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生活の詩第三 生活をとりもどすために。料理篇

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  タイムを効かせすぎた、と思ったソースでも、 時間が経てば落ち着くようだ。 もじもじしている今の私は、心の中のわたしは納得がいかないようで、でも、 時間が経ったので、考え方にも納得がいく。のだろうか。 世の中の人には、好きにやって子どものように、 と楽しくやっている。とある世界もあるが、 それも結局、香辛料は馴染んで落ち着いている。とそうだろうと思う。 例外の例外はあるかもと、思ってみたが、 なるべく関わりたくない。 カレーの基本のスパイスにイメージして、思うスパイスを足してみると、 悪くもないことに最近気付いた。 基本があっても、カレーの中には混とんとした世界が広がっている、のだろう。 今の私は人生の混沌に潜ることを嫌う。 別に完成されたカレー粉はいくつかあるから、 それを利用して、利用するけれど、 ときどき、イメージするくらいはその味わいは忘れないでおこうと、 カルダモンがさわやかだから、パウダーをささっと暑いうちは入れてみよう、 と思っている。 適当な詩ですね。深く考えることのない詩。時々、15分の掃除をなるべくする、と心に思っていたら、料理もまたちゃんとするように今の所なっている。掃除は皿洗いと洗濯以外で15分、と決めている。技術のいる料理は面倒だし、出汁巻き卵も未だに練習不足で綺麗には焼けない。オムレツの方が作りやすいな。 昨日はカレーで、今日は冷蔵庫にあるラザニアのソースを使ってラザニアを焼いた。中々便利だな、と思った。作り置きしていれば、時間をかけないでもいいなと。買ってあるラザニアの皮(麺)は茹でないタイプのもので、20分ミルフィーユ状にソースを重ねた間に皮も挟んで水分を馴染ませるわけだが、冷蔵庫で固まり気味なソースなので皮をさっと水にくぐらせて、40分以上常温で置きましたね。焼いた後はそれでも端の方は皮がぱりっとした所もありました。それも美味しかったと思っていますが。 生活をする自分のために詩を書いて気持ちに決着というか確認を落とし込んでいます。見て貰っていることも意識してはいます。さすがに。詩は自由、ということでいいですね。

生活の詩第二 生活をとりもどすために。

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  午前6時40分目が覚める。起きれそうな目の覚め方だが、 これからやることも大したことがない、と思うと、 目を閉じて眠りに入る。 そうやって、また目を覚まして 今夜は変わらず眠るのに苦労する、と思うが、 最近、夜は眠られなくても、いらいらしない。 心を騒がすことなく、陽が上る前に眠っている。 別に眠られなかったら、起きていればいい、と昔、父親が言っていた。 今はその通りで、眠らないリスクも特にない。 話を創作する心の燃料もなく、 ただ、つらつらと書ける生活の詩を書く。これは詩なのだろうか。 15分の掃除をする。汗がたらりと垂れる。 眠る時に下に敷いているシーツを コロコロ粘着テープで掃除する。 見えていなかったのかな、髪の毛や皮膚の粉が何度も取れる。 永遠だろうか、と思って、途中でやめる。 明日洗濯機にまかせる。今日はまた眠るから。 多方面の視点があれば、生活に見えてくることもあるだろうが、 思い付きと一緒で、思い立って生活のことを始める。 色んなことが生活で見つかったら。 読もうとする本が溜まる。焦ってはいない。 暫くずっとそんなことがだいたいで、 もじもじと前には進んでいるからだ。 鱧は金ぷら、というアプリにある揚げ物で食べることにした。卵黄、水、小麦粉を使った衣で揚げる。スーパーの生産者コーナーでオクラとアスパラも買ったので、それも一部揚げようと思っている。15分だけ掃除しても、生活を送っている、という気持ちになって心地が良い。

