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JETBOOK作戦

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  児童養護施設の子どもたちにあなたの最高の1冊を|JETBOOK作戦 で検索してみて。3000円から支援できます。 若松英輔さんからのTwitterで知りました。今日の午後11時までです。 自分のいいかな、と思った本を選んでみては。支援後、メールが来て良いと思った本を書き込んで送り返すことになります。 自分は本のおかげで知らないことなど、知ることができました。味わいとか、何かをするためのやり方とか考え方とか。小さい頃の読む、絵本も大人になっても感じることがあったり、読んでおいて良かった本です。大切なことも教えてくれるでしょう。 どうでしょう、そんな灯りを子どもたちに渡しておくのも良いかも知れません。 いかがでしょう。

どうしても色々思う。

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  過去を振り返ることで思う。 残念なことに、気は難しくて、 いざ、 という時に気持ちが一面に染まる。 ただ、今は時間があって、 そういうことについて、気付いてはいる。 いつ出るのかな、と思いはするが、一応年齢を積み重ねていて。 写真に切り取った画は、そこだけのことにしておいて、 気付いたら、様々な情景に足の半分染まっていた。 自分には何が必要だろう、と思って、 愛されることを感じるのは適度でいいし、十分に知った。大体すぐに忘れて、 でも、積まれている。 思い出も身体の一部を作ってはいるが、 生きること、感じることだろうか。 結局、愛も希望も思い出もそこに含まれていて、 時々、不安が病的に誘うけれど、 穏やかに、健やかに暮らして、 生きていることを感じたい。 色々あるのだけれど、 いいところもある。 忘れて消えて行く思いもあるけれど、 現象が起こって、なくなり始めて。 何処かにしまっておくのかな、 私の心は。 今日、曳かれた子猫を見捨てていったように、 そういうこだわりは、忘れて行く。 命だから、終わりが来ると思って。 そう思っている。 それまで、自分なりに生きて、 そして、どういう風に、生きて、 健康的な親のコメントをする芸能人を観て、大好きだ。 明るくまず生きたい。 (情景~情報に染まってですね。) (写真に切り取った画~様々な情報ですね。)

夜蛍(よるぼたる)

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  夜、雨が上がって濡れた町は 静かで。 今夜は眠ることができないだろう、と思って 道を歩く。 蛍が光っていて、でも少ないと、思っていると。 目の前を。やはり蛍が飛ぶ様を 表現すると、ふわり、と表わすのがよいだろう。 とても、優しく、ふわり、と目の前を飛んで、 少しずつ、そして去っていく。 はかない命を灯して、 今日、この季節を生きるそのさまを。 おい、蛍。わたしの今夜に明かりを。 今日は好きなだけ起きていていいのだと、 眠れない今日を、そう思うことにしている。 やはりカメラは買いたいです。何かいい写真が撮れることを妄想するとわくわくします。知識は赤ちゃんに産毛が生えた程度ですが。ちょっと表現を優しくしてみました。もっと稚拙な表現をよくしていたと思います。勢いが今はないですね。自分の気持ちにそれなりに正直な丁寧な表現ができたらと。本当に想像もしていなかったですよ。こんな現在があることに。心配していた、ばあちゃんや母さんに何といえばよいのか。あとは馬鹿みたいな生き方はしません、と言って。もしそうならよく我慢してくれたなと。昔、漫画の釣りバカ日誌ではまちゃんのエピソードとして、両親にご挨拶する場面だったかなあ。奥さんの名前は忘れたけれど、~さんを幸せにする自信はありませんが、僕が幸せになる自信はあります、のようなことを言っていた筈で。平社員だが幸せな生活をしていた。さて、私はどうなるのか。今の段階でカメラを買いたい、などと言っているし、ある程度は経済力は欲しい。まだ四次元で生きている感じだが、人としてずっと一人では嫌だ。いい話がきけるな、というのは気持ちが整う。センチメンタルになったら詩を書けばいい。散歩をするときにはカメラを携えたい。リュックにはペンとノートを。水筒にはコーヒーを。本が読みたければ本も。晴れた日には洗濯をして。忘れないように憧れのギターを。英語を話す友達を。失くした思い出には色を付けて。これからの人たちには元気を。これからもし共にする人がいるなら、他人であることに尊重を。また、何げない気遣いを。そして、適度な生活に喜びを。幸せを、呼び込む風を時々窓を開けて、潤いを。色々とにかく幸せを。お願いします。

