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詩を書く人。日本ではニッチかもだが、でも詩を書いていこうぜ。

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  桜咲く、日々に添えられた時。 風が美しく、花はそよぐ。 光は射して、 透き通る白から、うす紅色に経って。 そのうち、花弁はまた舞うのだろうと、 ありがとう、その日々よ。 水は流れ、光を反射させ、とても冷たそうに。 その上を渡る桜の花、 白と影、陰影を纏ってこの日暖かだと、きれいに物語をくれる。 川はやっぱりまだ冷たいよ。 川を暗くして、 地面に影を落として。 春の知らせ。 はぜた、ご老体健在。 1つめが写真を観ながら、いつものように書いた詩。2つめがその方法で書いた詩。意識が引っ張られて、1つめも観察が入っている。それと、写真は自分が撮っているので、その時の気温とか風とか、匂いとか色々あって感じ取りやすくはなる。2つめはやっぱり、ぎこちないところがあるけれど、パソコンに打ってだんだん打ち直して変わってくる。もう、普通に詩を書くことに慣れている。それと、2つめは殆ど観察、だな。自分で写真を撮っているので、もっと気持ちがあってもいいとは思う。普段、ブログに書く詩は、詩と言えない物もあるかもだが、詩を書く機会があるので詩に「なじみ」があるようになっている。語感を腐らせないようにしたい。自分は慣れているから、いいが、当日教会での時間はどうなるものか。楽しんでくれたり、少しは興味を持ってくれるといいもんだ。自分のためにやっているのだ。気持ちのリフレッシュになるのではないか、と。

宇和島、2023春

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  宇和島に行ってきた。 カメラにあなたを映していたら、子どもの声がした。 多分、兄妹だ。あなたたちの側で、川に舟を浮かべているのだろう。 兄妹はあなたたちを通り過ぎてゆき、素朴でやさしい声がする。 妹ははしゃいでいる。 何をしているの。 聞いてみたかった。 でも、兄妹は、ゆっくり穏やかに川を下ってゆく。 私はそのまま、桜、あなたたちの写真を撮る。 もう十分かな、そう思って私も川を下る。 先を見る。いねえ。どこまで行ったんだ。 途中で道を変えたのかな。 でも、あの感じは行けるところまで行きそうな感じだった。 実は、昼を美味しく宇和島で食べたあと、写真を撮るのにも満足して、宇和島を後にしたのだが、帰りの味噌蔵を過ぎていたみたいで、残念、と思い、さらに途中で高速に乗ってしまうか、と高速に乗ったらぼーっとしていて、松山で降りるのを過ぎて、今治まで行ってしまったよね。私は、そういう所がある。天然の域を越えた世界を私自身にあることを自覚している。 車の皮ふの粉が写っているけれど、それなら、と今治のさいさいきて屋でストロベリーサンデーだったか、とにかく買うよね。かちんこちんなので、陽にあてる。ぺろっと、食べれる感じなの知っているのよ。以前も1回食べているから。鬼のようになって、味噌も煮干しもうどんとかも買うよね。

桜咲く日。

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  少女の並木道、子犬と歩く。 人のにぎやぎが先にある、 安らかな、温もりの日。 菜の花はまだ広がることで、 そして、花は咲いている。 どうか、まだ散らないで欲しい、 穏やかな嬉しさがそこにあるから。 そう思っている。 次の週に教会でやってみようと思っているやり方で、詩を書いてみた。ちょっとぎこちない感じがある。人に勧めるやり方で自分ができなかったら、どうにもなので。これがいい、というやり方ではなくて、詩をどう書いていいか分からない、詩なんて分からない、という人にはやってみて、いい方法ではあるのではないかな、と思っている。できるようになったら、自分の息遣いでやって行けば、いいのではある。インターネットの影響から、詩を多く書き始めた時に、写真を見ながら自分はどうやっていたかを、分析とまでは行かないが思い返して、こうやっていたな、と思ってそれを方法として、形象化(表に現れているかたち、ある対象を観照したとき、その内的な姿として心に浮かぶ具体的なかたち。)してみたものだ。第一回目は想定していたより、さらに興味がなかったようで、でも少年、よく最後まで聞いてくれた。今度は写真を使うので、もうちょっと、ひっかかりがあるといいな。どこまで、自分続けるのだろう、と思うが、自分の心のリフレッシュにも、多分なる(つもり)になるのだ。齋藤陽道さんと、幡野さんの写真と図書館で借りてきた写真をコンビニでカラーコピーをして、使おうと思っている。コピーしている間、ふんふんふーん、とおしゃれなことしている気分になって、そういう多幸の感じを味わおうと思っている。さて、どうなることか。だいたい、ありゃりゃ、ということになるのだけれど。それと、いきなり、このやり方でやるのも難しいだろうな。練習が必要だ。 今日、自分がやってみると、やはりパソコンに打ち込む時に手書きと変わってくることと、今見ていて変えたのは、花、が桜の季語なので桜から花に変えた。(花、は同時に美しさ、明るさ、儚さ、愁い、気だるさ、非日常などの意味合いも含まれているそうです。スマホより。) ちょっと、難しいかもな。写真について思ったことを、書いて貰うだけで十分かな。少しでも、興味を持って貰えて、あと、2,3回くらいは続けたい、と思っている。 明日は宇和島に行こうと思っている。