日々の詩。生活をとりもどすために。

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  17時15分また、外の休憩所で詩を書くことにする。 風がよく吹いている。 横になると、ぐっすり眠っていて、でも、 満足した睡眠で、頭と身体がそう言っている。 今年のお盆は夢を見なかった。 風が気持ちいい。 夏の終わりに間に合った。そう思っている。 今年の夏は閉じこもっていることが多かったから。終わりだけでもこの一時感じて。 蝉の声を聞くと、記憶が安心を語らう。 15分だけ家の掃除をした。 少し、ましに見える。 通り行く人の足音には、犬の息遣いがだいたい、伴っている。 優しくその息遣いを感じることにしている。だから、足音も優しいと思っている。 あとは皿洗いをして、スーパーで買い物をして。 最近は炒め物が多い。簡単で楽だから。時に肉を焼いているな。 また、そのうち。 実家のモロヘイヤがある間に、 モロヘイヤの餃子を作ってみたい。蒸す餃子。 上を見上げると、空が薄く青く。 そのうち秋になって、また寂しい、と感じるんだろうな・ カメラにどうしても私の皮膚の粉のあとが残るようだ。大分ましにはなっているのだけれどな。 大切な所を抑えきれない。大切な時、大切なことなのだが。慣れないことだ。 今日の夕飯は作り方がだいたい頭に入っているきゅうりと豚バラ肉の黒酢炒めだ。そんな中、スーパーで地物の鱧(はも、ね)の身が40%off。318円からの値下げ。2パック買ってしまった。もう身だけで、骨切りをしていて明日でも大丈夫かなあ、と思っている。 湯引きか、小麦粉を付けてバターで焼いてしまうか。湯引きの方がいいだろうな。まだ、ある梅干しをほぐして、付けて食べるか。 日々がもったいない暮らし方をしているので、日々の詩を書いてみることにした。日々を確かにするために。好きな時に書いて、コメントはしない時もある、と思うが、いらんコメントをしてしまいそうだな。 久々にうずらの卵フライをスーパーで買って食べた。暮らしが変わって4年になろうとしている。苦しくなったりもするが、仕事をしていた時の苦しさに比べたら、こっちの方がいい。

今も昔も繋がって、でもやり直せて良かった。知らなくてよかった。

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  流れる小川の水は透明で、誰も見ていないし、何も言わないなら、 ざぶざぶと入って横になって、浸かりたい、と思った。 海の水に浸かって、身体を焼くと、 皮膚の病は治ることが多いことを、看護師が言っていた。 昔、誰かからも聞いた話だった。 外の休憩所で、今、こうやって何かを書いている。 17時15分から風が少しずつ吹き始めている。 書いているとさらに風が吹く。 つくつくぼうしが鳴いて、昔子どもの頃、捕まえると嬉しい蝉だった。 秋を準備している声。 時々、夕方にシャワーを浴びるために浴室の、 窓を閉めると、 仕事に行っていたことを思い出す。優しい人たちだった。 大切なことを忘れていないだろうか。大丈夫だろうか。 自分に確認を促すと、 大丈夫だろう。もともと、そんなに綺麗には生きていなかった。 石がころころと河に流されて、削れて。 少しは思うには、それも経験している。 今、社会の一組織には属していない、と思っている。 だから、綺麗にそう思える。 17時30分。 風がさらに吹く。 気付かないだけだろうか、蚊がいることも感じない。 10分前に通ったあの模様の犬かわいい。時々、見かける。 今年の夏はさらに堕落の夏だった。まだ夏だが、反省している。最近、妙に心がせわしい。何かを書いて、反応が欲しいとか。一応、男は昔よりは保っている。あるラインを越えたら終わらせてもいいから、消えない傷を付けようじゃないか、とか。終わらせてもいい論がある。実際はどうなるか分からない。出たとこ勝負だ。要するにストレスがその部分で溜まっている。しかし、妄想止まりな所があって、思ったより手が震えている、とかがある。そこを越えたい、とか思っている。すべて、妄想だ。一応、私も男である、と言いたい。 一時的に心が燃え上がるのもいい。しかし、私はしょせん友達の心さえもだから、女性の心など分からない、と思っている。いつまでも、昔のことをねちねちと思い出し。まあ、それは拍車がかかったからだからだが。それまではそれを(昔の友達のこと)良い思い出として、昇華していた。少しだけ私も人間が変化している。じゃあ、どうすればいいのだろう、と考える。普通ならもう終わっている話だ。どんな人か少しは知っている。でも、よくは知らないのだ。でも、気付いて良かった人だと思っている。少しは知っているの中にそれが入っている。書けば書くほどどつぼ

