱だった。すでに多感な時期に入っている同級生たちは、やべー、だせー、のとき。私は私の弁当が茶色いことを小学生の時からすでに知っている。 そして、お昼の時間になった。私はお弁当箱を開けた。そうすると、お笑いの世界に入った、あいつが私のリンゴが茶色いのを見て、掴んでこいつのリンゴ茶色い、と持ってふれ回った。ちなみにリンゴは塩水に浸けると変色しにくい、と母親に教えてもらっていて。お弁当もそのリンゴだが茶色かった。あとで、詳しいことをネットで調べよう。ちなみに、そのあいつのこと私は結構好きだ。 私は恥ずかしくて、お弁当の蓋を被せては開けて食べていた。ここからが、書きたかったことだが、一緒の席で食べていた女子。後に本格的なヤンキーになるのだが、どう見ても、綺麗なお弁当なのだが、恥ずかしいなー、と言いながらお弁当に蓋をしながら食べ始めた。漫画とかに出てきそうな話だが本当の話だ。そして、その女子がいい奴な

見えぬ景色

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  年の功を。 単純なわたしのこざかしさなど、 すぐに露呈されているのを、生活でも感じる。 そして、それは良いことでもあるとも思うのだ。 わたしにとっての世の中のおもしろさが、 その人のやさしさを通過して、 わたしは変えて行こうと、ゆっくり思える。 そしてそのこざかしさを乗り越えた先の景色は 配慮だ。 深淵にある大切に眠る、わたしにはまだ眠っている存在、景色。 今はこざかしさを楽しんで、道をスキップして歌を口ずさみ、 おもしろい、おもしろいと自分を励ましているのだ。 (自分のこざかしさがおもしろい(で生きている今が?)、ということと。才能については正直になるのかなあ。何か言わなくてもいいことをどんどん言っているようなきがする。)

ねこのかいわ。シーズンオータム。

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  ちょみちょみ。 わたしのことですね。 そうよ、ちょみ。しをかこうとおもって、めんどうでやめたね。 あ、そうです。そうゆうきになったのですが、ちなみに、ゆ、のところは、い、ですね。わざとです。 ねこもそういうのわかっているよ、ちょみ。 しをかきたい、とむらっとしてしゃしんをとっていたのですが、それでまんぞくしたというか。 ふんふん。 そとあっついなー、と思って。 ふんふん。 のんきではあるかなー、と思って。 ふんふん。 そのわりにじょうちょはふあんていになったり。 うんうん。 わかものがきもちいい、ついーとをしているのをみると、おう、きもちいいな、とおもったり。いまはわたしはそういうことにじしんがないけれど。 にゃあにゃあ。 あ、ねこになりましたね。 ちょみがぶつぶつしているからつい。 あたらしいかめらをかいました。 それはよかったね、ちょみ。 まだ、えらそうにいうとかんじがわからないですが、つかっていこうとおもっています。 ちょみはたんじょうびだったから、おおきなじぶんへのぷれぜんとだね。 うれしいです。 ちょみがとったしゃしんと、しをみせてくるかな。 ぶつぶつとつぶやく、しと、もっともっといいのをとりたい、のしゃしんです。 ひあ、ういーごー、ちょみちょみ。 深く愛情を持つという覚悟というか。そういうことは。 多分、私には本当にできないことだろう。 ただ、今更だが愛という性質について、 そこのところ、意識するくらいのことは、できるのではないかな、と。 そう、希望を置くことを、 やっとだが、いや、やはり自信がないが。 他人の目から見た自分を、少し解放して、 愛という存在があったこと。 顔を上げて正直に見ること。 そういうことを、できるときに、いくらか積み重ねて。 できないときは、少しだけ悔やんで。すぐにもう一回と顔を上げられたら、上げて。 そういうことしてみても良いのではないかと。 そういう風に思っている次第。 他人は他人。 自分は自分。 私はやっとそう思えることができた。 そう言ってくれた人がいる。 私のことと。 そして、私が生きていくうちに、私のことを感じていたこと。 色んなこと。 そして、今のところ何となく私は私なんだとそう思っていいようだ。 (酸いも甘いもというか。弱い自分だが、今書いている時点では、いい部分に焦点をあてることができて。それで、そのほうが、