アイ・キャン・ドゥ・イット

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  自分は自分の道を歩いている。どう思われるかも、一般常識を考えて大切なことだが、自分がどう思っているか。ただ、ぼーっと生きていたら、それにも気が付かないだろうけれど、この余りある時間の中で、自然と感じたり考えもしたり、そういう時があることには感謝をした方が良いのだろう。まだ、まとまっていないことも沢山、これも数えてみればあるのだろうが。 さて、今日思ったことなのだが、今の時代怒られるのだろうが、自分はゲイでもバイセクシャルでもないのだが、若干のゲイ的性質を持っている気がする。大学の時に、男の友達に顔が近くなって、「照れんな。」と注意されたことがある。多分だが自意識が高いのだと思う。自分の顔を人より気にしたり、これは女の子にだが、綺麗な足をしていた女の子にどうしてもその足に意識がいったり、美意識が高い、というか。男の人にも照れることがあったり。昔、挫折後苦しんでいた時に、布団の中で男が好きになったら、本当に死ぬ時だ、と何を苦しんでいるのか分からないが、思っていたことがある。今の時代、怒られることを書いているかもしれないが。私は現在44歳だ。ひと段階乗り越えたかもと思ってはいるが、女性に渇いている。飢えている、とかそういうのではない。歴が長く、ちゃちゃっと済ませば別にそれでいい。しかし、多分身体全体がそうはいかないのだろう、意識というか。どうしても、目が行ってしまう、ということがあり、子供にびくっと、反応していた時と同様に、それよりは少しだが悔しい思いがある。余裕が欲しい、と思っている。 朝起きたら、掃除されていて、味噌汁の匂いがする、とかまじか、と思う。朝はパン派だけれど。世知辛い経験を結構していて、鍛えられたのは鍛えられたのだが、ふと、最近思い出したのだが、母親がデパートでフランスパンを買ってきていたり、甘いものを買ってきていたり。恩師に初めて会った時に、自宅でケーキが出されて、言い方が違うのだけれど、こういうことは当たり前ではないのだよ、と言った覚えがある。今、そういうことに焦がれるか、というとそうでもないのだが、今は今で楽しみを見出していて。でも、当時は今もまだそういうところがあるが、甘えていたのかもな、と思い返す。それと、もう十分中年の年だ。男だし。朝か昼をカロリーメートで済ます今も好きではある。ただ、今の状態は普通ではない。自分が思っていることが、そうなる

つくし

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  色々に、様々に、言うならば世界は存在して。 それは、人という私が感じ取れる範囲での世界なのだが。 それでも、やはり私は人で、 いいにしろ、悪いにしろ、見たこともない世界が、そこや、あそこ、あちこち、潜んでいるのかな、と思った。 それは、私という人が感じられる世界。 人という性質を持ち合わせた地球の私で、 今の状態なら言えるが、感謝の思いがある。 人、ということを少しでも感じることができたこと。 何かの本で読んだ記憶なのだが、人という性質は昔からの本能的な物の中には、悪い物もあって、それを乗り越えて行かないといけない、ということが書かれていたと思う。少し、はまっている無意識の世界の中には太古からの本能的な何かが宿っていて、その中には悪い物もあるのだ、という話もあったような。しかし、何に反応するか分からないその無意識の本能が良い方向に反応、またはそのように向かえば、大きな力を得るのではないか、と本で読んだ記憶と今、酔っぱらっている思いの入り混じる考えで書いている。 さて、私の生活は暖かくなってきて、朝をちゃんと起きている。お前、寒い間はのらで眠っているのか、と言えば、多分そうである、と言うしかない。調子が悪くなるのも、寒い間は皆もそうである、と思う。 土曜日だっけか、雨が降ったので、月曜の今日、つくしが生えているか見に行くと、じゃんじゃんと出てはいなかったが、夕食のおかずになるくらいには取ることができた。お浸しにしようと思う。卵は、菜の花の卵炒めの方で使う。お昼は、めずらしくちゃんと作ろうと思って、菜の花のからし和えを作ったりしていたら、時間が結構経っていた。お昼はでき合えの物を軽く食べることが多く、楽だし時間も使わないからなのだが。しかし、何にそんなに時間を使ったのだろうか。皿洗いも含めていたからか。今も、時間の経過が謎だ。腕時計を見てびっくりした。菜の花の料理はいずれもアプリでの料理。からし和えすごい美味しい。夕食前のおつまみにもなった。からしの香りとかそういうのもいい。 調子が良い、今の状態を保ちたい。30分ずつだがギターの練習、英語の時間を持つことができた。スマホのカレンダーに印を変わらず付けていて。見直すと、ギターも英語もやっていねえなあ、と思うがひつこい性格のおかげで、諦めていなく。力は少しずつだが付いてきている。他、何やってんの、と言われれば、今日は優