反応を見ることを癖にしないように。実際の生活で楽しみを見付ける。

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 詩を書こうと思った。でも、そんな気分にもならない。でも、 いつの間にか詩を書くようになっていた。 最初は小説家志望。 詩を褒められるようになった。そうかー。と自分に思うようにしていて、 本当はとても嬉しい。こうやって、反応を見る、という癖がついた。 でも、素通りされるのも嬉しい。なんでもない日々を感じて、 よく味わった経験のもので、それもなかなかいい。素通りされて、 日々を感じるのも詩人ぽい。実際、すぐに思い上がる人間だから。 日々を、生活を、送ることは。人と話すことは。 幸せなことだ。日々が、生活が、続いて。元気になれたら、半歩でもいいから足を出して、 上を見よう。 反応を今してほしくて書く訳ではないですが、反応を見ている時に、ああ、そうだよな、あいつそういうところ、クールだろうからなあ、と勝手に分かったように思って。そーしたところに、反応が現れた時は、うおー、となりましたね。こういうことをすぐに書く私も私ですが。 俺には分からない世界だな、と言われたことがあるのですよね。皆の目が変わった、と思った時に。まただ、と座り込んで言った時に。 今は経験で分かってくれる人は、分かってくれる、と結局それは自分が変わったからなのだけれど、そう思うことが多いかな。自分の思い一方通行ではいけないけれど。そう思ってくれる人はある程度年齢を経ているかもな、と今書きながら思う。実際の私は器用な様でそうでもないから、やってしまった、と落ち込むことも多々なのだが、リカバリーのチャンスもくれるのだよな。 今の時点で思うには人もそんなに悪くないか、と思う。憎しみの感情がすぐに出る私でも。 何しろ、出会いだなあ、と振り返ると思うな。いい人に出会ってきたのだな。人間だから色々あっても優しさはありがてえな。

何でもない日々。でも、何でもなくない。みんなしんどくても頑張っている。ちょっといいこちゃんな言い方だが。

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この頃、米を沢山食べてしまっている。沢山食べた初日は食べ終わってから、気分が悪くなった。普段食べている米の量を明らかに越えていたからだろうか。次の日お昼に吉野家で久しぶりに食べたのだが、牛だくのカレーで、カレーの大盛と書いているのを頭の中でルーが大盛なんだ、と解釈して大盛りを頼んだ。頼んだ後気付いて、ああそうか、牛が大盛りでなくて、カレー、つまりご飯ごと大盛なんだ、と気付いた。もったいないから全部食べた。また、気分悪くなるかな、と思ったがならなかった。その日からお腹が空きやすくなっている。今、普段の気持ちになってきて、食べるのを少し抑え気味にできるようになってきているが、気を付けよう。体重は増えて、それからはまだ体重計に乗っていない。外食もほどほどに控えよう。昼は時間の短縮にもなって、弁当とか外食が楽だけど。お金の使い方もちゃんと気にして。しかし、コメダ珈琲をまた利用するようになってしまって、あー行くようになったかー、と父親に言われた。Apeもコーヒーだけの利用でもいいようなので、使ってみようかな、と思っているが、長居するのが申し訳ない感じがする。まあ、私の利用時間はだいたい2時間くらいで、最近はもっと短い。 私はアスリートのような人たちとは違って、本を読むのも遅いし、量も読めない。しんどくなる。それができる人たちはやはり勉強をする時期に鍛えてきた人たちなのだと思っている。もちろんその後も鍛えているのだろうけれど。許容量が訓練により、大きいのだろうと。勉強だけでそれを鍛えるのではないかもとも思うが。一度その容量の大きさを得ると簡単にはそれを失うことはないのだろうな、と思っている。妄想だが。 私は謙虚でなければいけないだろう。みんないいな、ずるいな、とまで思う強化をされた訳だ。だからという償いではなく本当に、こんなことができるかもしれない、と子供に可能性だって持ってもらいたいという思いがある。現実的な想像をすると、うーん、それどころじゃない子供が沢山でこっちも傷付いたり、とか上手く全体を上げて行くのが難しいかー。と今、部屋が汚い気持ち的に低空飛行気味な気持ちでいると、思ってしまうし、それを想像すると、そうかー、とふーっと思ってしまう。しかし、元気な自分を思い出して考えると何しろ、面白いのだ、責任はあるけれど、変化を遂げて行く手助けができることを思うと。一番は心を救うこ