詩集かな。

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  もう蛍の季節になっていた。時間が遅かったから、あんまりは撮れなかった。一応住宅街で感じが悪いだろうから。書こうと思ったけれど、やる気がなくなってきた。ああ、そうだ。クラウドファンディングで最高の一冊をというの、5月いっぱいだから早く何にするか決めないと。出会った初めての詩集は昔のリルケの詩集だけれど、子どもたちには向いていないかな、と。そんなこともないのかな。安田菜津紀さんの本なかなかいいな、と思って、子どもたちにいいかな、と思ったのと、ルドルフとイッパイアッテナも思い出の本だ。人生に何か感じるのは、安田菜津紀さんの本か。それなら詩集もいいのか。自分にとってのだから、本屋で子どもにもよさそうなリルケの詩集があるとか。星野道夫さんの本は中学生くらいからか。絵本を安田菜津紀さんのも良さそうだ。アンパンマンはあるだろうし。何か、子どものころに本を読んで感じて、大きくなったときに思い出すとか、それが発展するとか。人生の目的のかけらの一つになるとか。とにかく、自分にとっての最高の中の一つということになる。そこだな、早く決めんとな。そんなに思い付かない。まともに本を読み始めたの、25,6歳くらいだからな。

ごちゃごちゃな思いになっているので、きっかけは興奮して眠れなくなってからだ。いつもそういう感じで、そういうものか。

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  眠り過ぎて、詩情があったと思ったら、閉店30分の店でアイスコーヒーを飲んでいて、30分の間に詩を書こうと。そうか、わたしはこうか、と。メニュー表にはしっかり閉店時間が記載されている。遊ぶと決めていた日に、眠って現実を逃避して。言葉にはこんないい加減なことを書いているが、それでも感謝していて。眠って感謝してぬくぬくと。半分が自分のもので、半分が引き出された現象でそう思って、生きているのでそういうことに感謝して。恥をよくかいて、そのときは心臓の動きがはっきりとわかるくらいに、音が聞こえて。もてようとは思っていない、と自分をなだめている。恥をかいても受け入れてくれる環境があるなら。もう、それでいい。いつか、またそれなりにプライドがあったなら、こういうことを思い出して。なさけないへこへこしたのは嫌だが、それで受け入れてくれる環境に感謝して。顔とかよく気にしていて、今でもそういうのを気にするが。ある人がコンシャスに近い発音の英語を投げかけて。わたしはそういうことを気にしていたのだ。母親もそういうことを気にしていたことがあったみたいで、わたしにそうじゃない、と言って。そういうこともそろそろ、小さい頃気にしなかったように。いろいろごつごつしているのに。見かけだけではなく、かっこうがいい人を見ると、今でも少しだけ嫉妬するが。そういうところがあるのだなと自覚をして。なさけないな、と思いながら。命のことは心の内にそっと両手で置いていて。不出来な人間であることをもう認めて。ただ自分で確かめて置いたのだから、それは忘れずにあることを。わたしはそこまでではないな、と。思っているが、少しは知ったことに感謝して。生き方も少しは変わった。向こう側の世界があることを感じて、もう信じている。どういうことか、その時までは知ることもないのだろう。じゃあ、こっちの世界は。のんびりやって行こう。のんびり行おう。時々、変わらず嘆いて。すっきりして。ああ、良かったな、とそういう時が来たらいいね、とあの人が言ったように。そういうことがあるように、そうであるように。食べること以外にも明日、また遊ぶ予定だ。思い付かないが。 ヤマダ電機に行ってみて、SONYのカメラは基本的な操作は同じようだと確認。本気で買いたい、と思ったら買おう。色々まわってみよう。

