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2023年12月30日。

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  綺麗なシャツを着ると、綺麗な気持ちになり、 人がいるその時、自分の考えを明らかにすることを後押ししてくれるような思いに。 自分の気持ちを伝えることは大切だが、とても勇気のいることだ。 いつも人は理解をしてくれることはないけれど、 伝わったと温もりのような何かを感じたら。 そのひと時、不安はどこかへ行って、 人であることに幸せを憶えている。 腹が出ているので、パーカーとかスエットを着ていると安心する。でも、普段シャツを着ない分、シャツを着ると綺麗な気持ちになる。教会以外でも着るとちょっと特別な気持ちになる。シャツを着て、喫茶店に行ってコーヒーを飲みながら、本を読む。いいねー。ふんふんふーん、と本を読んで気分が上がる。 年末だ。今年が終わる。掃除も中途半端で。明日、教会から帰ったら風呂とトイレ、洗面所の掃除は死守したい。そろそろ、湯船に浸かりたいし。まだ、大丈夫だけど。もとが、どんだけ汚いか、とても汚い。 机の上の整理は正月明けてからかな。そういう気分だ。 なぜか、明るさの勢いがない。変なことを書きたいのだが何も浮かばない。そうだな、唐突になるが、トムとジェリーは昔からトムが好きだった。いつもジェリーにしてやられて、手が挟まって、ぼーんぼーん、と腫れて、あおーん、と鳴く間抜けさが大好きだった。さて。 今年をもう一回振り返る。というか、この生活になってから。 ヴァーチャルな世界での意思疎通が多く、それが当たり前になっている。当たり前すぎて、この恵みと言うか、みんな結構羨ましい、と思うことであるのに普段それ、感じていねえ、考えていねえな、と今思う。実生活では実家と教会での対面での人とのことになり、人間的弱さを憶える。自分何度もしつけえな、とか、もっと伝えきれたら、とか。後で、ちゃんと伝えきれていないとか、不器用さをどうしようもなさを感じる。まあ、不器用な人間にはよくあることではある。 文章のことは、挑戦者であったのに大分偉そうになっている。しかし、書く時はおかしくならない程度に、精神を気持ちを込めたい。映画とか、精神的に負担になるものは観れなくなっていて、途中で観るのを断念している。昔、そういうの好きだったのに。そして考えれば、人の作品の評価までしている。どういうことだ。ごますりの気持ちでなく、すげえ人たちの作品を評価とかしている。おそろしい、ヴァーチャル具合だ。 昔、

12月26日、平和な日々を。

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  今年は何をしたか、夏はよくやっていたので憶えているが、他の期間は何をやったか、はっきり憶えていない。旅行は楽しかったな。今年の冬から来年の冬にかけて子供についての本を読んで、ノートにまとめてと思っていたが、ずっとだらだらしている。これは軌道を修正したい。今年の最初も今よりは活動していた。写真がもっと上手くなりたいとか、思ったり、ギターや英語もまだしていた。なんだ、いまのぐーたらさは。いつかもとに戻るさ、と思っていたら、全然戻らずぐーたらしている。結構自信がついてきた文章のことも言葉の使い方とか間違っていたりする。ショートショートは書いた。ブログに書く詩もぶつぶつと呟いているだけであることが多い。詩なのか。詩の時もある。 そういえば、何かを教えたがっていたのを思い出す。教会で写真を使って詩について書いてみよう、という時間は自分にとっては面白かった。月に1回教会に来るお子さんにも何か言いたくて何かを伝えていた。自分にとって楽しい時間だったが、今はその意欲も薄れている。 今年の中盤、教会を出ようとして、また舞い戻る。何だか。それまでも嫌なこととかあって、何でここにいるんだろう、と思っていたことがあって今年になってきっかけがあったので、出ようとする。そして、すぐに戻る。すごい楽しい今の状況ではないのだが、優しい人が多いことに気付いている。私もマイペースで教会活動をさせてもらおうと、思っている。しかし、今の教会に変わってから思い返して色々なことが自分なりにあった。失礼なことを言ったりしていると思ってもいる。結局、全体をまとめると今の教会に助けられて今の自分がいることは事実だ。たられば、だが教会をさっさと出ていたら、どうなっていただろう。何か、重要なこころの深度を失っていたのではないだろうか。そして、時々感じる優しさの風をも失っていたのかもしれない。大げさだな。優しい、を感じるなという時を勝手に感じているのだ。よかった、教会でんで。むかつかれるかもだが。 世界の戦争のことに何か伝わっているように感じるが、詳しいことをしらない。もちろん常識くらいのことは知っているが。ただ、もの申せばいいんだ、とは思わない。聖書教育のテキストだろうか、それに書いていたのはいつの世も戦争の犠牲になるのは弱い者たちだ、と書いていて。本当だな、と思っている。どうにか、終わらんものかなと願う。日本で主