忘れものの詩

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 子供の頃、私はタミヤのラジコンを買ってもらえなくて、だだを捏ねている。 誠実についてそれを持っていたと、誰かが言っている。 でもね、と誠実さはあとから学ぶものでもあるのだよ、と、 みんな人差し指を、ちっちっちっと振る。 考え込むようなものでもない、と。 きみは良い人達に出会ってきたから、恐くてすぐにその関係を断とうとするけれど、 恐いのはよく分かる。 そんな良い人達に嫌われるのは恐い。 関係をやめるととても楽だ。 喫茶店で一人コーヒーを飲んで涼むのもいいだろう。 でも、少しだけ感じていることはないだろうか。 もし、その人が優しくて、きみが口にした気持ちを受け入れてくれた時、 言いようもない感覚が心のどこかに存在して、 それをきみは認めていることを。 みんな言う。 きみも見たり聞いたりした話。 大人になるにつれて、人は傷つけあっていること。 きみもそう生きていた。 でも、決して忘れてはいけない。優しさを忘れてはいけない。 そんな時の流れ、そんな瞬間がある。 きみはもうやっと分かっているね。 そんな人を傷付けたこと。 しかも、その人は女性だということ。 きみにしてはめったにない経験だ。 情熱はいつの間にか。心に備わっていて、それを蓄えて。 何が自分をそう変えたのか。変わって行く。 今や昔、見かけたり、見ている人たちの様に。 一人では多分無理だ。一人で歩いて行くのはもう多分無理だ。 変化が大きくて、無理だから、 その大きな人生の変化を共に歩む人を、 一度傷付けたその人を、 迎えて、静かに笑ってもらえるように、 いつまでもそうできたら、と。そうできたらいいのに、と思っている。

感謝の詩

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  いつか、どんな場所でも。 会えたらいいですね、と言った人がいて、 私はそれを伝えてくれた、 畑や野の花に、感謝をしている、 蜜蜂は蜜を運び、 そして、花は受粉を促す。 ありがとう、と私の父親は言って、 私に季節に成った、野菜を時々くれる。 畑の野菜は唄をうたうのだけれど、 私は恥ずかしくなって、適当に口に入れることにしている。 ありがとう、と感謝だけはして。

ルカの福音書 1章から11章

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  イエス様が登場する福音書は文献とか牧師として訓練されていないと、ちゃんとは伝えられないだろうと思っている。自分なりに。 御使いガブリエルにより、受胎告知を受けるマリヤ。聖霊があなたの上に臨む、と。 処女であるマリヤは私はまだ男の人を知りません、と言うが、神にとって不可能なことは一つもありません、とガブリエルに言われ受け入れる。 何時だったか、昔に観たテレビで卵子だけでも子供ができる可能性がある、とあったのを憶えているが。その時は可能性で、今はどこまで解明できているのだろうか。 何より、そうして産まれたイエス様は力があった。イエスは医者なり、という讃美歌があるように病人を癒し、そして、高度な知恵を持っていた。そして、クリスチャンとして大事なところはこうした、聖霊に満ちた力のあるイエス様の本質は愛であったということ。 昔、子供の頃に母親から聞いたのは、かなりの重篤な病気だった人が、ある時医者が検査をすると、医者にも理解できない回復が起こっていた。という話、横で父親がそういうことがある、と言っていた記憶。 マルコ11章になるが、キリストがいちぢくの木を枯らす場面がある。空腹を憶えて、いちぢくのなる季節ではなかったが、葉のほかには何もないのを見て、「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」と言う。次の朝、弟子とイエスがそこを通りかかると、いちぢくの木が根ごと枯れていたという場面。 個人的な解釈だと、いちぢくの木にも意識が存在していて、細胞一つ一つにその意識が存在する。小さな命の意識で微細なもの。それをイエス様はその細胞の意識を負の方にベクトルを働かせた、という私の解釈。みるみるうちに、それら意識は死の方に向かって行った。 また、中島らもの小説で「ガダラの豚」という小説がある。題名を気にせず楽しんで読んでいたが、聖書から引用した題名だと後に知る。 ガダラ人の地にレギオンという悪霊たちにつかれている人物がいる(正確に言うと悪霊たちにつかれていたからレギオンという名前。もとは何ていう名前かは知らない)。悪霊はイエス様にひれ伏して、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願う。山の辺りに、豚の群れが飼ってあり、悪霊たちはその豚に入ることを許してください、と願う。イエス様がそれを許すと、悪霊たちはレギオンから出て、豚に入り、すると豚の群れたちはいきな