勢いがでれば、明日は懐石料理を食べる。多分、食べないだろうが。懐石料理ってお昼だったら、どこがやっているのか。さすがに、一人で食べるのも。

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  雨が強い日は、何かしようとおもっても、嫌んなって。もういい、と思って。 いいことをするのだ。これでええのだ、と思っている。 よくやったぜ、と自分をほめることにして。つまり、だから、そうなので、 アイビーで夕食をとるのだ。 昼食はモスバーガーで鯛とレモンが、おれたちがついているぜ、と心強く。おいしいねえ、とこれもほめて。ほんとうだよ、とあっさりした両名にカツっと歯をあてた。 今日はそういう日だ。 アイビーに着いて、詩を書くのだが、報告になっていて。 では気持ちは、と自分に問うと、 気持ちがいいと返ってくる。 人が少なくて、ジャズが流れて、食器の音がここちよく時々鳴っていて。 今日は窓から見える景色も海の景色も、雨に濡れていて、 せわしく、こころがあちこちに働いていたのが、凪いでいる。 焦らないでまた、生活をして、ほどほどにはして、でも、 とても気持ちがいい、とわたしが言っている。 強い雨は窓から、海がそれでも静かにいて。 わたしもだ。今、このときは。 カレーにするか、ピッツアにするか楽しみだ。 そして、カレーを食べて。 それは確信に近いかたちで、記憶のどこかに、 どこか真ん中あたりに、本当に優しい人なのだと そう思っている。私にはそういう温度をまだ感じて。 本当にもそうだと。動く勇気はないのだが、そう思って暫く生きて美味しいもの食べて、 少しは運動をして、そう思って生活をしようと思っている。生活を送るのだ。 (明日もほどほどに遊びます。何をするかは明日の気分次第で。気持ちとかなんか、ようわからんなっています。心の誠実なところでは思い出があるのです。そして、やっぱり本当に優しい人なのです。本当の魅力がある優しいを持っている人なのです。それは心に灯っている温度としてあるのです。本当です。よ。) 出会ったのかなあ。 でも、そういうこと以外、よくは知らない。 無責任で相手のことを考えていない。勇気はもうない。そうやって、思ったりするだけの現在。 明日、遊ぶぞ!

生活のバランスが変化。この変化をどう良い変化にしていくか。

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  この猫さん、以前ねこのかいわで塀の上にいたのをぱしゃぱしゃと何枚かカメラで撮っていた猫さんで、その後しばらく他を撮っていたのだが。帰りに何となく出口周辺を撮っていると、すっと、出てきて、なんか私を意識している気がしたのだな。注目されていたのが、気になって、興味があって出てきたのだろうか、と私としては思っている。 ぐうたらな生活ではいけない、と思って、ちゃんと祈りの時間を持って、暫く祈ってから、ここ何週間はやることをやれていたのだが。また、ぐうたらになりそうになっている。まだ、なってはいないが。明日、また暫く祈りの時間を持って、やるべきことができますように、積み重ねて積んで、身体に滲み込んでいきますようになど、祈ろうと思っている。続けることがまず目標でさらに実際に積んでいかないといけないな。ぼっとしていたら、時間はすぎてゆく。そうやって、聞いていたら、ストイックなやつだな、と思うかもだが。時間があって、のんびりして、仕事をしていたら、半ドンくらいの稼働時間だ。そろそろ、釣りも行きたいし、遊びも取り入れる。一人の遊びだが。一人に慣れて、これくらいが、ちょうど良いになり始めているが、人慣れもしないと、と思うが孤独を感じないときのこの一人に時間は心地よいになっている。インターネット、と教会があるし、人と接する時間はあって、人とのことを感触を忘れはしていない。SNSはちょっと中毒みたいでいかんな、と思いもするが。Twitterをぐるぐる、誰か新しいこと書いていないか、と探している。何を取り入れていけば、それの代わりになるか、時々ちょっとだけ考える。 自分だけのために、思っていることを実際に書いて、何を本当に思っているかを確認してみようと思うが、いつにか、ノートにそれを書いてみたが、そんなに悪いことは出てこなかった。本当の思いになったら、結構私は誠実なこと考えているのだな、と書いて思った。女性関係のことではなくて。ただ、ノートさえも露わにされているのだか、どうだかなので、あんまりしないな。ちょっとな、とか普段は思っていたりするのだが。 そうだ、コーヒー豆のハラールの表現が正確ではなかったので、今どうだったかなと味を思い出すと、口当たりのちょうど良く何かある感じと、すっきりさの味と香りかな。物書きなのでいつかそのつもりで、よく味わってレポートしてみようか。いや、そこまでしない