もの凄い食べれるのだが、抑えている。

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  世界では様々なことがあって、簡単に人が死んで行く。 私はそんなに簡単に死ぬことはなく、 でも簡単に死ぬ人間という存在だ。 美味しいものが食べたくて、寒ければストーブにあたり。 弱かったら時々馬鹿にされて、 静かな夜がやってくる。 色々なことがあって。 経験を楽しむ。 だから、死にたくはない。 心を持つ沢山の人は、世界を何とかしようとして。 小さな地に足の着いた視点を持って、使命を感じて。 心の気持ち、目線。 弱いのだが、それが私にもあることに気付いたことに感謝している。 いつか一翼を担いたい。 メリークリスマス 正直に言うなら、面白いか面白くないか、の気持ちが7割くらいあって。もしだけれど、お金をそれなりに稼いで、作家として。贅沢してぶくぶく太って、だらだら過ごして。自分はそうなりそうだし。そのうち、何も面白いことねえな、とか思い始めて。何かくだらんうんちくとか人を捕まえて言うようになって、とか妄想し過ぎだが。大変なことだけれど、人が一番面白い。ただ、自分も傷付くこととかある経験して、大変そうだなー、とは思っている。おめえには分んねえよとか、青年になった輩に言われて傷付いたりとか妄想したり。今の状況でどうなるかは分からないが、今は将来そういうことができる、という前提で生きている。だから、希望がある。今も嫌なことは嫌だよね、と思っている。2割アルファの気持ちだ。1割オメガは元気が貰いたい。 さて、自分は人と話す時にネタがそんなにねえな、と思う。変な話を始めたり。昨日話した話の一つに、変な状態になって文房具屋に行った、という話をした。最近はないのだが、それが始まり出した時に、時々なるのだが、変な状態になっていて。文房具屋へ行った時は、導かれるように苦しみながら、その文房具屋へ入って。大人っぽい文房具屋だったのだが、そこで、ボールペンとノートを買って、やっぱり自分には文章のことがあるんだ、と思った記憶がある。あれから、8,9年経っているのかな。その変な状態は仕事の時もなっていたことがある。その状態はしんどい。開き直って、暫くは変な話をする人として生きておこう、と今思った。

ぶつぶつと。

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  話をしていて、クリスチャンにならなかった、自分はやはり想像ができない。 洗礼を受けて、今まで生きてきて。 良くないこともあっただろうし、良いこともあった。 考えない様なことを考えることが、あるし。行き過ぎていたこともあったかな。 結局良いことの方が多かっただろうし。足を踏み入れたこともある。 だから、時間の後戻りはできないし。 懐かしいが人には見せたくない、恥ずかしい自分がいる。 今でも名残があるか。情けないの恥ずかしいか。 そして、洗礼を受けてからいつかに、クリスチャンであることが腑に落ちて。 頑張ろう、と思えた。自分なりに頑張ってきた。 かっこつけ過ぎていたな、という自分になって。 今、悔しいけれど自分はそういう自分なのだと、受け入れがたいが、そうだ。 さて、でも、いいところもあるし。その中で自分の思いを大切にもするし。 改めないといけないこともあるのだろう。 しょうがないか、と生きていて。その中で学ぶこともある。 それでも、情けないのが恥ずかしく。 誠実さをぶち壊されることがこわい。誠実さにしがみついて生きていた一面もあるから。 という、手書きではなくパソコンでもじもじ、書いて吐きだしているとこういうことになる。ちょっとかっこつけていると思うが、そういう気持ちがあるのだ。精神的なことと、繋がっている腸のおならの音とか悔しいが、でもかっこつけ気味な自分に、自分の持っている世界線に連れ戻してくれるというか。いいものも持っているが、ねこにゃんにゃんなものが、結構自分であるということ。この辺でやめておこう。 写真を撮るのだけれど、いい写真を撮るの難しい。どうやったら、あんな風に撮れるんだろう、とか思う。今は全然吸収していない時期で、ごろごろ、にゃんにゃんしている。にゃんにゃんは変な意味ではない。一人でいるので。 でも、今日は行ったことのない喫茶店にスマホで調べて行ってみて、車で行くと近いくらいの距離で。良かった。自分の好きな雰囲気だし、昔ながらの喫茶店と自分は感じた。コーヒーも昔ながらのコーヒーだと勝手に思って、ホットサンドも頼んじゃった。ホットサンドめちゃくちゃ美味しかった。いいな、たまに行こう。この雰囲気なら時間使って作業をしても良さそうだな、とか、コーヒーはでも2杯飲んじゃいそうだな、と思っていた。コーヒーだけで過ごすにしても。 その後、スマホで15時に雪が