焼きの肉。

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いくつか理由があるようで、なにか言っている。 本質をどこに置いているのか。 わたしには分からない。 向き合うことも体力がないし、向き合うほどのまじめさもない。 ただ、生きて、人の性質のことや そこにある声。 ここは平和だから、いいことばがり見て、 いいことばかり、あって欲しいから、そう伝えて、 ああやって、静かに手をやって、抱きしめたい。 年だな、と思うことは思ったより夏の暑さにやられていた、ということ。何か、元気がない、と思って昨日はスーパーで豚の焼き肉用の肉を買ってにんにくもみだれで食べたら、結構今日は元気だ。果物のプラムも買っていて、昼、さっと水で洗ってかじるとすごく元気が出た。今日も肉を買おうと思って、40%offだがいい肉を買ってしまった。訳ありのプルーンも買った。昨日はそれぞれ20%off。正直にそこまでお金で苦しいわけではない。しかし、自分で稼いでいるということでもないので、うーん、でも、ちょこちょこ楽しもう。 おれ、結構やることやっているんだな、とは思っている。少しは貢献しているのだと思っている。普段、暮らしている意識の中には1%くらいしか脳みその中にその思いは存在していない。あれはそうなのかなあ、とかインターネットやニュースで観た時は、わくわくしているけれど。もし、そうなのなら、まだまだどうやっていいかわからないし、現実味がないけれど、私のやりたいことにも協力してほしいと思っています。お願います。ちゃんと自分の力を持ってくれたら、と子供には思うし。自分が嫌な思いとか、しんどい思いをしているから、若いうちはしんどい思いもしてはいいとは思うけれど、嫌な思いはそんなにしなくていいと思うな。何ができるんだろうな。

上手に自分の機嫌をとる。

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 以前、友人(猫)に手を挙げて挨拶を示すと、 立ち止まって、右足をぺろぺろと舐めて、 緊張か、照れか、それを隠して、 そのしぐさが私に興味を持っていてくれていることを、                                                    愛らしい、と思った。 最近、ちゅーるを袋を見せて、大きくそれを振ると、                                                      あくびをして、もう、いらねえの意思表示をしてくれた、 新友がいる。 友人(猫)らしく、なぜか頼もしい、と思った。自由でいるのだ。 なんて、それらしいんだろう。 すっと入ってくるその時は美しい時だと思っている。引っかからずに引っ張っていける。酔っている。この時間も好きだ。多分、ごまかせている。日常のあまりある時間の寂しさを。情熱の隣で火をくべること。それが時々掘り返すのだ、良かった事を。 ギターも英語もやる気が失せている。出来ないことはないが、今は無理をしないでおこうと思っている。本はさすがに読もうと思って、結局喫茶店を使い始めている。前からの習慣が助けてくれる。本当に何もしないって恐るるべきことだと思っている。
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 夏の閃光が、進行していて、 私はそれを見上げている。 じっとりと汗ばむ朝は、思うよりは嫌いではない。 冷水を浴びてこの季節を過ごしている。 世界では大変なことがある中、 私は衰弱しては、起き上がって、 祈りを本当に知るチャンスなのだが、 弱さが間違いなく圧倒的に勝っている。 書いて思った。私はそんな大層な代物ではない。 くだらない、弱弱の人間だった。詩を変更している。 あの経験やあの状態。 それらにより、向こうの世界があることを信じている。 良かった。信じている。 神様が創ったこれら配列のことも信じている。 それらにより、向こうの世界がなにを求めているのだろうか。 いや、何を見ているのだろうか。 神様が組織以外の波長で答えてくれたら、と思うことがある。 私は信じて良いのだろうか。 人間だから、人間的な言葉が多くて、 それは自分の思い上がりだとは自覚している。 神様は人間だから人間的な言葉を与えている。 拭いても拭いてもカメラの汚れが残る。どうやったら撮れるのだろう。液を付けてないから今度やってみよう。 ぐうう、と睡眠に入ってしまって、やってしまったと思っていました。若年性の認知症になるのではないかというくらい情けない生活をここ最近している。ちょっと病的だな。 こういう生活でも、やっていけているのは、小さい頃の明るさなのだな。藤子不二雄とか赤塚不二夫とかその他明るいアニメや漫画を観ていたおかげで、一人で生活の中自作自演をして生き延びている。ぐーふふー、とか言って何とか過ごしている。 夏だなあ、とうなじからぽたぽた垂れる汗を感じて思っている。暑いけれどやっぱり冬よりは夏の方が好きだな。 色々あって、色々だけれど考えればそんな大した人間でもないのだよな、と過去を思い返して特に精神的なところを見て思う。