かそうくうかん。

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あんた。 ああ、きょうはいきなりねこのかいわなのですね。 そうよ。あんた、ところで。かそうくうかんについてかんがえてるね。 ああ、ねこのかいわで、かそうくうかん。そうです。 きょうはえれがんとにいこうとおもって、ねこうのおもい、であなたのかそうくかんをたいけんしたのよ。 ああ、わたしのかそうくうかん。 おまつりと、ふじこふじお。 そうです。わたしのそのぶぶんのふぃるたーをとおしたさきに、そのかそうくうかんがあるのです。 きらわれるとかきにせず、いってごらん。ねこのたいけんとしてはけっこうすきよ。にんげんはふくざつだけれど。 そうですか。ではいいます。ばーちゃるなようで、むこうがわにげんじつがあるせかいで。わたしがそのもんをひらけると。わたしのふぃるたーをとおってくるひとたちがいます。そのひとたちがいくら、かっこうよくてもうつくしくてもちてきでもせいじつだったり、えれがんとで、さいのうがあっても、ほかほか。わたしのふぃるたーをとおしてわたしのかそうくうかんのばに、いきついたひとたちは、わたしがむかしみていた、しょうわのふじこふじお、とかのあにめの。えんでぃんぐでながれていた、なんとか、おんどで、あっそ~れ~、とかのせかいをたいけんしないといけません。わたしののうのいちぶはそれでつくられているからです。みんないっしょにおどらないといけないのです。わたしのかそうくうかんが、げんじつにおよぶかは、わかりません。そういうこともあるかもしれません。むいしきのせかいのはなしのようなかんかくでいうと。かんけいなくてもおよんでしまうような。かそうくうかんでおどっているようなせかいがげんじつにおよんでしまう。ともかく、そのかそううくうかんでおどっているひとたちは、げんじつではここのさいのうをもって、ほんとうはえれがんとにくらしています。しかし、わたしののうないでは、かそうくうかんでは、あ、そ~れ~といっかいはおどらないといけないのです。そうでないと、わたしののうないのことなので、それぞれがさいのうをはっきできないのです。ゆうきあるひとたちだとおもっています。わたしのかそうくうかんでは。 ああ。あのせかいはそういうせかいだったのね。 はい。 ねこはみかけるやつだいたいともだちだけど。にんげんはちょっとかかわりたくないな~。とおもうか、きらうか、ばかにするか、ほんきでおこるかになるね。 こ

あさりの味噌汁。あさりとってきた。もっといる場所ないか。

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  取れ高が少ないので、ブログに載せないでおこう、と思ったのだが。砂出しの時間をおいてさっき、あさりの味噌汁にして飲んでテンションが上がったので載せる。かなり小さいのしか取れないし、なかなかいなかったのでしんどさがそのときは勝っていたのだが。火を入れて貝が開いたときにまず、テンションが上がって、写真を撮り。味噌を溶いて飲んだときに、あさりの味噌汁だっと思って、身を食べたら美味しくて、がっとテンションが上がった。これも、土井善晴の和食のアプリを参考にして、水からかなりの弱火でじっくり火を入れてあさりを煮る。その方が、出汁が出る? だったかな。おいしかった。ちょうど、お椀に一杯分。あさりの味が上品だったんだ。