花の種類

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  久しぶりにろ過水を飲んで、水の美味しさを思い出す。 お茶を飲むことが多くて、 多分、お茶は飲み過ぎなのだろう。水が美味しい。 雨が降ったのちの夜、 静かに車の通る音がする。 それに気付いたということは。 こころも静かになって。 パソコンのディスプレイに現れた、海を泳ぐウミガメの写真が、 とても気に入って、心打つ。 何桜というのか分からないが、写真を撮っていた方がこっちにもあるよ、と教えてくれて川沿いを行き写真を撮ったのだが、もうちょっと向こうなのかな、とさらに道路を渡ってしまった。戻ったらその方が写真を撮りながら、ここ、と。そしてもう一回写真撮る。歩きながら、思っていたのだが、何時しかに植物の名前を知っておきたいと思ったことがあって、今からでももう少し知っておいた方がいいかな、と思ったな。歩いていて綺麗な花だな、と思うことがあって、その時に名前が出るといいなと。詩人のつもりでいるし、花の言葉が出ると、いい感じでもあると思うし。意味は正確には分からないのだが、昔の詩歌とか趣きがあって惹かれる響きがあったりする。その中に花の名前が出てくると、やっぱりかっこいいし、現代詩でもいいとこに使ったら、はまれば、さらに花のことを知っていれば、かっこいい。今のところ妄想止まりではある。 ソメイヨシノが沢山咲いたら、宇和島に以前のところに写真を撮りに行ってもいいな。去年のあの桜は気持ちが良かった。帰りに味噌蔵で味噌も買いたい。 休肝日の実行は今のところできていない。でも、飲む量が飲まない設定の日は少ない。けど、実行できるようにしよう。夕飯が近付くと気持ち良くなりたくなってしまう。体重も去年減ったのにリバウンドだ。しかし、食べ過ぎてはいないし(基準が違うかもだが。)、活動はしているので良しとしよう。 今頃だが、インターネットの情報量がすごいことに気付く。料理のレシピは溢れているし、昔、雑誌でしか出会えなかったギタリストのライブが普通にYouTubeで流れていたり。ギターの奏法の解説とか、溢れていたり。英語も字幕付きで動画があったり。野菜の知識、ライフハック、そして、Twitter だったらその情報はどんどん流れて後になって行く。その知識のタイムラインがストックできる場所があればいいかも知れないが、Twitter の魅力はその刹那なのだろうか。自分という人間の性質的に考えると、他者が