夏は美味いぜ。

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  暑い。夏まっさかりだ。何だか物寂しくて、ブログを書く。こういう夏に味楽園がなくなったのも寂しい。久しぶりにらーめんが食べたい。瓶ビールと。 プレゼンしたいアイデアが2つある。まだ完成ではない。よくある、男子小用のトイレと家にある大もできる便器の一体型のトイレだ。男子が小をするときに、ほぼ散らない仕組みにしたい。今のアイデアの段階でほぼ散らないだろうと思う。水は沢山使うかもしれない。もう1つは靴下を洗濯するときの1組ホールド輪っかだ。靴下の片一方が何処に行ったとかならないための。お風呂に入る時に靴下を脱ぐことがほとんどだと思うが、その時に細い先が尖りすぎていない輪っかの先を靴下の先にぷつっと2つを通してホールドする。輪っかを留めて靴下を溜めて行き、洗濯する時はネットに入れて洗濯(がらがら音が出ない様に)。そのうちホールド輪っかがメジャーになってきて、靴下も靴下の先にホールド輪っかを通すための紐の小さい輪っかが付いている。になったらしめたものだ。こちらはアイデアはここで完成しているかな。洗濯したらそのまま輪っかを洗濯ばさみに挟んで干すことが出来る。 アイデアを気付いた感じ。↑ こういう感じは昔からの経験で嫌われる。 しかし、物寂しい。味楽園はこの感じを解消してくれる時が多かった。美味しい刺身が食べたい。海鮮の揚げ物とか。雉肉とか。自分で作るのが面倒だから、お店にふらふら寄ってふらふら帰りたい。どうどうと胸を張って暖簾をくぐりたい。赤丹がなくなった。味楽園も。ドライブをしていて、多分海鮮北斗もなくなった、か改修工事をしている。大分昔に行ったrica-ricaに行きたい。マスターこわもてだけど、鱧の洋風に調理したのを食べさせてくれた。旅行中に見立てた組織だろうお姉さんと分けて食べた。 書いていて今日はスーパーで刺身を買おうと思った。2種類くらい買おうと思った。今くらいも、食べ過ぎないでいい観点からはいいか。しめ鯖とかつおがあれば買うか。料理はしない。安くなるまでも待たない。飲み物も多めに買う。 贅沢したくない訳ではなくてどうどうとできない。しかし、これくらいもいい。時々どうどうと暖簾をくぐりたい。

上がったり、下がったり、どこかでそれを楽しんでもいる。時々、穴倉もあるから気を付けて。

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  嫌味なブログを書いていたので、不安になっていた。今日はよく寝た。更新されたからここにいるわけで。なら、ギターも上手くなっていたらなとは思うが、そこは積み重ね。自分では少しは上手くなったことを感じている。ちゃんと弾いていなかったのだな、いままで、と思った。基本的なことができていなかった。まだまだだけど。 こうやって時間がある中で、これだけ時間を無駄にして、とも思うがこの感じが私の生きるリズムでもあるかな。自分のスケベ心が人として、大人として恥ずかしいと思う。ただ、見かける若い子は坂を自転車を押しながら、単語を多分だが見ている姿とか。元気を貰える。 気力は強くはないが、まだ私も伸ばせることはあると思う。英語だって通じるくらいには話せるようになりたい。理解もできるようになりたい。何度も思うがちゃんとした人になりたい。オスなのだよな。人の気持ちを感じ取れない。情けないなと思う。