来週がクリスマスか、久しぶりに自宅の花瓶に花を飾ってみるか。いっぱい、掃除した後に。もらった、花は母親にあげた。ごつい何て言うのか、あの植物は今度ノコギリで切って短くしないと。

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  薬がなくなっている。今日、忘れず取りに行かないと。 前向きなことは、あまりせず暫くずーっと、のんびりしている。体重がまたさらに増えている。膝の痛みがなくなったら、運動をしないとな。無印で1冊ノートを買った。前向きなことを書いて行くノートだ。週単位か、月単位でこんなことをする、とか、人のツイートに影響されて。今、えっくすだけれど、ツイートのことなんて言うんだろ。 こののんびりさも、穏やかでいいけれど、やっぱり前向きなことをして行きたい。来年はどういう年になるのか、して行くのか。出来る範囲でのことを、気力を出してやっていきたい。うじうじしている場合ではないな。あとは、何か面白いことを見つけたい。新しいことと言うか。何だろうな、これもノートに書きながら考えてみようか。簡単にできることで。 しないけれど、コーヒー屋めぐりとか。ラジオだったかな、1回だけ行ったことのあるバーの露口が閉店したと聴いた。店主さんが亡くなったからだと。角瓶でのハイボールが有名な店で、雰囲気が面白いなと思った記憶で、映像でも思い出せる。 言わないと分からないのだよな。なぜ、自分の考えていることが分かるのか、顔に出ているのか。それでも、人に自分の気持ちや考えていることを、伝えるには言わないと、分からないのだよな。 ぶよぶよ生きている。しゃっきり、生きるところは生きたい。

痩せることとかあるんだろうか。

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  人は生きていて、人それぞれの場所があり、 その人の物語がある。 私は人の視点になることが、得意ではなく、 私は私の物語を生きている。 人の痛みや、傷ついているだろうとき。 その笑顔を。 人は美しいんだな、と思うことにしている。 それでも、そんなこと。 けたけた笑って、そんな日々。 楽しいこと、面白いこと。 そういうのが、中々、いい。 しみしみしているな、と自分を思う。何か楽しいことが、あったらいいんだけど。楽しいこととは、違うかもしれないけど、駐車場にいる猫に餌をやることはないんだが、手を上げてよく、おー、と挨拶をしていたら、あいつ、安全という感じで、猫によっては車が近付いても逃げないことがある。あいつか、って感じで、後ろ足で首を掻いていたり。首を掻くということは、少しはプレッシャーというかそういうものは、感じているんだろうけど。この前は、車から降りると、ちょっと逃げて壁から顔を出して、にゃー、と鳴いてきた。いい感じの距離感だ。餌はやったらいけないので、あいさつ程度の関係。石手寺の猫はよく通っていた時は、猫によってはまれにだけどやって来て、なでなですることもあったが、冬の寒い中、石造りの灯篭というかあそこに、陽が当たっていて、猫さん幾匹かが、震えるかにそこにかたまっていていて。1匹がやって来た時は、悪いなあ、風の当たらないところで、屋根のついた雨が入らない、寝床を持ってきて、夜の間くらいはストーブをつけてあげたいな、と思って、申し訳ない思いから、一時期石手寺に通うことが少なくなった。なんつー、自分勝手でしょぼい、思いなのだか、とそう思うのだが。しょぼいなー。 何か、クリスマスは色々やることが、あるのかもしれん、と感じだけで勝手に感じていたのだが。全然、そんなことなくて、いつも通りの、こののんびりさをありがたく、過ごさせてもらおうと。あらためて、こののんびりさのありがたさを感じる。作家とか、そういう仕事なら、うえるかむ、だが、怒られたりしながらの仕事は、したくねえ。反感買うだろうが。のんびり漬けになっている、もうやめられん。もちろん、状況によってそれは変わってくる。前向きな良いことがありますように。でも、本当に今年はどうなるのだろう、と思っていた年始が、もう年末だ。にんともかんとも。昔のござる、の言い方というか書き方は、忍者ハットリくんから来ています。