ミネストローネは野菜が摂れるね。

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  春が近づいて、何かやかや行動ができている。無職の期間の感じの経験から、その内またやる気がなくなる時が春でも来るだろうが。 だんどりが自分にとっては、有効なようで、この時間にこれを書いたから、やらんとなという気持ちが働いて時間が少しずれてもそれを実行している。、と言ってもやる気がない時はだんどり自体を書く気がしていなく、やる気が出始めている現在、かなり近日だがだんどりの予定を書いている。やる気がない日は遊ぶ、でいいね。遊ぶっつっても、ドライブとかそんなとこだけど。今日はウォーキングをして、おにぎりを食べて、スタバで柚子ティーの冷たいやつを飲んだよね。その間、写真集を眺めて、天気が良いから外のテラスで。 本の継続するコツ、は独特というか1回読んで掴める感じではないのだけど、気になったところを、付箋しておいたのでそこをもう1回読んで、何か得ることがあったらいいな、とまじめに思っている。私は気持ち的には常識の舗装道路を進んで来ていて、それ、考え直す価値もあるよ、と最近、極端なことではなくて、自分で感じてじっくりも考えて気付いたりすることもあるかな、と思っている。ちょっとしたところの色々なことのコツ。気持ちにおいて、かな。 夕方から部屋が冷えて来て、おじいちゃんがくれた羽織るセーターが丁度良く暖かい。夏の間、何も処置をしていなかった春物の薄いセーターとかは虫に食われた。ちゃんとしないとな。 作り置きをしておくと、随分夕方が楽だ。今日はそれプラスちくわの磯部揚げをしようと思ったが、コンビニにちくわがなかったので、断念。 そろそろ、釣りに行こうかな。軽くでいいんで、メバルが釣れたら。春告げ魚よね。煮付けにしたい。私、去年のこの時期より、今年の方が元気がある。 ウォーキング、ディスウェイ。

カラスの悪さ。

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  写真がはっきりしないのですが。ちょっと前に、コンビニに行く途中に可燃ごみの日で、ごみ置き場のごみをカラスが荒らして、近所の人が掃除していました。ネットを被せるだけではカラスは頭がいいし、中々勇気があるので荒らされちゃうみたいですね。そこで組み立て式のごみ置き場というか。骨組みを簡単にセットしてそこにしっかりとしたネットを一面ずつ張る。サイドの棒は伸縮可能で、ごみ置き場のスペースの広さに合わせてセットします。それと、可能な場所なら骨組みやネットをいちいち張り直すのが面倒だろうなのでサイドを一番短くしてネットを張ったまままとめてごみ置き場の隅に置いておくとか。ネットは体育祭とかに使うテントみたいに棒に結び付けるひもが沢山あって、各支柱に結ぶ。サイドバーの伸び縮みにも対応して内面というか内側にもひもが沢山あって、範囲が狭いならそれに対応できるできるようになっている。とにかく、ひもが沢山あるといいかもです。余分に出たネットは他の面にひもで結ぶといいかな。 支柱のサイドバーを受ける留めはゴム製が好みとしてはいいか。支柱の足は危なくない重いもの。 そういえば、どうやってネットを開いてごみを置いて行くのか、と考えて、上のネットの面にネットが一部重なっている様にぎっちり重なっていて、それを剥いてごみを置いて行くかな。カラスもそこを入っていたら、出れなくなると思うので入らないかな。イメージとしては魚の漁とかの仕掛け。入ることはできるのだけど、性質として出ることができない。昔、小さい仕掛けで小魚とか獲っていました。カラスが頭が良すぎて、中に入って出ることもできるようになったら、白いビニールひもで出口を結んでいくしかないか。多分、大丈夫じゃないかな、と思うのだけど。気分がいらいらして、肌が少し痒いのできちんと考えていないけど。試してみるのもいいですよね。詳しいことは専門家が考え直して。どうでしょうか。実現したらテンションあがるせ。 今日はちょっと冷えるけれど、やっぱり寒いのより、暖かい方がいい。暖かくなってきて、気持ちが前向きになり始めているような心持ち。常識的なことを今でも知らなかったり、言葉の意味も分からないことがまだまだある。ちょっと、賢くなったつもりではいるのだが、そこに胡坐をかいていては、若干のあほのままでいてしまう。もとが、どれだけあほだったか。でも、それがあるから、まだ