想い出

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夏の竹林の空が、 光を揺らす場所を 私は歩いて明るい、 と思っている。 きらりと輝いて、 夜の海に流れ星を見た。 消えないうちに、 願い終えた。 神様に願えばいいが、 しかし、 流れ星は 輪郭をはっきりと描いて、 描いて落ちて、 海に深く潜ると思ったが、 その前に消えた。 とても力強くて、 わたしは願い終えたあとの、 暗闇を恐れはじめていた。 おれには分からない世界だ、 と、 さようなら、と。 手を振ってしまって、それから半分を生きようとしている。 時に味わいたいように、暗闇は存在している。昔のこどものチュウインガムみたいに。 味わいたいなら、明るい命を、朝にくだものを食べるように、幸せに。 最近特になのですが、写真を見てイメージしたり、思い出を手繰ったりして、詩をバインダーにA4コピー用紙に挟んでボールペンで書いたあと、ブログに書くのですが変わりますね。もとからそうなんですが、最近は変わるなあ、と実感しています。あんまりだなあ、と手書きで書いた時は思っていた詩も時々、パソコンで打つと表現が変わっていって、いいか、と思うような時もあります。パソコンの字はしっかりしているし。 いいんじゃない、という私の字に対して何となくの呼びかけがある気もしますが、もう少しだけ、味があるとしても綺麗にかいてみたいと思いもしますが、努力する気もしないし、いもい字からパソコンに打つ時の変化を楽しみもしていますね。 恵まれているな、と思いますね。もろもろのことは置いておいたとしても。(嫌なことね) 愉快に生きたいと思いますが、暗闇の味も知ってしまっていて、でもやっぱり楽しく生きたいですね。 糸井重里さんですが、名前を知っているくらいで、すごい人だとは知っていましたが、よくは知らなかったです。でも、知るきっかけになった時、そのホームページで男の人と二人で男用スカートかなそれを履いて、二人でにかーって、笑っていた写真を見て、すてきな人だな、と思ったのを憶えています。

列王記3章から12章

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まとまり切れていないが、この辺は頭に入っていない所なので、書く。 ダビデ亡き後、ソロモンがイスラエルの王となる。 ソロモンの夢に神様が現れて、「あなたに何を与えようか。願え。」と言われる。 ソロモンは「善悪を判断してあなたの民をさばくために聞き分ける心をしもべに与えてください。~」と願う。そして、それに神様は応答する。 3章16~28節にその知恵の一例が書かれているが、ここは昔、アニメで観ていた一休さんと漫画で見た大岡越前の裁きが思い出されて、ほぼそれと一緒なのだよな。 ソロモンの前に二人の遊女がやってくる。一人の赤ん坊は死んでしまい、それは(もう一人が)先の一人が寝ている間に死んだ子にすり替えた、朝起きると私の子ではない。生きている子は私の子(先の一人の子)だと主張する。生きている子を抱くもう一人はいいえ、私の子だ、と二人は言い争う。 ソロモンは剣で二つに断ち切り、半分ずつにしろ、と言う。 生きている子を抱く、もう一人の母親は自分の子を哀れに思い、生きている子を(先の)あの女にあげて下さい。決して殺さないで下さいと言うが、赤ん坊が死んでいた先の女は、その生きている子供を私のものにも、しないで断ち切ってください、と言う。 ソロモンは赤ん坊を抱くもう一人の女が母親だ、決して子を殺してはいけないと裁きを下す。 ソロモンの国は栄華を誇る。700人の王妃、300人のそばめを持ち(そんなにどうするのだ、と思うが)しかし、その中にモアブ人、アモン人、エドム人、シドン人、ヘテ人の女がいて、それはかつて神様がその中に入ってはいけない、必ず彼らの神々に従わせるからだ、と言った国々の人たち。 そして、確かにソロモンは年をとった時、シドン人の神アシュタロテ、アモン人の神ミルコム、モアブの神ケモシュに従うようになる。(あまりよくない儀式が行われていたよう。よく出てくる宗教のバアルも良くない慣習がある。) 神様は「あなたがこのようにふるまい、私が命じたわたしの契約とおきてとを守らなかったので、私は王国をあなたから引き裂いて家来に与える。~」 11章11節から13節 とソロモンに告げる。 手腕家であるヤロブアム、ソロモンに多くを任されていたが、預言者アヒヤに主(神様)はこう仰せられる。「見よ。私はソロモンの手から王国を引き裂き、十部族をあなたに与える