力が入りすぎている、ことが多い。

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  もっと簡単に、もっと力を抜いて、 生きていた。 もっと簡単に、もっと力を抜いて、 物事を見ていた。 状況は変わり、私も変わって、 もうちょっと、何とかならんかな、と願うこともある。 眼が覚めて眠れなくなった。昨日作った、さつま汁を温めすすり、暫くした今、コーヒーを入れて飲んでいる。コーヒーはやっぱ、美味しいやつがいいわな。何か色々をずっとさぼっていて、少しは本も読んではいるけれど、ギターなんかは教会の讃美歌を練習する時以外、触ってなくて、昨日ギターを触ると、弾きたい、と思った。英語も同様。 聖書のイザヤ書が今、教会の聖書教育のテーマというか、暫くイザヤ書を取り扱っているのだが、半分くらいイザヤ書を読んで、これは説明がないと、ちんぷんかんぷんだ、ぽんちんぽこぽこ、ぷいぷいだ、と思った。 ちょっと思ったことで、あるミュージシャンが若い頃、自分の全部を見せる程ばかじゃない、みたいなことを歌っていて、それって、旧約の聖書にも似たことが書かれていることがあって。そのミュージシャンが30代くらいになって、顔が穏やかになったんじゃ、と勝手に自分は思っていて。若い頃って、何かとげとげしたした、場所にいないといけないこともあって、いきっているやつがいたり、きしゃないやつがいたり。大人になってもそんなことはあるか。でも、そのミュージシャンは今いい場所にいるんだろうな、と思った。 お金に余裕があるので、やる気がない期間、いつもよりは外食をした。クックチャムのお弁当や、スーパーの総菜を食べたり。自分で作るのには、何品も作ることはなく、ただ何品かある素敵な食卓にしたいな、と最近特に思っている。後は、ちょうど良いうす味を心がけたいとか。 仕事をしなくなって7年経つ。自分は仕事を始めるのが年齢的に遅く、それまでに少しはバイトもしていたことはあるのだが。なので、今の私の年齢の人くらいには、仕事をしていた期間が短い。福祉の仕事をして、軽薄な自分の性格に、ここでは良い意味での軽薄さが、その福祉の仕事に合っていたところもある。しかし、思い出すとあの状態から、げっそりとは行かずともしていて、親の計らいで専門学校に行かせてもらって、若い元気さについてゆけず。福祉の仕事に就いて、だんだん元気になって行った。仕事をしなくなってから、最初はよく鬱屈していた。人と話す機会が少なく、あほっぽいくだらない話もするこ

こころの呼吸。

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  読みかけの本や、様々な物が、散乱している部屋。 やる気がなくなって、料理もそんなにせず。 そういう時期なのだと思うことにしている。 何かが動きだしそうな、そんな気がして。 でも、自分はやる気を取り戻して、 生活を続ける。 生活を続けることは、しんどいこともあるが、そんなに悪くない。 生きている道理なのだと思う。 ただ、できるなら、前向きな出来事が、 目の前に現れて欲しい。 心が呼吸がしやすくなって、 でも少し、びびっているんだけれど、くらいの。 数えてみよ、沢山のめぐみと、感謝。 力があって、ちょっと調子に乗っちゃうなくらいの時期はあるな、と思った。 一瞬、この今を信じられへんな、と今思ったのだけれど、結構地に足のついた歩みをしていたので、今は今か、と思っている。食事をして、排せつをして、屁をこき、尻を掻き、人間である、人間である。世界では様々な問題が起きていて、まるで身近なことのように、思うこともあるが、自分は自分の生活をしていて。でも、映像とか観ていて、大変だ、と思う。昔、のほほんとあほっぽく生きていて、世界では、世の中では大変なことが沢山あるんだぞ、と言われたことがあって。今の年齢になって漸く(ようやく)、大変だな、と様々な問題を少しは知って感じるようになった。さて、自分はどうなっていくのか。今はやる気をじわじわでいいので、取り戻して、生活を送るのだ。