頑張ろ。

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  行く道は、家族の声や、犬の姿。賑やかだった。 つくしは雨が降ったら、出るんじゃないかな。 そうやって、アドバイスされ2本だけ見つけて、 持って帰る。 帰りはあの賑やかさがなくなっていて、 人け、が寂しい。 家族の声を、楽しい声を聞きたかった。 当たり前ではない、あのにぎやかなこと。 生活に張りがなくて、例えば自分の子供でなくても育てるのに頑張らないといけない子がいたら、もうちょっと頑張れるのかな、とか思うことがある。でも、すごく大変なことなのだけれど。実は猫でも犬でもいたら、頑張れるのかも、とも思う。私はアトピー持ちなので、そこは無理しない方がいいことなのだけれど。でも、猫も犬も可愛い、愛らしいのだよな。おはぎさんも愛らしかっただろうな、安らかに。 もうちょっと、緊張感持って生活をしたいのだが、なかなか。運動は武道館のジムに行ったり、ウォーキングを心がけたり。英語はネットで申し込んだのだが、メールが届かなかったようだ。何度か、試みてそれでも駄目だったら、諦めよう。聖書的には、何でもっとメールを出さなかったのか、そうすれば伝わったであろう、という風な。 生活に新鮮さを吹き込みたいのだよな。そのためには、英会話のこと、合気道のこと。合気道は見学ぐらいはできるだろう。もし、やるとしたらできるところまで、続けよう。昔みたいな自分ではないように。 元気が出ることがあるといいな。自分だけではなく、つらかったり寂しかったりすることをねぎらうような、明るいこと。自分はネットに救われている一面があるけれど。キリスト教的には、もっと言うことあるだろう、ってなるだろうが。 自分は生活に嫌気がさしている。でも、乗り越えないといけない。モチベーションを上げるために工夫をするのだ。祈りも必要だな。何か他にあるかな、心のどんよりしたものを、新しい水に。旧約聖書~力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。好きな聖書箇所で力を求めていた時に好きだった。また、求めようかな。前よりは大人になって、色々経験した。一方通行ではなく、周りを見て、できるなら冷静にいのちの泉を求めるのだ。頑張ろ。

小さなできごと。(やっぱり猫が好き。)

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  君の前足が見えた。 私は屈んでのぞいた。 君はにげよかな、と態勢を変えた、でも、 しっかり私のカメラを見て。 君はにげなかった。 シャッターを切って、礼を言って。 また会えたら、と私は思う。

勇気

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  すぐに悩んで、でも、 春の近い道を歩むと、心が晴れて来て。 昔、女の子が言ってた。 ありがとう、と言われると、またやる気が出てくる。 それを聞いていて、私もそうだな、と思っていた。 今は、様々なことに自信を失っているのだが、 ふと、頑張ってと言われると、 心に泉が湧くように、自分を感じた。 自分の問題に悩んでいたのだが、春の近い道を歩いていたら、気持ちがいいな、と思って。自分はこういう風に生きてきたしな、と思って。今、パソコンを叩いていて、やっぱり悔しいことがある、と思っているのだが。歩いていた時は気持ちが晴れた。そして、今、また気持ちが落ち着いてきている。信仰、というのはよく分からなくなっているのだが、自分はキリスト者でイエス・キリストが自分のどこかにいる、というのは感じていて。離れていない、という思いがある。これから、自分がどういう歩みをして行くのかは、分からないことなのだが、人に親切にする、とか自信を失っていることをできるなら、いつかは取り戻したい。まあ、いつか子供に関わることをするなら、せめて子供にはそうしたい。感覚としては夢物語になっている。まだ、火は消えていない。規模がどうなろうとも、どうかそれをすることができますように。イエス・キリストの御名によって祈ります。 今日は久しぶりにApe に行って本を読んだ。外で読んだ方が気持ちがいい。暖かくなってきているし、過ごしやすいので色々やって行こう。英語は英会話レッスンを頼むハードルはそんなに高くないのだが、合気道は気持ちとしてハードルが高い。仕事もせず何をやっているのか、と思う人もいるだろうが、できるのでやって行こう。お金も暫くは何とかなる。この生活があと5年続くとしたら、どうにもならないのだが。希望を持って、歩もう。理想は少しだけアルバイトをして、執筆をし、文学賞を狙う、というのが、いつかの思いであって。どうにもならないこの生活は、時々倒れ込んで、持ち直して。ただ、いつかに言ったが、空しくはないのだよな。空しさの余裕がないというか。気持ちを与えてくれる仕事という理想ではあるが、生きていく栄養を貰える希望。そこに辿り着く希望もあるし。私は金持ちかもしれないので、おまえはいいよな、と反感を買うだろうけれど、随分傷ついて来たし、ここで終わる訳にはいかない。そういうこと言わない方がいいよ、と言われたことがあったけ