カフェインレスブレンド

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  ついに、以前よく行っていたコーヒー屋で豆を買った。Twitterで観たカフェインレスのコーヒーいいなあ、と思ってネットでこの店の豆の欄を観ていたらカフェインレスブレンドの銘柄が。おお、これは行くしかない、ということで現場でまごつかないように、欲しい豆をスマホで観ながら事前に決めてから店に。ホームページでは、あれ高いな、と思っていたが豆売りは200gからなのでその値段だったのだ。100gでの値段はよくある値段だった。今はハラールの2杯目を飲んでいる。私は正直に大袈裟な所があるが、身がもだえる美味しさだ。このアロマ効果というか、豊かさ。ハラールはライトタイプの欄に紹介されていて、この豊かさ。しかも、量を多めにでも飲んで、もういい、とならない。ええわこれは。 共にした甘いもの。これもいい。近くのコーヒー屋とどっちも気分で通ってみよう。インスタントコーヒーまだ沢山あるぞ。豆はときどきにして、思うように楽しむか。 気になるのは、飛び散って嫌な思いというか、不快な思いをしていないだろうか。ということ。私がよくやることだ。自分のうちにあることを吐き出すことを優先して、良い人、優しい人を傷つけたり、無神経で不快にさせたりする。そろそろ、そういうことも事前に自覚してやめにできないかと思う。あの子や、あの人や、あの女の子や、いたな。少しは成長して大人にはなったのだけれど。さて、前を向いて夜はカフェインレスブレンドを飲むのだ。ハラールはまじで美味しい。

シンボルについて。

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  河合隼雄さんの無意識の構造という本に、シンボルの話がある。有名な仙厓禅師という老師が心を表した丸、つまり描いた円相。人間の心の完結性、全体性を示すものということもできる、とあり。これを心のシンボルとすることができるが、それによって心の意味を完全に言語的に把握しえたと思うとき、それはシンボルでなくなっている、と。ユング的にはただの記号になる。 また、創造過程に伴って、新しいエネルギーが自我にもたらされるが、それの運び手となるのはシンボルである。人間が文化的な目的のために、新たな心的エネルギーを使用しようとするとき、そこには適切なシンボル形成が行わなければならない。 人間の集団に適用して考えてみると、集団の中で創造的な能力のある個人が、なんらかのシンボルを見出すと、集団の成員はそのシンボルによって新たなエネルギーを湧き立たせることになる。 初期のキリスト教における十字架のシンボルが、どれほど大量の心的エネルギーを民衆の中に動かしえたかは誰しも知るとおり、と。 その反面、戦争中の日の丸が、どれほど多くの民衆のエネルギーを、無意味なことに消費させるに役立ったかを、われわれは体験を通じて知っている、とも。 シンボルによって無闇に動かされないためには、われわれはその意味を意識的に把握する必要がある。 ところが、シンボルの意味が言語化され、自我によって把握されると、それは活力を失い、もはやシンボルではなくなってしまう、と。 このシンボルの話を思い出したのは、最近話を聞いて、自分が違う考え方、とくに神様に近い概念について、違和感を感じ、そのままどこかで攻撃的な気持ちに心が動いて行くのを感じて、はっと、我に返るとまで言ったら大げさかもしれないが、かなり危険な自分の今持っているもののことを自覚した。大げさすぎる言い方をしたら、糾弾するような感じのもの。これはいけない、と思った。仏教とかそういうことも勉強してみようかな、と今のところ面倒なのでしないが思った。キリスト教にありがちな、と言ったら同胞者から攻撃されるかもと思うが、歴史的とか感じたことからとか、その側面を思う。キリスト教には確かに、それを感じ得ればそういうエネルギーがあるのだと思う。聖書は神様ももちろんだが、人間の匂いがとてもする。ある人はクリスチャンの問題を人間です、と言っていた。 昔、ブログで書いたがガンジーはあなた方の

幸せについて。

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  遠くで起きている世界。それをその国のことを。人が、裏切ってはいけない人と言っていた。 その肉声を私は聞いていた。 大切な世界、その命。 私も聞いた。 そんな人がいたことを。 卑怯な私を、 変えてくれる声だった。 命を。目を覚まし。 私の内にある、本当は。 血の流れる中で、どこか保つ。 感じる。 人がいることを。 何故だか、私は今、とても幸せだ。