夕ご飯のきもち。

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本当は自分だって、と思う自尊心。 分相応が悔しかった。 気分を自由にして、そういう気になって。 それもいい思い出。自分は自分だったし。 そういう自分を認めてくれたのは何か。 何だろう。 何なのだろうか。 経験や。 温かい気持ち。 命のこと。 キリストの血潮、と描いて、 血潮の匂いを感じる。本当に頭の中にその血潮と匂いの感じ。 そうだな、確かに認められた先が、絶対的。思う限り、生き物万物に絶対的な、 存在とするなら。飛び抜けて超えている。そして、命の性質を有する愛の性質を持っているなら。 その性質に認められて生きているなら。ないがしろにはもうできない。 ねえ、あなた。 あ、はい。 このよでもみとめられたい。 それは、もちろん。 だいぶ、みたされているかんじよ。 ありがたい。そうかんじています。 みたされてみて、どう? このよのこともすごくすきで。それはあたたかいことなら、なのですが。ただ、わたしはふあんにおちいりやすくて。あい、というそんざい、とかいていて、わくちん2かいめのふわふわかんがきだしました。しゅうちゅうしてしまったからでしょうか。あい、というしかも、うごかない、あい、というそんざいにしんらいしたい、とおもうようになりました。 そう。そろそろ、むりしてはいけないね。さいごにひとについてはどう? おとこのひとはきほん、にがて。おんなのひともにがてなひとはにがて。ただ、いろいろあるからこそ、かかわったひとたちが、きほんてきにあたたかいひとなら、どこかできをつかったり、する。まともなおとなのはいりょをする。そして、そこにはすこしはきもちがはいっている。それと、がくせいじだいにせきをゆずったりしていたきもちをわすれたくはないね。かっこつけなくていい。いや、いいです、といわれるのをおそれない。ゆうきがやっぱりいるか。そして、そんなにいやなひとばかりでもない。ひんい、をかんじたことがあるように、そういうひとになりたいし、そういうひととはなしたり、ときどきわらったり、わらいあったりしてみたい。やさしいせかいって、あるようなきがしています。 そう。じゃあ、わたしはこどもとゆうごはんにいってきます。 わたしもきょうはクックチャムのお弁当にしようかな。唐揚げつけて。

ただ思ったこと。

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  私のお守りの詩集はリルケの詩集だ。お守りの本は聖書、ということになるのだろうな。聖書は言葉が身に付いていないけど。 机の上に物が積み上げられ過ぎている。整理してちょっとしたことで、爽快な気分になれるのに。 星野道夫さんの文章に感動した経験。 写真に興味が湧き始めたこと。 料理はできたものを食べるのが好きで、レシピを見ていまだにわくわくすること。でも、だんだん、普段は簡単なもので十分と思っていること。 ギターは拍数はともかく、小節でおさめることを意識していなかったことに気付いたこと。 英語は日本語字幕が出たら、英語をある程度聞き取れて、なるほど。と思うが、英語だけだと意味を理解する間に、次に話が行くのでついていけないこと。日本語に訳すのではなく英語自体の意味で頭の中で理解ができた方がいい、と言われたことがあり、そうなんだろうなー、と思っている今。かなりむずくて、でも片隅にはそれを思っている。 コーヒーはホットを飲み始めている。豆を買った。 ホットケーキ食べてみたい。蜂蜜と生クリーム。 誕生日がもうすぐだ。 母方のばあちゃんに少し似ているところが、ある気がする。いいところだと思っているが。 近くの花屋さんがなくなって、残念なこと。