ポテトチップス、海苔攻めののりしお味、数量限定商品なので、すしのこを混ぜる勇気はない。Twitterで観たポテトチップスにすしのこを混ぜる、いつかやる。

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  自分が運がいいことくらいは、いつも心に留めておいて。 それでも自分が感じたことは本物で、 自分が感じている。 哀しくて泣き、 美しい、優しいその時を見て泣くことも。 それは自分が感じている。 しかし、私の独りよがりである場合があって、 現実に晒されることも、よくある。 その経験は私にとって大切なもので。 世の中は、人の社会はさばさば、淡々と、 動いてもいて。 その中で時々、心ふるえる、そんな淀みが生じることがある。 年齢を重ねると、時々それに気付いて、 指で触れて味わうのだ。 それは何とも言えぬ、嬉しい味だと知り始めている。 もうちょっと若い頃はかなり顔について気にしていて、アトピーで荒れた肌にもため息をついて、鏡をよく見ていた。亡くなった牧師さんがメッセージ中に、赤くなった顔とか気にしない、と言っていて。ほんとだな、と思い始めて、この自分の顔を気にする呪縛から意識的に解放できるように、するように心がけるようにしていた。今は年も取って、それでもまだ気にするのだが、まあ、年だからこんなもんだろう、とかも思うようになって、そういうことを思うことがましになってきている。薬を付けた方がいい、と言われて顔にも薬を時々付けることは最近あるのだが。確かに荒れて赤すぎるので。それはそれで。 あとは、旅に出た時にホテルで全身が裸で鏡に映るのだが、お相撲さんみたいな体系に近いと思ったので、そういう情けない感じのことは直したい。自制よね自制。ちょっと痩せて来ていたのだが、毎日お酒を飲むようになって、また太ってきている。今日もおやつにポテチを買ったよね。アイスも食べるようになって来ているな。 自分、緊張したり、何か弱い気持ちになった時に、かなり高い声になる。あれ、やめたい。人間が弱いのだ。落ち着いて、対処したいものだ。 色々なことを暫く取り組んでいなかったが、前回のブログにも書いたがまたやる気力が出ている。旅の間、新幹線で本を読む時間は幸せだった。土地に降りなくていいから、ぐるっと乗り換えて廻って4時間くらいで500円くらいで乗せてくれないだろうか。無理なのは分かるが。それと、前回の写真ぶれているね。植物の雰囲気がいいから、使った。 寝違えて、暫く経つのだが今は右肩の関節が脱臼しそうな感じの、そこまで大袈裟ではないけれどそういう感じの痛みになっている。祈る。 カキフライは結局作っていな

今度、牡蠣を使った料理を夕飯に食べようと思う。3度くらいそれやると思う。

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  今は、昔も。 優しさを信じて生きる方が、賢明だろうと。 誰かが何かを陥れる。 そんな場所ではない場所が、それなりにあるだろう。 気を付けて生きなくてはいけないことは、確かだが、 助けてくれた人を、助けたいと思う気持ちは、 まだ、多分持っていて良い筈で。 それ位のこと、それぞれに忘れたくない。 そんな人も、まだそう少なくないと今思うに信じたい。 肌身に感じるのが、仕事をしてきて触れて来た人たちで。少しはいたけれど、何だこいつ、という人はいたけれど、上手くやってやろう、という感じを感じた人は少なかった気がする。若い女性が多い職場の時を文句を言ったことがあるけれど、うーん、やっぱり今でも女子高に入れられたような感覚だったな、と思う。一人一人を見れば気持ち良い人も結構いたな、とも思うのだけれど。病院に移動して仕事も少し楽になって、介護士のおばちゃんたちには、助けられることが多かった。男性職員も優しい職員が多かった。いい時だったな。給料面、体力面、とかそのままだったら、不安にもなることは多かったのだが。 後ろを見るだけでなく、前を見ると。大きなことでなく、何がまず身近にできるだろうと思う。2月は旅から帰ると、ぐっと寝込んだ。気分が落ち込むことはなかったが、そういう自分のことと少しは関係しているのだと思うことにしている。そういう甘えがなければ、私は普通に働けるし、そういうことも我慢できるのだと思う。ただ、多分普通の人よりは、しんどさが少し大きいのだと思う。お薬も関係していると思う。 さて、身近な前を向くと。写真、やっぱりいいのが撮りたい。英語はかわいこちゃんにそろそろ連絡を取る。ギターは少し上達したことに胡坐をかき始めている。弾き語りできねえだろ、絶対ミスするだろう、テクニックもそんなないだろう、憧れがあるだろう。基本的なことしかできないだろう。という風に昔からの憧れの思いと淀みがある。いかした、ギターを弾くじいさんを目指すのだ。本も習慣的には今そんなに読んでいない。言葉は言葉の筋というか、観ることは少ないが、ほんとに時々、テレビをつけた時の俳句の査定を観た時にコメントと同じようなことを感じているな、とか。それを修正することは俳句なので自分にはできないけれど。教会の子供に嫌にならない伝え方って、どうすればいいのだろうか、という今のところそれは楽しみになっている。まだ、全然考