母の日の花

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  明日は母の日だ。と思っていて、ようし。と思っていたのは、通い始めているお花屋さんの花で、母の墓に花を飾る(飾ると言っていいのかな。供える。)ことをしてみることだ。たらればさんが昔のツイートでお花屋で花を買ってお母さんのお墓に供えた、と書いていたので私もそうしてみたかった。お花屋の花で。。今回、使用する先は伝えなかったのだが、こういう素敵な包装をしてくれた。リボンのピンクがかった色が落ち着いて綺麗で好き。この包装は明日、母の日を念頭に入れてくれたのかもしれない。頻回に行き始めているお花屋さんだが、地味に本当に時々、行くようにしたい。時々の楽しみに。掃除をがっちりしたとき、するときに。その方が嬉しい気持ちもじんわりと味わえるだろう。そういえば、何の花か名前を聞いておくのを忘れた。しきみはスーパーで買ったな。 今日もApeに行き、作業をしたが、母の墓参りもしたあと、ちょっと疲れたな。作業も続ける事が目標というか、自分のためなのである程度、手を抜くところは抜いた方がいいだろう。いつからかと今年の冬までの、ぐうたらさから考えるとそりゃ疲れるわな、と思っている。朝起きて出来る時間があるので、これもこれも、と詰め込み始めている。スローライフではあるが、抜く時は手を抜いて、やるべきことを続けられるようにしたい。 漢字の読み方や使い方も、平均より少し下、くらいなので。ちょうど実家に、漢字の使い方ものしり辞典、という本があって父親に声を掛けてから、それを借りている。時々寝っ転がりながら、読んで行こうと思っている。 耐久力、というのはまだ持っていないな。作業はだいたい30分ずつを、旧約聖書物語、取材・執筆・推敲、山田ズーニーさんの本、となりのトットちゃんの英文読解(新たに加えた。表現というか、それが難しい。英語の勉強を始めた時に少し、していたが頓挫していた。)、日経、の順のパターンになり始めているが、何しろ嫌にならないようにすることだ。できるんだから、という焦りみたいなものが伴っていて、詰め込んでいる。今のところ嫌ではないが、抜くところは抜いて行きたい。何もしなくなっても暫くしたら、また開始ができるようにと願っている。この30分ずつの作業。昔、学生時代にそういう風にサイクルにして勉強していくと、嫌にならずにいいんだ、と先生が言っていた気がする。茂木健一郎さんもどこかの動画で似たことを

お花。

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  また、お花屋で切り花を買った。小さいいくつかの花がアストランティア、一つの大きめの花がテナチュールという薔薇の品種の亜種ということらしい。ようし、掃除するぞう、と思っていたら、どんどん時間が経って思ったより掃除できなかった。少しはしたが、花を買ったときは、がっちり掃除すると思っているので明日も続きをしよう。今日は二度寝しそうになったが、朝起きたな。最近、暫くやる気があってApeに行かないとしないのだが、色々と作業をしている。お昼はSioの本のレシピのカルボナーラを作った。あっ、カルボナーラの味だ、と思った。その上等版。青の洞窟も結構やるなー、と思った。もちろん、Sioのカルボナーラの方が美味しい。夕食は昼をしっかり食べたので、控えめにしようか。まだ、20時50分くらいの段階で食べていない。小松菜と豆腐の味噌汁とセロリのチーズフライを予定している。足りなかったら、プラスでソーセージだな。しかし、なんやかんやしていると時間はすぐに経って行く。朝はやっぱり起きた方がいいな。 100円ショップの熱いもの置いてもいいやつが、ちょっときちゃないか。 以前の芍薬は花弁が幾つか落ちても、頑張っている。今回買うのをもう少し我慢しておけばよかったかな。しかしながら、写真で見るより花瓶の上がにぎやかになって、綺麗なのだ。 お花屋さんが今回、お花の栄養になる小さな袋を付けてくれて、要するに砂糖でいいよ、と教えてくれた。切り花の栄養になって、長持ちするそうだ。Twitterの何処かで観たのは、東南アジアのどこかでは味の素を水で薄めて鉢の栄養にしている、とあった。スクショをしておけばよかったと思っている。 さてと、夕飯を食べるのだ。ぜ。