自分を落ち着けるために、A4 用紙に書き出したこと。観てもらう癖がついている。

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  キリスト教をまだ信仰していることは、まだ神様をその存在を信じていること。 もう一つは時々起こる不思議について、組織、神様、どういうことなのかを知りたい。 文章について。 23歳で文の才能があると言われて、何とか続けてこれたこと。楽しみに書いていたり、いたずらな気持ちになったり、楽しかった。何処かで、矜持、プライドを持っていて。俺は持っている、という思い方をしているのだと思う。ただ、思い上がっては、それが文章に出ることが恐く、恥ずかしいと思う。今から見て、中間くらいの時期に、楽しく書いていた気持ちを大切にしたい。思い入れがとてもある。 ごまかしの気持ち。 思い上がっていた、頭がいい、と思っていたこと。現実では穴が結構あって。昔からだけど、話していると人にいらちさせること。いいところもあるけれど、そんなに頭の回転は早くないし、行けるときもあるけれど、失敗の方が多い。色々経験してもそうだ。アイデアとかいい時もあるけど。文の才能は確かにあると思っているので、それがあるからいいか、と安心の材料になっている。要するに調子に乗っていると思われるのが恐いのだと思う。いいとこは、いい、鈍く良くないところも結構ある。 未来について。 ただただ、今は元気をもらいたくて。でも、その子たちこそ心の栄養をもらわないといけないのだよな、と。何をすれば良いかなんて、あまり考えていない。 仕事があって。前向きなことが沢山あって。 結婚とかまるで想像ができないし。今の妄想では、まかり間違って結婚できたとして、昔、何処かで書いたような気がするが、良かったね、という言葉を心から誰かに言ってもらったら、今はだが、それで十分だ。結婚式とか、うえ、と思ってしまう。 幸せには心からなりたいと願っている。

人それぞれの人生が、本当にあるものだ。

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  美しい気持ちになれることや、 ふと冷静になって、その気持ちが誤っているかもしれない、 恐さ、時々、ひと時の恐怖。 確かに経験として、間違っている時があって。 でも、あんなに美しい。 私は、それなりに秘密があって。 でも、今やそれは秘密ではない。 美しいねっ、て人ごとを思いを持って笑えたら。 ただ、感情が溢れて涙をするのではなく。 美しいんだな、て、 呟いて。 結局、感情が溢れて涙が出ることがあっても、 人間だし。 生きないとなあ、て思える今。 (アルコールを入れて、読み直して上から目線のような気がして。昼にコーヒーを飲んで、思って書いたことの一部。ただ、思って書いたこと。そのまま、書くのは良くないとも思うが、思い切って書くと。間違っている所もあるし、カテゴリーの表現は良くないとも思うが、特権のような気持ちが出て書いたのだと思う。~特殊な状況、生い立ち、経験、自分もそこにカテゴリーされたか、と思った。でも、あんなに美しいのだったら、良いか、と覚悟を決めた。生きる覚悟だ。~その場所に比べると自分はそんな大したこともないが、自分も自分なりに傷ついたり、思うことがあった。自分も命の一つだ。かっこいい、言い方になるが。)(どんどん、恐くなると生い立ちは普通だし。ある時から、そういう風になって行って、結果、普通の人からすると、普通の人って何だよ、とも思うが、普通ではないことがあるな、という人に、それなりにだがなっていた、ということだ。最近、自分を守りたい、とブログでも思う気持ちが強い。それはそれでいいと思うが。) 感情が溢れたら、自分の書くことは大丈夫なんだ、と思っていた時期があった。それは、まず間違いで。よく感情を刺激されて、泣いていたのだけれど、確かにそれは気持ちが良いのだけれど。ちゃんと考えないとな、と経験として思うようになった。平均よりは、すぐに泣いてしまう自分なのだが、気を付けたいのだが、それはそれで仕方がない。よく分かっていないけれど、昔より、何も分っていない昔より、変なところで泣いていることが、時々ある。もっと、しっかりしたい。自分は人間で、だから感じることがあったり、人の気持ちを察しようとも思おうともしたり。甘い育てられ方をしてもいて。でも、それは愛情だったり。いつの間にか姑息な自分になっていて、それを恥じることができる自分にもなれたり。でも、そこがやっぱり