5月。

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  晴れた日に、光を。五月の光を浴びると、 心もそのように。 眩しく、顔をあげる。 空を見て、青い。その空が、 写実に、心の内に、清々しく渡って行く。 そういったように、その休日を過ごしているのだ。 晴れ渡っているので、なかなか、気持ちの良いなのだな。 ウォーキングをした。ジュンク堂の近くのオーガニックの店で、リンゴ酢とバルサミコ酢、塩を買った。ちょっとわくわくしている。リンゴ酢は炭酸割にするとマイルドな味わいだったな。バルサミコ酢も有効的な使い方をしてみたい(つまり、美味しく利用したい。調理に使いたい。)この身体の快適さは何だろうか。リンゴ酢のおかげか、それとも、飲みを週2回に控えたからか。春に調子が悪くなって、あれが毒出しになって、何かが良くなったのか。朝、起きて、夜ちゃんと寝られている。何処まで、この感じを続けられるか。夜は興奮、が入ったら寝られなくなるだろうな。 古賀史健さんの「取材・執筆・推敲」はゆっくり読んでいる。ちゃんと読みたいから、ゆっくりだ。本とかテキストって、メインの文章読んでいて、その本、テキストについての考察とか、関わる本を読むと時々、違う視点や、あーそういうことかー、と理解が深まることがある。気付いたり。今日はジュンク堂で山田ズーニーさんの本を買った。文章を教えることに尽力してきた経歴の持ち主だ。 私はそこまで、文章を書くことについて伝えることを、考えることをしたことがない。妄想があって、いざという時に、人に文章を書くことをちゃんと適切に、また面白く伝えることができたなら、と最近思っている。大々的にではなくて、いざという時に。 そう思って、まずは上記2冊を読んでノートに気になったことや、自分が思ったことなど、を書いて、書くことを伝えることを適切にできるようになったらなー、と思っている。もちろん、満足が行くくらい、それらから吸収したら、他の気になった本があれば、読んで、吸収して。自分のものにしてゆくのだ。そして、伝える。ができたら。

英語とギター。

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  she sheds last tear  thought about. 最後の涙を落して、  思うのだ。  with the passage of the time  recognizable. 時が経つにつれて、       分かること。  he doesn't show where he was the most hurt.  彼は一番傷ついた場所は見せないのだ。 he is beautiful. 彼は美しい。 英語は電子辞書のキクタンという単語集とリトルチャロ、録画した最初の方のおもてなしの基礎英語で殆どを学んでいる。上記の詩は最後の方は結局Googleに頼った。聴くのはやっぱり繰り返して聴く方がいい。難しい単語はもちろん、細かく分かれた品詞が出てくると聴き取りづらい。Googleカレンダーを見直してみると、そうとうやっていないのが確認できる。だが、3年くらいは英語は続けているので、のらり、と前の光が見えた今だ。つまり、少し力が勉強する前よりはついていることを実感している。本当にまだまだだが。ただ、ここまで来るとやめるのは、かなりもったいない。相変わらず30分の勉強時間だが、このまま行くつもりだ。Twitterとか観て出てくる分からない単語を調べたりも少しはしている。気付いたのだが、スマホは出てくる単語をぽんぽんとやると(長押しですね)、下に日本語の意味が出てくる機能がある。はー、使いこなしていねえ、とまだ他に便利なことがあるだろうと思って思っている。 ギターは二重作dr. が言っていた、何骨って言っていたかなあ、手の平の中の骨についてのことを言っていて、確かになっと、思ったので練習の前は、ストレッチとその骨を無理のないくらいに、ほぐして動かしている。あとはこれもdr. が言っていた正確には、その動きの後に一旦おいてそのイメージをする、と言っていた気がするが、それも絶対にした方がいいのだが。とにかくイメージをしながら、練習をしている。6本ある弦のどこを今弾いている、とか、まだ、頭に入ってこないのだが、決まった最初の運指の練習なら押さえている場所を頭でイメージして動いて行く。そのイメージは点で。点が動いて行く。弦の場所は線で。こんなこと言っていると、できるのか、と思われると、まだまだなのだが。それでも、力が付いてきている。英語に比べて、ちゃんと練習を