カム、カム、嬉しい気持ち。

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  酩酊に行かずとも、一人でいるなら、自分の思うことを肯定できて。 だから、楽しみにしていて。 でも、ちゃんと考えるよりは、思うことをただ素直に思っている。 ただ、それだけで。 悪いことはそんなに思っていないけれど、 いつまでも、繰り返しているような、 前に進んでいるような、 そんな気もしている。 お味噌汁が飲みたい。松山あげを買い忘れた。 とか、私はそんなくらいの感情を保てていることに、 絶対、思い出があったからだ、と。 いつまでも、その懐かしさや、どこかにまだ消えていない、 自分のそれが消えたら困る。 今はその記憶に助けられ、まだ生きたいし、幸せを感じたい。ほんとに。 今夜はフライパンたこ焼きだ。冷凍していたタコを常温にさらすのが遅くて、まだ解凍できていない。レンジ解凍になりそうだ。暫く、あんまり自炊していなくて、自炊してた方がいいな、と思うな。料理を楽しんでいた頃は、ばくばく食べていて。だから、太ると思っていたのだが、タッパーに入れて日を刻んで食べろよ、と。食べちゃうんだな、自分は。 そういう話題もいいけれど、幸せになりてえ。ただ、経験していることは時に傷つくこともあるけれど、良い経験だと感じている。さっぱり、生きたいけれど自分には多分、無理なんだな。人の幸せの知らせはとても嬉しかった。人って生き物なんだな。小さい子はどんどん成長していく。自分も日々に神様の良い手紙を受けて、幸せじゃねえかって思いたい。今でも、その気持ちで生きていきたい。このトンネルがいつまで続くのかは分からないが、生きていきたいと思っているんだぜ。まったく。

12月が始まっている。寝過ぎませんように。

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  美味しい物を食べたり、 豆を挽いてコーヒーを飲んでいたり。 好きなことをして。 昔は、甘えすぎた昔で、 良い物も持っていたが、 変わって良かったな、と思っている。 随分、そういう年なのだ。 誰でも、心は傷付いて、 そうやって、生きている。 少し、弱いな、と自分はそういうところがあって、 そうやって、自分なりに生きて行くしかねえのだ。 国を動かす人がいて、どういう精神状態でいられるのかな、と思うことがある。動画で観た話とかではやっぱり人は人で、ちょっとした感情や思い付きで国が動くこともあるという話とか、頭が良い人の話はやっぱり頭がいいんだな、と思うこともある。しんどいんだろうなー、と観ていて思うな。自分だったら、すみません、寝坊しました、疲れたので眠らせてください、とかになるなと。アスリートがいるように、健康で鍛えられた精神でいるのかな。よく考えると、トップではないけれど、重要な参謀で、不健康な感じの人もいるのかな。色々な人がいるのが世の中で、人間という意味では基本的なメカニズムは同じで。大人になってからだけれど、どこか共通したところがあるけれど、色々な人がいるのって、面白いなー、と今の状態なら思えるな。その渦中に放り込まれたら、苦しいー、めんどくせー、になるのだけど。指摘されて腹が立ったことは、守られていたということ。しかし、確かに守られていて、その中で自分の物語があった。ちんぷな奴だったな、と思う。謙遜ではなくリアルに。経験って本格的に心に傷がいかないなら、大切だなと今なら思えるな。そんな中、本を読んで、またインターネットを観かけて書いてあったことは、自分を労うのいいな、と最近はそう考えている。コーヒーでもいいし、美味しいジュースを飲む喫茶店によく行って、好きな美しい言葉を見つける、とか。やっぱり、写真集を見る、とか。今思い付くのは結局そういうことになる。1枚目の写真の2本の布が明るすぎるとか思って、写真を撮ることも楽しみであるし。時々、いいのが撮れるし。何より、自分を褒める。よくやっているよ、と。現実の人とのことになると、自分の態度や気持ちの弱い、ちょっと気持ち悪い感じに落ち込むけれど、自分の気持ちが折れない程度の誠実さでなるべくやって来た。よくやっているよ、って自分に言う。今はそういう時期に入っているような気がしている。もし、トンネルを抜けて、何か世界が開